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パルフェ・タムールの芳香

「Blue Moon」

「Viora Odorata」

 合言葉に、僕はそっと鍵を開ける。男はほんの少し開けた扉から店内へと滑り込んだ。

 ここは廃ビルの地下一階。古いテレビゲーム機やソフトを販売していたマニア向け店舗の跡地だ。この類の店は、隔離政策後に全在庫を売却して解散したか、ネット売買業態に変更し日陰の店舗業態は絶滅した。そんな場所だからこそ、僕の店の隠れ蓑としてちょうど良い。

 僕はお客様から、カシミアのチェスターコートとダークブルーの中折れ帽を受け取って木製の洋服掛けにかける。お客様はカウンターの席についた。椅子も洋服掛けも父から受け継いだ、当店自慢の北欧製家具だ。どれもかつては、職人さんが丁寧に手作りしていた天然木の家具だが、今は隔離政策の中、 3Dプリンターを応用したリモート制作による合成板の家具しか手に入らない。

 お客様はN95マスクを外して深呼吸し、目を細めて奥の棚を眺める。僕は黙ってお客様を待ちつつ、背中の棚に並べた酒瓶を一緒に眺めた。

 アイラ系スコッチの名作、ボウモアやラガヴーリンは正露丸臭とも評される癖の強い泥炭の香りがあり、お客様の好みは真っ二つに分かれていたのだが、今は感染爆発で薬品臭に飽きているからか全く出なくなった。

 だが、ちょっとしたバーなら当然備えていた、シングルモルトでは代表的なマッカランすら、手元には一箱しか残っていない。ストリチナヤやスミノフといった、カクテルに重宝していた著名なウォッカたちの工場も、大半が殺菌用エタノール工場に振り向けられてしまった。

 WHAは世界の実権を握ると、酒税と食品衛生、公衆衛生を所管する国家機関を抑え、酒造工場を分類した。ウォッカのように味や香りの成分をあまり残さない蒸留酒の工場は原則、消毒用エタノール工場へと強制的に業態転換させられた。その他の酒造工場も、原料生産から瓶詰に至るまで人を介する工程を合理的に排除され、芸術的と讃えられたスピリッツの香りは大半が喪失した。

 そう、スピリッツ。父の魂はWHAに否定された。もちろん父から承継した、僕の店も。

 父から継いだパルフェ・タムールは昔ながらのショットバーだ。カクテルの果物は妥協せず、生の果実を使用する。カクテルベースの酒は良心的な価格とするために熟成年数は抑えつつ、なるべく良いものを。ストレートで飲まれるお客様へのお冷やには、氷の水質にも気を使う。父の代からずっと続けてきた、大切な看板だった。

 でも今は、その看板を掲げられない。

 ショットバーは現在、WHAの営業禁止業態店だ。でも、この長い隔離政策に疲れている人は多い。酒に頼るなと安易に言うけれど、少しなら頼っても良いと思う。だから僕の店は、ほんの一杯のショットかカクテルだけだ。でも、その一杯が安らぎになるのであれば。

 お客様は迷った末、意外な酒を指差した。アップルワインだ。ごく安くて甘くて褐色のお酒。失礼だが、中折れ帽にチェスターコートなんて紳士より、淡い色をしたふわふわのニットを着るような若い女性が好むお酒だ。重ねて確認すると、お客様はつぶやくように言った。

「私と後輩の彼は、アップルワイン工場のある街の出身だった。一緒に公衆衛生を学んでいた、優秀な男だ」

 僕は皆まで訊かず、黙ってうなずいてグラスに氷を入れると、銀色の鼓型のメジャーカップでアップルワインを計って注ぎ込んだ。三回半ステアしてお客様の前に置く。お客様はゆっくりと一口だけ飲んで溜息をついた。

