三とニ
この街は何かが違う。
そう思うきっかけを、ボクはちゃんと覚えている。
とある公園でのことだ。
そこは"森の公園"と呼ばれていて、そこかしこに設置されている波打つような格好のベンチは木の根をデザインしたものなのだそう。
そういう感性に鈍いボクにはいまいち理解できないけど、ずっと昔から云われているならそうなのだろう。
風景はというと、テーマパークにある絵から飛び出したようなモコモコとした樹木が並び、ほとんどが薄茶と淡い緑に染まっていて。そのところどころにハーブの紫や黄と、赤や白の小さな花冠がピンと張った花々が隙間を埋めていた。
湿った柔らかい土が敷き詰められた道は、一歩踏む度にふわりと香り。
そんな土の香りに混じって木々の根本に植えられたハーブの清々しい香りが漂い、花々の甘さを引き立てる。
ここに来ると自分が妖精になった気になれるって、みんなそう言っていた。
だから昼夜関係なく、ここには何人もの人がいた。
だけどみんな静かで、一人ひとりが自分の時間を過ごしているっていうのが見ていてわかる。
ボクも、その中の一人だった。
そばに誰が居ても、目の前を誰かが通り過ぎても気にならなくて。
ボクはベンチの上に立って見通しの悪い森の中をぐるりと見回していた。
いつもやっていることだから、特に意識することはなかった。
でも。
この日、ボクは木々の隙間に"なにか"を見た。
見覚えがあるようだけど、いまいちしっくりこないもの。
カクカクしていて、ハッキリしていて。
それが文字だって気づくのに少しだけ時間が掛かった。
漢字の"三"の文字だった。
白く塗りつぶされたゴシック体の"三"。
下地は赤色をしていて、そこに涙のような黒い汚れが一筋見えた。
看板だ、と思った。
だけど、そんなものここにはいくらでもある。
新しい店でもできたのだろうか、とボクはそう考えて。でもすぐに違うってことに気づいた。
だってここは森の公園で、商店が並ぶショッピングストリートとは全然違うところにあるのだ。
この時ボクはあの看板が何かというよりも、"三"に続く文字が何なのかの方が気になっていた。
三三七拍子。
三角。
もしかしたら三ではなくてカタカナのミかもしれない。
いろいろと考えてみたが、どれもあのカクカクしてハッキリした白色の文字には合わないような気がした。
だからもう少しそばに、と思ったが、太い木々が密集していて先へ進むことはできなかった。
隙間に無理やり体をねじ込もうとしても、固くてどうしようもなく。
近付けないならしょうがない。
諦めてボクはそのまま家に帰った。
それからずっと、ボクは看板のことを考えていた。
看板のことを考えると、どうしてかボクには何か違うってことが感じられた。
◯
ふと思い立つと、いてもたってもいられない気持ちになった。
やっぱり、いつまで経ってもまどろみはやって来ない。そうやって数日の間ボクはベッドに横になると天井を見つめていた。
三。
あの看板の店は一体なんなのだろう。
いや。
あの看板の店が何を扱っているかなんてどうでもいい。
ボクはただ知りたかった。
あの看板がなんなのか。
その日ももう夜遅かったが、ボクはもう一度あの場所に行ってみることにした。
分厚い木の板で出来た床が、ボクの靴底の音を吸い込んでドクドクと鳴る。
毎日、毎秒聴いている慣れた音なのに、それが耳の奥で跳ねるとなぜか気分が高揚していた。
ボクは期待していた。
あの看板には何かある。
あれを知ることで、ボクは何かが起きるって妙な確信が持てた。
そういうものもボクを夜の街に追い出した原因だと思う。
その日油を差したばかりのドアを押してみると、ドアそのものの重さが感じられたのが新鮮だった。
本当に、まるで違う世界の扉を開いたかのようだった。
部屋の外に出てみると、いつも通り涼しい風が頭の上を流れていった。
