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エデンの蛇

「なんとか、娘に会いたいのですが」

「まことに残念ですが、『クリーンルーム』の住民の方を感染区域内へ入れることはできません」

 衛生兵は申し訳なさそうな表情を浮かべつつ、もう聞き飽きた言葉をまた繰り返しました。

 衛生兵と言っても昔の軍隊で言う衛生兵ではなく、衛生管理を担当する兵隊という意味です。彼はこの区域に住む私たち市民への衛生管理の啓発活動が担当なのだそうですが、実際は市民の苦情対応係のように働いておられます。もちろん、私のような平凡な老主婦は軍隊組織なんてよくわかりませんけれど、今の生活で少しは軍隊の知識もつくのは当然です。WHAの動きは常に報道されているのですから。

 感染症により一変したこの世界を科学知識で、ときには軍事力で抑え込むWHAの大切さはわかります。そしておそらく、科学的に正しい判断をされていることも。とはいえ、ほんの少しだけでも娘に会いたいのです。

「私もこれが仕事ですので。他の方も我慢されておりますし、軍令は絶対ですから。ご理解をお願いします」

 衛生兵はまた申し訳なさそうな顔で、彼の背中にそびえ立つコンクリート製の擁壁を仰ぎ見ました。この区域は通称、クリーンルームと呼ばれております。非感染区域ですので他の感染区域から保護されているのです。

 続けて衛生兵はWHA配布の携帯端末を示しました。

「こちらの携帯端末の使い方はご存じですよね? 端末で娘さんとは連絡をとれるはずですよ」

「そんなことはわかっております。もう何年、娘と会えていないと思っておられるのですか」

「善良な市民の皆様の健康を守るためです。どうか感染区域内が基準値に低下するまでお待ちください」

「貴方たちは、私たちを守ると言っていますけれど、この壁は私たちを閉じ込める壁ではありませんか」

 声を荒げた私に、衛生兵は表情を変えず答えました。

「どちらが隔離されているのか、その議論に生産性はありません。本質は感染者と非感染者との隔離ですから」

 どれほど彼はこの議論を繰り返してきたのでしょう。衛生兵より刑務所の刑務官にでもなれば良いのに。東京に進学した娘がどんな生活しているのか、心配でたまらないというのに。心配な気持ちは、安心の感覚は仮想空間越しでは伝わらないものなのです。

 一時期、娘はお酒には弱いくせにアップルワインを飲んでみたいと言っておりました。何でも、仲良くしているお友だちの方の故郷に醸造場があるそうです。娘はお友だちと言って、上手にごまかしているつもりのようでしたが、母親の私はその関係を察しておりました。

 しかし最近は、そのお友だちの話を全くしなくなりました。私の手作りマスクとともに送った食べ物をきちんと食べているのか心配で。ネットの向こうにいるはずの娘は、違う世界の住人になったように思えてしまって。

 クリーンルーム内では、世界感染爆発以前に近い生活をしています。でも、守られているはずの私たちは他の区域に行くことができません。アダムとイヴは蛇の誘いで知恵の実を食べて世界へ追放されましたが、クリーンルームの蛇は駆除され知恵の木も伐採され、永久に楽園内で生活する定めになっているのです。それはむしろ、無感染を原罪とした牢獄にすら思えてしまうのです。

「まことに残念ですが、クリーンルームの住民の方を感染区域内へ入れることはできません」

 衛生兵が、また同じ言葉を繰り返しました。

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