「彼との連絡が途絶えた」

 言葉が見つからない。現実世界での交流を制限されている現在、仮想空間での唐突な連絡の途絶は、感染かWHAの暗い影が忍び寄る。

「まあ、それだけなんだよね」

 お客様は無表情でアップルワインを一息に空けようとして軽く咳き込み、苦笑すると今度はゆっくりと飲み干した。お客様は立ち上がってマスクと中折れ帽、そしてコートをまとってカードを示す。僕は雑貨店名義のカードリーダーを使った。僕の店の売上は安全のため、偽装会社を通して入出金している。

 お客様はありがとう、と短く言って扉を開けて店をあとにした。今日のお客様は一人だけだろうか。僕は溜息をつきながらグラスを洗い、水を拭き取ろうとした。

 涼やかな鐘が鳴って鍵をかけているはずの扉が開け放たれ、防護服に身を包んだ集団が店内に雪崩れ込んだ。

「WHA取締部だ。動くな」


「パルフェ・タムールに間違いないね」

 防護服の集団は総勢五人で、黒い防護服を着た代表者らしき男が声を発した。残り四人は純白の防護服を着ている。僕が沈黙していると、男はゆっくりと決定的な合言葉を口にした。

「Viora Odorata」

 僕は体を固くする。男は続けて言った。

「合言葉はニオイスミレの学名だね。店名の由来となった、パルフェ・タムールと呼ばれるリキュールの原料に必須のスミレ科の植物だ」

「よく、ご存じで」

「私は本来、植物検疫関係が専攻でね。それにニオイスミレの穏やかな青に近い、優しげな紫色は、私も好きな花の色ですよ」

「残念ながら、私はお酒とばかり付き合っていて、原料の花は見たことがないのですよ」

「それは残念です。もし機会があれば見ていただければと思いますよ」

 機会があれば、という声に一瞬だけ震えが入る。黒服の男は研究者系の幹部か。僕の店に来るなら荒事専門の軍人を向けることはないだろう。だが彼の声の震えに、僕は気持ちが沈み込む。防疫専門の軍事組織がどのような裁判を行うのか、僕も詳しくは知らない。

 四人が動こうとしたとき僕は声を発した。

「もし可能なら、連行される前に一杯だけ、カクテルを飲んでいきたい」

 黒服の男は、少し考え込んでうなずいた。

 僕はシェーカーに氷を入れる。店内に涼やかな音が響いた。続いて銀色のメジャーカップを手にすると、ドライ・ジンを背の低い方でなみなみ一杯入れる。次いでレモンを絞り、その汁をメジャーカップで半分ほど量って入れる。そして最後に濃厚な紫色の酒瓶を手にとる。

 一瞬だけ迷い、紫色のパルフェ・タムールをメジャーカップで半分ほど量ってシェーカーに注いだ。ふわりとバニラの甘い香りが店内に漂ったけれど、この場では防護服を着用していない僕しか楽しめない。

 シェーカーを振る。できることなら今の時間を引き伸ばしたいけれど、水で薄まったカクテルを飲むほど落ちぶれたくはない。僕はカクテルグラスを手に取って、そこにカクテルを注ぎ込む。

 幻想的な薄紫色のカクテルが現れた。

「ニオイスミレの色ですね。何というカクテルですか」

「ブルームーンです」

 僕はさらりと答える。黒服の男は手元の情報端末で検索して首をかしげた。

「かなわぬ恋、という意味があるのですね」

「僕はこの店に恋していましたから」

 男はうつむいて視線を逸らす。僕はブルームーンを口にした。リキュールの甘さとバニラのみではない複雑な香りに、アルコール以上の酩酊が呼び込まれる。これが逮捕前の一杯でなければどれほど良い一杯だっただろうか。今日の出来は格別だと思う。

 飲み干した僕はグラスを置いてゆっくりとうなずく。四人の男たちは無言のまま僕を捕らえ、棺桶のような隔離室型担架に押し込んだ。

 ふたが閉じられる前にパルフェ・タムールの瓶が一瞬だけ目の端に映り、できるならば実物のニオイスミレを見てみたいと思った。

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