「雨」
雨が降っていた。
夕立ちと呼ぶには少し長く、あなたを見つけ、声をかけようか迷った私が、ようやくそれを届けようとするまでには、ほんの少し短い時間。
それがすべての始まりで、それが私のすべてになった。
窓を開けて外を見ていた。
夏の盛り、春を経てますます輝きを増す世界。そんな、放っておけば燃え尽きてしまいそうな世界を、優しく包み込むように雨は降っている。
母が子をなだめるような慈しみのようなものを、雨の音に感じていた。
部屋から見えるのはいつもの風景。目の前には瓦屋根の家が並んでいる。私が暮らす家は少し急な坂の途中にあって、晴れた日には海から昇る朝日を見ることもできた。
うちから見て一つ下が清水さんの家。その下は東さんで、一番下の家は床屋の吉永さん。その前には片側一車線の海岸通り。そこを渡れば砂浜へ下りることもでき、家族で花火をしたこともある。
大粒の雨は相変わらず、屋根をぱたぱたと叩き続けている。淡いフィルター越しに見るような、白く霞んだ景色。少しずつ、心がどこかへ遠のいていく気がした。
坂道を間に挟んで吉永さんの家の反対側に、小さなバスの停留所があった。木造りの壁と屋根。四人座ればやっとの、青いプラスチックのベンチが一つ。バス停は、私の部屋に背中を向けた格好で、静かに雨にうたれていた。木目が色濃く濡れている。何か哀愁めいたものを感じた。
中の壁には、排ガスで煤けた時刻表と、自治体の掲示板、色褪せたポスターや落書きがあった。
落書きの内容は、お決まりの相合傘から、クラスの誰かにあてた罵詈雑言や、片想いの相手に向けた差出人不明の告白など、様々だった。
何度となく見かけた、そんな落書きのことを考えていると、バス停の影からふっと何かが現れた。
傘を差した誰かが自転車に乗って現れ、バス停裏にそれを停める。
背格好と制服姿から、近くの高校に通う男の子だとわかった。
傘で顔が隠れてよく見えない。青い傘を差した男の子は、歩き出してすぐに立ち止まった。そして、おもむろにしゃがんだかと思うと、黒っぽい何かを抱えて立ち上がった。
もぞもぞと動き回る様子と、時折雨音の隙間から聞こえる鳴き声で、その黒っぽい何かが子猫だということがわかった。小さなあばれん坊に翻弄されて、傘が落ちる。男の子は、雨に濡れることも、白いシャツが泥水で汚れるのもお構いなしに、大事そうに子猫を抱えて、優しく微笑んだ。
私はつい見とれてしまって、しばらく息をすることも忘れていた。脳がそれを汲み取って、慌てて信号を送る。唐突な酸欠。小さくけほっと咳き込んだ。男の子がふっと顔を上げる。
私は思わず座っていたベッドに倒れこんで、それから少し後悔した。どうせなら、気の利いたセリフの一つくらい言えばよかった。そう思って、その気の利いたセリフとやらを考えてみたが、私の持つ語彙力を考えれば、結局は何も言わなくて正解だったと、思い知るだけだった。
酸欠だけではない息苦しさ。胸の鼓動がやけに大きく聞こえた気がした。
しばらくして、バスのやって来る音がした。それからすぐに、停車する音。うじうじと少しの間悩んでから、意を決して窓からそっと顔を出した。バスの走り出す音。ひょっとして…とも思ったが、男の子は子猫と行ってしまったようだ。
落胆と同時に雨も上がった。雲の隙間から光が射す。蝉もジワジワと鳴き出した。目の前の全てが、鮮やかに色を増す。
私の心は、それほど晴れはしなかった。