(2)僕は自由だ
「ひばの香りがいいな」
しっかりときしむ背の低い廊下を、右へ左へ曲がってそろそろかなと思った突き当たりをまた右に。
奥入瀬は屋内もくねくねしているのかと、感心しながらなんとか男湯に着いた。
趣があるというのはこういうことを言うのだろう。
浴槽のひばが全てを物語る。
風呂桶や給湯設備はいたって近代的だが、浴槽だけはトウシンが生まれるよりもずっと前から、そこに座していたことが容易に想像できた。
サナルは部屋で寝ている。
ロックンロールな朝を迎えるのだと、夜中に起きて朝まで飲み倒すつもりらしい。
この山深い宿でロックンロールな朝を迎えれるのなら、次のローリングストーンズはきっと彼女だ。
蜃気楼を叫ぶ彼女を、僕は避けるように席に着いた。
はずだった。
彼女が僕に崩れ落ちてこなければ。
『ナイスキャッチ』
サナルは僕の膝の上で仰向けになりながら僕の首に手をかけてそう言った。
この事象は肯定されなければならない。
直感的にそう思った。
今となっては、僕の直感も大したものだと言わざるをえない。
それほど彼女は美しく、弱々しく、真っ直ぐだった。
それから僕らは今日までずっと一緒にいる。
神様が仕組んだ通り。
週の半分は喧嘩(一方的にサナルが切れるだけだが)しているものの、二人は互いを必要としている。
彼女は肯定してくれる人間を。
そして僕は否定してくれる人間を。
憎悪という言葉が定義するもの。
僕にとってそれは家族ということになる。
そこが施設だと知ったのは蝉時雨がこれでもかと降り注ぐ暑い夏の日だった。
その頃の僕は普通という言葉に憧れていた。
引き取られた先では常に、事務的に、事は進んでいた。
乾いた飯を喰わされ、薄っぺらい布団を渡された。
愛とは何かと考えたこともある。
しかし、すぐにそれは違う世界の何かだと気付いた。
明日を恨み、希望を妬み、僕を形成する全てを憎んだ。
一刻も早くあそこから出たかった。
僕という器を出たかった。
バイトに明け暮れ、ひたすら働いた。
そして今ここにいる。
生まれて初めて、生を感じている。
僕という器でよかったと思っている。
生きるということに対して希望を抱いている。
サナルが僕に生を与える。
僕は自由だ。
例え、彼女のロックンロールに一晩中付き合わされたとしても、だ。