人通りは無く、街灯の明かりが柔く道を照らしていた。
大体はフラットに整備されている石畳の道だが、こうして夜に限定された明かりの中で見てみると、ところどころ列をはみ出して盛り上がっているものが影を作って目立っている。
点々と、それは足の小さな巨人の足跡のようだった。
ボクは、その巨人の足跡を全部踏むつもりで森の公園を目指した。
その時は考えもしなかったが、森の公園には夜でも人がいるかもしれなかった。
でも実際は誰もおらず、猫がなんでもない道の真ん中でぼんやり空を見上げているだけだった。
構おうかとも思ったが、ほんの少しだけ猫に視線を送ったところでボクはその子への興味を失ってしまった。
見えたのだ。
よく覚えていなかったが、あの木の隙間の向こう。夜にも関わらず、例の三の文字は昼よりもハッキリとよく見えた。
それでボクは看板についてもう一つの情報を得ることができた。
それは、照らされていたのだ。
だから、間違いなくあれは看板だと確信した。
赤地に白い漢字の"三"が書かれた看板。
ボクは、吸い込まれるようにまた木の隙間に近付いて、目尻が擦りむけるほど顔を押し付けた。
三の次の文字が知りたかった。
それはもう、どうしても、というくらいに。
無理やり目玉に力を込めると、本当に飛び出ししまうような感覚に襲われたが、ボクは気にしなかった。むしろ、そうなってもらった方がありがたいくらいなものだとすら思った。
だけど、次の文字は知ることはできなかった。
だがそれでも、努力の甲斐あってボクはあの看板の他に新しい物の存在に気づくことができたのだ。
柵、だ。
看板よりも低いところに、細い白っぽい格子状の柵が横に伸びている。
これでボクには考えられることが増え、同時にボクは明日何をするのかをもう決めていた。
確かめる必要があると思ったからだ。
この街に柵で囲まれた独立した店があるのか、それを。
ボクは一旦二本の木の隙間から顔を離して、看板と文字と柵の他にあれを見ることのできる場所がないかを探したが、他の場所では角度の問題で奥の木々が邪魔をしあれを見ることはできなかった。
仕方がない、とボクは顔を横にして無理やりその隙間に頭をねじ込もうとした。
その時。
あの、と聞き覚えのある声が聞こえた。話した言葉は「どうかした」だったはずだ。
ボクはすぐさま木の隙間から顔を離して、背を向け、咄嗟に「猫がいた」と誤魔化した。
振り返ったそこにいたのは、みっきー君だった。
麻で出来たネイビーのシャツとベージュのズボンをいつも着ていて、青りんごフレーバーの紅茶が好きな散歩好きの、たぶん四十歳くらいの男だ。
彼とは散歩中によくすれ違うし、時々カフェで話したりもする。
服の趣味は全然合わないが、みっきー君はいわゆる聞き上手だから、ボクもそれなりに楽しく話をしていた。
みっきー君は、ボクが言った猫のことが気になっていた様子だった。
何色だったのか、どのくらいの大きさだったのか、猫の種類はなんだったのかとか色々と訊かれた。
この時ボクは、さっき見たばかりの猫の印象を少し変えて話をした。
みっきー君はそれで納得したように見えた。
それから、「夜の散歩も気持ちがいいね」とか「朝食を一緒に食べようよ」とかそんな話をした。
ボクは適当に相槌を打ったが、朝食を一緒にというところだけは断った。
朝食はミコちゃんと一緒に食べる約束があると嘘をついたのは、今日のことを考えて上手く眠れずにどうせ朝食の頃に眠くなるだろうと思ったからだと感じていた。
みっきー君はそれにも納得したようだった。
それじゃあまた今度、と彼と別れる時ボクはなぜかほっとしていた。
看板のことや柵のことを知られなくてよかったと思っていたのかもしれない。
しかし同時に、そうやって秘密っぽく嘘をつくことがなんだか懐かしい気持ちにもなっていた。
