太公望の竿
世の中、面倒臭い奴が必ずいるものだ。
お偉いさんの定めた行動規制項目の中には遊漁制限がある。要は釣り禁止ってこと。釣り自体で感染が広がるわけじゃないのだが、評判の釣り場にはぎっしり人が集まり、それも長時間滞在するので制限しているわけだ。飛沫感染だけの感染症ならいざ知らず、俺たちが相手をしている感染症は未だ正体が掴み切れていないそうだ。
俺たちWHAは、その正体不明の感染症と戦っている。幹部連中は医者や獣医、感染症研究者、微生物学者、それにIT技術者なんて奴らだ。もちろんそいつらだけで世界中の政府を抑えるなんてことができるわけがない。
そこで当然、俺たち荒事専門の人間がいるって寸法だ。俺たち荒事専門の連中は元軍人や自衛隊員なんてのが中心だが、中には俺みたいな警備員上がりなんてのもいる。もちろん、そんな俺らは今も警備やら幹部の護衛、その他雑用関係で給料も安くていじけたくもなる。その代わり、おっかねえ「巣突入作戦」なんかにゃ声もかからないぶん、俺の気には合ってる。
ああ、素人さんに「巣」って言ってもわからねえよな。俺たちの隠語で、感染症の超濃厚区画だ。俺にゃ難しいことは分からねえが、どうも患者さんが多いってだけじゃねえようだ。詳しく訊くと教えてもらえる代わりに中枢作戦に入れられるなんて噂もあるから、俺は興味ないことにしてる。
見ざる言わざる聞かざる。ブラック企業から警備員、そしてWHAに転職した俺の人生訓だな。最初の職場なんてお前、法律は破られるためにある、ってえのが会社のモットーときたもんだ。俺もあそこでメンタルやられかかったんだが、今となってはWHAにこそこそしながら禁止期間に営業していてつぶされてやんの。ざまあみろだあのタコ社長め。
だいぶ脱線したな。今日はその、面倒臭い奴の指導ってのがお仕事だ。人気の釣り場じゃなく、コンクリートしかないような場所で釣り糸を垂れているくそじじいがいるらしい。わざわざ通報すんなよそんな奴。周りに人も集まらねえだろうが。
だが通報があったからにゃWHAのメンツもあって行かにゃならんってんで、適当に見繕ってお前行ってこいやという調子だ。ほとんど訓練扱いだがちょいと出張手当も付くあたり、曹長さんもわかってやがる。マジ曹長は良い兄貴分で、だからこの下らない仕事は文句言わずに来たってとこだ。
だがほんと、下らない仕事扱いだってわかるのが、俺一人で出張だってことだ。普通ツーマンセルだろ一応は軍隊なんだし。みんな忙しいし一人でできるよね、ってまあ曹長の信頼だと思っとくけどよ。
車を降りて見回す。防護服越しじゃ潮風も分からねえから何とも寂しい限りだ。WHAのない時代なら、砂浜でみんなでバーベキューでもやりたいぐらい良い天気なんだけどよ。
誰もいないコンクリート護岸を歩いていると、一人誰かが護岸に座っていた。これが話題の太公望じじいか。近寄ると、少しはげ上がった白髪頭のくせに、アロハシャツに短パン履いてサーフボードを座布団代わりにした、やけに若作りのじじいだった。
「WHA保安部ですが、当該地域は遊漁制限地域に指定されています。遊漁はご遠慮をお願いします」
やったここに来るまで練習していたフレーズ、一発で言えたぜ。じじいは俺を見上げると笑みを浮かべて言った。
「そうかそうか、ここは遊漁制限でご遠慮か。わし、図々しくて遠慮知らずなので遠慮せんわ」
おいくそじじい。言いたいところだが、曹長の気早を抑えろって言葉を思い出して深呼吸する。こういうときの台詞は、あれか。
「申し訳ありませんが、現在は可能な限りのご協力をお願いしているところです。ご協力していただけない場合には、当方の軍事的強制力を発動することもありえますので」
ぶん殴るぞこの野郎ってのを長ったらしく言うとこうなる。うちは元々がクーデターから始まっているから、やるときはやるってことはみんな知っているはずだ。するとじじいは怪しい笑みを浮かべて竿をあげた。
「わしのこれ、遊漁かの?」
系の先には針がついていなかった。何だこのじじい。おちょくってるのかおい。まじで殴りたいが、それで懲罰を受けるのはつまらないし、俺をかばってくれそうな曹長の溜息顔を想像しちまうと手が出せない。
するとじじいは少し真面目な顔になって言った。
「お前さん、大したもんじゃな。自分を抑えられたか」
「あのなじいさん。いい加減、俺も怒るぜ」
「悪い悪い。わしもちょいと、エア釣りとエアサーフィンを楽しみたくての」
「エア、何だって?」
じじいに似合わない横文字が急に出てきたので俺は慌てて聞き返す。するとじいさんは遠い目で語った。
「わしの店にゃ以前、サーファーと釣り客が来て楽しそうにしていたもんさ。ロックダウン以前の話だよ。お前らWHA発足前の話さ。そんなのすっかり消えて、当時の客と話すとネットでエア何とかやらVR何とかをやっとるそうだ」
「そういう時代だよじいさん。俺も外でバーベキューやりたいが、隊内でフライパン使って肉炒め食って我慢してるよ。それでも完全封鎖、完全栄養食で日々過ごしている特別地域よりはだいぶマシだぜ?」
「人間はな、誰もが思い出と一緒に生きるのよ。ただ、人生が進むと一緒に生きる思い出の方が現実より多くなってしまうのよ」
じじいの言葉に、俺は何となくうなずく。だが俺にとって、それほど思い出が重要だとは思えない。つか幾つも辿ったブラック企業の上司どもとか思い出っつーよりかは悪夢だろあいつら。
「悪夢みたいな経験もまた、思い出の一つよ」
「人の考え読むなよじじい」
「亀の甲より年の劫。じじいの特権だな」
このじじいに口で勝てるとは思えない。俺は頭を抱えたくなる。ただこのじじいをぶん殴ったら俺の負けだってことは、俺でもわかる。するとじじいはあっさりと立ち上がって言った。
「わしの話をまともに聞く奴なんぞ、WHAみたいな理屈っぽい組織から来るわけがないと踏んでいたんだが、悩む奴を送ってくる辺り、わしの負けじゃ」
「何だそれ」
俺の呟きにじじいは笑い、竿を担いで陸に向かって歩き出す。
「きちんと考えようとしたお前さんと、そんなお前さんを選んだお前のボスの勝ちってことだ。今夜は少し楽しい酒が飲めそうだ」
じじいが勝手なことを言いやがって。腹が立つ一方で何だか俺もおかしくなって笑った。
俺はコンクリート護岸をあとにすると、今日のじじいの話をどうやって報告書にまとめれば良いか、頭を悩ませ始めた。