キスの日
今日、5月23日は「キスの日」だ。太平洋戦争から間もない時期に、日本初のキスシーン入りの映画が封切り上映された日だ。今は意味が変わってしまったけれど、それでも「キスの日」という名前は変わらない。
仮想現実ならいつでも会えそうだけれど、私は深夜近くまで続く在宅勤務で疲れ果て、仕事が終わればそのまま寝てしまう日々がこの一か月もの間、ずっと続いていた。でも今日はやっとの休日だ。
私はVRディスプレイを被り、仮想現実にある東京の下北沢駅に立っていた。街角の人たちはみんな、自由にファッションを楽しんでいる。仮想現実だからなのか、着ぐるみの人までいる。
下北沢は昔から日本演劇の中心地で、それはWHAの感染症対策で生活のほとんどが仮想現実に移った今も変わらない。むしろ稚内在住の私みたいな娘でも簡単にアクセスできるぶん、現実時代以上の活気だそうだ。
下北沢駅前の仮想演劇場で偶然に出会った、あつき。漢字で書けば蒼月って、少し華やかな印象の名前。秋葉原と稚内在住の私たちは、仮想現実だからこそ偶然の巡り合わせで出会い、すぐに意気投合した。
二人で観劇して感想を言い合って、たまにはけんかもして。カクテルにも詳しい大人の彼に、ほんの少しだけつま先立ちの背伸びで合わせる時間が幸せで。隔離政策の外出禁止が終わったら現実の下北沢で会いたいって。
キスは何度も交わした。仮想現実の中だけれど。リアルではまだ、彼の指先に触れたことすらないけれど。
でも私たちは、キスを交わした恋人だ。
ふと、隣りの子が中空を眺めたまま表情をゆがめて、「キスの日」とつぶやくと唐突に消滅した。強制ログアウトしたらしい。
今度は私の目の前にウィンドウが開いた。蒼月からの文字だけのメッセージだ。
「今日のデートは行けない」
私は慌てて音声入力でメッセージを送る。
「今日は来られるって約束していたよ」
「今日は、キスの日、だから」
返事とともに、蒼月から一枚の画像が送られてきた。赤いキスマークに黒い通行禁止の丸とバツ印を重ねた、絶望の意匠。WHAが感染症対策として公開した動画。見送る葬列すらなく、感染遺体を満載した冷凍コンテナ車の長く連なった車列を背景に表示された、この画像。
キスの禁止。
そしてゆがめられた「キスの日」の意味。
一年のうち、WHAが公開したキスの日の画像さえ送れば、自由に別れを告げられる日。
私はその場にくずおれる。街を行く人は私になんて気にも止めない。中には一瞬だけ足を止める人もいるけれど、VRカレンダーを確認して、ああ、とつぶやくと通り過ぎていく。
私は現実世界でVRディスプレイを脱ごうとして、先ほど強制ログアウトした子のことを思い浮かべた。今の私も、あの子と同じ。
空を仰いで、空中を舞う数々の演劇ビラをぼんやりと眺め、ふと一枚の奇抜なビラをつかんだ。「キスの日をぶっ飛ばせ」という題名と、ヴァンパイア系VRアイドルが演じる、壊れた笑顔のヒロインが滑稽だ。
私は蒼月と観るはずだった恋愛劇をキャンセルして、つかんだビラの予約メニューにログインした。