自分に浮かぶ感情がどこかおかしいような気がしながら、ボクは部屋に帰った。
帰り際、それとなく感謝を伝えようと思ったが、あの猫はいなかった。
◯
翌朝まで、思った通りボクは眠ることができずにずっと起きていた。
考えるのはやっぱりあの看板と柵のことで、知る限りの街とあれが見えた位置関係を知ろうと地図に起こしていたのだ。
地図は思ったより小さかった。
気がつけばボクはいつも同じようなところをグルグルと回っているだけだったのだろう。
おかげでボクは、自分があまり通らない道のことを知らなければと思えるようになっていた。
地図を小さく畳んでお気に入りのショルダーバッグに押し込んだ。
そうして部屋を出ようとすると、扉の向こうから「おはよう」とミコちゃんの声がした。
約束は嘘だったはずなのに、それがまるで本当のことだったと勘違いして、ボクは「そうだったね」なんて変なことを言った。
ミコちゃんは訝しげな顔でボクを見ていつものように笑って、「今日も散歩?」と訊かれた。
笑顔を含め、それがいつもと同じだと感じたのは、この時が初めてだった。
なんだか妙な感覚になって、ボクはミコちゃんにも本当のことを言う気にならなかった。
だからその後二人で行くことになった朝食の時間はとても長く感じた。
別にミコちゃんはあの看板のことも柵のことも訊いてくるわけでもないのに、どうしてかずっと不安な気持ちだった。
ボクは、あの看板や柵のことを知られてはいけないと思うようになっていた。
全部自分で解決したかったのだ。
誰かの手を借りてはいけないとそう思った。
朝食の後、ミコちゃんに買い物に誘われたが、ボクは「図書館に行く」と言ってミコちゃんと別れた。
しかし、それはみっきー君に言ったような百パーセントの嘘ではなく。
まず先に行くべきだと考えていた普段通らない道が図書館の脇に伸びていたから、ある意味で嘘じゃないともいえる。
咄嗟の誤魔化しだったのだが、これなら間違いなく図書館まではボクが目撃されることになるし、なかなかの機転だったと思う。
そのせいでボクは変に挙動不審にならずに済み、堂々と図書館まで辿り着くことができた。
図書館は、商店も部屋もがどれも同じような形をしている中で数少ない形の違う建物だ。
窓にはめられているガラスは薄くて透き通っていて中がよく見えるし、丸太や流木なんかで組み上げられた隙間だらけの皆の家とは違って赤茶色と黄土色のタイルできちんとされているし、三角の屋根も歪んでいない。
扉の木材も赤茶色でノブは金色で、ボクはそれをニ、三度しか触ったことがなかった。
結局この日もボクは図書館のノブに触れることなくその前を通り過ぎた。
曲がり角に立ち、うねうねと真っ直ぐじゃない道を眺めていると、そこが川でボクは押し流されてしまいそうな気持ちになった。
少しだけ恐怖に似た感じがしていた。
期待感が、その心臓が痒くなるような恐怖を教えてくれていたんだろう。
ボクは道を進んだ。
前に何度か通った道だから途中までは何を思うこともなかったが、分かれ道の先に伸びている景色にも不思議と新鮮味というものを感じなかった。
どこも似たような建物ばかりだからだろうと思っていた。
それだけつまらない街なのだ、ここは。
なのに、どうしてだろう。ボクはずっと暇をする暇がなかった。
この街にいると、毎日必ず何かが起きるのだ。
今朝、ミコちゃんが朝食に誘ってくれたように、あの晩みっきー君が誘ってくれたように、ある日は誰かが困っていて手助けをしたり。毎日、毎日。
この日歩いた道をボクは地図に描き加えた。
知らない服屋と家具屋と画廊と、それから食事処を幾つか見つけた。
その一つ、ベッドばかりが売っている家具屋でみっきー君と会ったが、「珍しいね」という彼にボクは「たまにはね」と言った。
みっきー君は、いつもと変わらずぴんと伸びた姿勢で絵に描いたような笑顔を浮かべていた。
その後なんとなく一緒に道を歩いていたが、このままではあの看板や柵を探せないと思い、ボクはみっきー君が行くのとは違う方向に進んだ。
結局、この日あの看板や柵を見つけることはできなかった。
◯
街の地図が出来ていくと、まだ小さいが案外複雑で迷路のようなものに仕上がった。
隙間なんかほとんどないくらいに建物が密集していて、どうりで毎日何か起こるはずだとボクは納得した。
だけどどうしてだろうか。俯瞰で見ているそれは地図なのに、まるで迷路を遊んでいるような気持ちになった。
実際見てきた風景を思い浮かべながら指先で街を歩くと、本当に道に迷ったような感覚に陥った。
そしてボクは気づいたのだ。
この街の道は全部繋がっている。
どこにも行き止まりは用意されていなくて、だからボクはこの街の迷路をどんなふうに進んでも必ず家に帰ることができた。
本物の迷路ではないのだから当然だと思ったが、どうしてかボクはそれで納得いかなった。
ふと、これが迷路なら道に迷いたいと思った。
この日ボクは、一旦あの看板と柵を探すのをやめて、行き止まりを探すことに決めた。
途中でハル君やゆーちゃんと他何人かとすれ違い、お茶とか水の広場に行こうとか服を見に行こうとか誘われたが、タロウ君なんて適当な名前を言って彼と約束があると嘘をついた。
一人になると、ボクは地図を広げてもう何度も見た街を見下ろした。
葉脈のように広がっているのが道なら、密集する建物は葉の細胞のように見えた。
だったら、行き止まりは進んだ道の先にしかないと思えた。
ボクは、さらに遠くへ行くことにした。
いくつもの店と家と人と猫と店と家と猫と虫とすれ違った。
しかし、どこまで行っても行き止まりは見つからない。
ボクは行き止まりを知っているはずなのに、この街のどこにもそれがないなんてことがすごく不思議に思えた。
行き止まりなんてボクの考え過ぎだったのだろうか。
そもそも街は使いやすく出来ているわけだから、行き止まりなんてない方がいい。
新しく見つけた長めのショッピングストリートの真ん中辺りで空を見上げると、いつの間にか日が落ちてきていた。
白かった景色が少しだけ黄色味掛かってきていて、セピア色の作り物くさい写真の中にいるような気分になった。
部屋に戻らなければというタイミングだった。
次の日もまた遠くを目指してみようと思った。
そして次の日もまた、セピア色の時間にボクは部屋に戻った。
◯
地図を作っていく内に、行き止まりがないこととは別に一つ気づいたことがある。
宿、だ。
今さらだが、この街に宿がないことが気になった。
とはいえ、一つの街に一つの宿がある決まりなんてないのだからおかしなことではないのかもしれない。
だが、だったらどうしてボクは宿を知っているのだろう。
図書館で借りて読んだ本に書かれていたという覚えはない。
誰かに聞いたのだろうか。
ボクは、この日会う誰かに宿のことを訊いてみることにした。
案の定、道を歩いているとヒロチ君に会った。
ボクが「宿を見たことはある?」と訊くと、ヒロチ君は「もちろん。でも、どこで見たかは覚えていない」と言った。
それからまた、今度はミコちゃんに会って同じ質問をしてみると、「当たり前だよ。でも、どこにあるかは覚えてない」と言った。
ゆーちゃんもハル君も同じようなことを言った。
すると漠然と、変だな、という感覚に陥ったが、それだってよく考えてみれば皆近所に住んでいるのだから当然だ。
ボクは、やっぱり遠くへ行かなければならない。
この日は眠ることを諦めてもっと遠くへ言ってみようと思った。
前回と同じ道を辿りあのショッピングストリートまで来ると、やはり空の色が変わり始めた。
一度だけ足を止めて振り返ってみると、今通ってきたばかりの道が知らない街の通りのように感じられた。
進む時には感じられなかった、新鮮味というものだった。
それを今さら感じたのは、午前中に部屋を出てからもう何時間も経っていたし、部屋までの道のりを考えて気が遠くなったのだろうと思っていた。
ボクはまた体の向きを戻して、ショッピングストリートの先を見つめて歩き出した。
思っていたよりもずっと長い通りだった。
中身と装飾が違うだけの似たような建物が左右に連なっていて、ボクはそこを歩いていく。
空が一段暗くなると、花をモチーフにした街灯に光が灯り、立ち並ぶ店にも明かりが灯され始めた。
歩いている人々は続々と明かりの灯された店の中に吸い込まれていくか、ボクが来た道を戻っていく。
ショーウィンドウの向こうから、首のないマネキンがこちらを見ていた。
座る人がいない椅子がこちらを向いていた。
ショーケースに収められたコロッケや唐揚げの幾つかが取り残されていた。
それらを置き去りに、ボクはどんどん道を進んで行った。
いずれ、道を歩いているのはボク一人だけになっていた。
なんだか寂しさを感じ始めて。
そしてようやく、おかしい、と思えた。
誰も先へ進まない。
戻ると入る以外に進むという選択肢もあるのに、どうしてだろうか。
疑問を頭に浮かべながら、ふと横目に見たショーウィンドウの向こうには、頭の付いた輪郭だけのマネキンが立っていた。
照明に照らされて、誰も見ていないのにポーズを決めているマネキンの彼女が着ている白いワンピースは、ミコちゃんに似合いそうだと思った。
お土産に買って帰ろうか、といつも通りのことを考えてボクはショーウィンドウに近付いた。
白いワンピースは、黄ばんでいた。
日当たりの良いところにずっと置かれていたからだと、そう思った。
だが、彼女の頭部や肩、彼女を支えている銀色の台には埃が溜まっていて、ボクの考えは変わった。
ここは、放置されているのかもしれない。
店の中を覗いてみると、思った通り人は一人もいなかった。
それなのに明かりは点いていて、棚に収められた服も綺麗に畳まれている様子やカウンターに飾られた花が萎れていないのが、ボクよりもずっと寂しげだと思った。
それから、隣にある食事処を覗いてみたが、やはり人は一人もおらず。
向かいにあるカフェを覗いてみると、五つあるテーブル席の椅子の一つに熊のぬいぐるみが座っていたが、人はいなかった。
そして次の楽器屋を覗こうとした時だった。
やあ、と聞き覚えのある声がした。
ボクはひと息だけ飲みこんで、ゆっくりと振り返った。
みっきー君は、いつものあの笑顔でボクを見つめていた。
本当は心臓が止まるかと思うほど驚いていたが、それを顔に出さなかったボクはいい役者になれると思う。
ボクは微笑み返し、「奇遇だね」と言った。
みっきー君は「そうだね」と頷いて、「まだ帰らないの?」と言った。
ボクは「そうだね」と受け流して、彼の反応を待った。
みっきー君は、「どこへ行くの?」と訊いてきた。
ボクは正直に「この先が気になってね」と笑顔で答えた。
その一瞬、みっきー君の表情から笑みが消えたのをボクは見逃さなかった。
しかしみっきー君は瞬きの間にはもう笑顔に戻っていて、「だったら一緒に行こう」と提案した。
本心をいえば、ボクはもうこの時にはみっきー君と一緒にいたくないと思っていた。
だけど、何をどう言ったところで彼と別れることはできなかっただろう。
一応「今日中には帰れないかもしれない」とさり気なく帰るよう促したつもりだったが、みっきー君は「友達と一緒なら平気さ」と微笑みを崩さなかった。
彼の笑顔を見たくない思うようになったのは、この時からだった。
少しだけ間を空けてボクたちは並んで歩いた。
そうしてショッピングストリートを抜けるのにどれくらい歩いたのか覚えていない。きっと一時間は掛かったんじゃないかとは思う。
ショッピングストリートの後半は、店の明かりも点いていなかったり、街灯も切れているものがあったりして薄暗くなっていた。
もうそろそろ終わるのだと、漠然とそう思えた。
そしてついに建物の列が途切れ、突如目の前に現れたその白っちゃけた灰色を見て、ボクは壁だと思った。
だから行き止まりだ、とも。
そんな街の行き止まりを見てもボクはあまり驚かなかったし、達成感みたいなものも感じなかった。
ただ、ようやく見つけた、とは思った。
まるでずっと探していたかのような感覚だった。
壁だと思っていたそれは、よく見てみれば壁ではなかった。
そう気づかせてくれたのは、白く光る細長い照明だ。
ボクはそれを蛍光灯だと知っていた。
だから、そこにある灰色の壁がコンクリートのビルだと理解することができた。
二階から上が張り出していて何階建てなのかはわからなかった。
その張り出した二階を天井にして細長い蛍光灯が左右に点々と並んでいて、それがずっと遠くまで道を作っていた。ところどころ何も書かれていない緑色に光る箱がぶら下がっていた。
いつもの見慣れた建物はこちらに背を向けて並んでいて、まるでこの無機質な道には興味がないようだった。
だからというわけではないが、ボクにはもう先を知りたいという気持ちは起きなかった。
少しだけビルの中が気になってはいたが、きっとここよりも暗いのだろうと予想がついていた。
少し道を進んだだけで、このビルがおかしな物だということがわかった。
いったいどういう造りなのか、一切切れ目がない。
本当に壁なのかも知れないと思うほど、それは密集しているという意味ではなく一続きに作られていた。
しかし、ショーウィンドウがあり、アルミフレームの窓があり、扉があり、ただの壁というものでないことも確かだった。
それら窓や扉の向こう側は青白く照らされていて、覗き込むとショッピングストリートがそうだったようになにやら商品らしいものが置かれていた。
でも、人はいない。
明かりが少ない分、このビルの下の道は不気味さがあからさまだった。
だけど、ボクはここが怖いとは感じなかった。
人がいないからなのかもしれない。きっと誰も出てこないから、何を怯える必要もないと思っていたのだろう。
そうしてまたいくらか進むと、突如開け、そこには広場と思しき場所が広がっていた。
森の公園に生えているのとは違う、毛羽立った躍動感のある広葉樹が真ん中に一本だけ植えられていて、それを囲むように鉄とガラスで出来た円形の屋根があった。
そこを照らす街灯は先が丸いあまりデザイン性の高いものではなかった。
水の広場に雰囲気は似ているが、ここは空間そのものが冷えているような気がした。
一言で言うなら、都会的、だろうか。
ビルとビルの間には、たまにこういうところがあることをボクは知っていた。
満たされた空間にすっぽりと穴が空けられたような、時が止まったかのような空間。
周りにはたくさんの人がいるはずなのに、どうしてかこういうところだけは静かで、居ても人はニ、三人しかいなくて、妙に安心するところだ。
ボクはそばにあるベンチの一つに腰掛けたが、みっきー君は座らなかった。
あえて、どうぞ、とは言わなかった。少しだけ物足りないような感覚になった。
するとみっきー君はボクの正面に立ったまま、「綺麗な場所だね」と言った。
そうは思わなかったが、ボクは頷いた。
その時だ。「やあ、お兄さん」と声がした。
人なんかいないと思っていたボクは驚いて、跳ね上がるように立ち上がり、声のした方を振り返った。
そこには濃い青いエプロンをした三十歳くらいの男が手招きをして立っていた。
男はビルの一階にある店を指差して「寄っていってよ」と言ったので、彼が店の人なのだと気づいた。
近付いてみると、店内の青白い明かりに照らされてシンプルなデザインのベッドや棚が並んでいるのが見えた。その一つ一つに三十パーセントオフとか、二十パーセントオフとかの札が貼られていた。
ボクはなんとなく察して、「もしかして閉店するんですか」と訊いた。
男ははにかんで頷き、「実はね」と言った。
いつまで経っても客が来ないので、ここで店をやるのはやめにしようと考えたようだった。口にはしなかったが、そうだろうな、とは思った。
すると男は、「隣の服屋の人は数日前に行ったばかりなんだよ」と言った。
ちらと見てみると、どこの店と同じく商品が幾つか残されたままだった。
なんとなくボクはその店を知っていたような気がしたが、それはきっとショッピングストリートで見掛けた店に似ているからだろうと思っていた。
その人が、行った、のはどこかのショッピングストリートらしい。もしかするとボクが見たものはそうだったのかもしれないと思った。
どうやら男もショッピングストリートで新たな店を開くつもりのようだった。
ボクは、「今度は上手くいきますよ」と言った。
男は嬉しそうに笑って「ありがとう」と言った。
この人に不思議な魅力みたいなものを感じていた。
近いというかなんというか、ぼんやりとボクに似ているような気がしたのだ。
懐かしい感覚だった。まるで親戚に会ったような。つまり、親近感だったのだろう。
それから少し話をしたが、結局彼の店の家具は買わなかった。
そもそもどうやってボクの部屋まで運ぶかということも問題だったし、特に欲しいと思うものもなかったから。
そんなボクの反応に対して男が「だよね」と笑うと、みっきー君が突然「さあ、帰ろうか」と口を挟んだ。
正直に言えば気に入らなかったが、抗う気にもならず、ボクは答えに困って俯くしかできなかった。
すると男は「疲れたならここで休んでいけばいい」と言った。
まるで助け舟を出してくれたかのようなタイミングだった。
俯いた顔を上げ咄嗟に男の顔を見ると、彼はどうやらみっきー君を見ているようだった。
みっきー君は相変わらず微笑んでいて、「ここはぼくの部屋じゃないからダメだよ」と言った。
男は、「ベッドは眠るためにあるんだ。こいつらにも仕事させてあげてもいいんじゃないかな」と言った。
みっきー君はずっと笑顔だったから納得しているのかどうかわからなかったが、首を横に振ることも縦に振ることもしなかった。
代わりにボクが「ありがとう、お邪魔させてもらいます」と言った。
男は「気にしなくていいよ」と言い、たぶんボクたちの目が覚める頃にはいなくなっていると思う、と笑った。
夕食にと男が出してくれた手作りのピザはとても美味しかった。
彼は新しくやる店をバーにするんだと言っていた。
◯
予告通り、ボクが目を覚ますと男はいなくなっていた。
ボクはそのまま店の外に出て背伸びをした。
広場は陽の光に照らされて明るかったが、街灯も、蛍光灯も点きっぱなしだった。
戻るか進むか、ボクはベンチに座って少しだけ悩んだ。
昨日はもう先を知る気もないと思っていたが、そういえばこの街の道は全て繋がっているんだということを思い出してボクはこの道がどこに繋がっているのかを知ることにした。
そうすれば地図が一気に埋まるかも知れないし、一石二鳥だ。
店の方を見ると、みっきー君はまだ眠っているようだった。
ボクは店の前のショッピングストリートへ戻る道寄りにシャツの袖のボタンを一つ落として、先へ進むことにした。
行く先にあるのは、人のいない商品だけが残された店ばかりだった。
皆の家らしいものはどこにもない。
だから、この二階よりも上がそうなのだろうと思った。
コンクリートビルの反対側に見慣れた建物の背中があるのと同じように、このビルの一階は向こう側からは背中しか見えないのかもしれない。
それがこの街の構造なのではないのか、と感じた。
だったら、このコンクリートビルの向こうに続く道はどこと繋がっているのだろう。幾つもある扉の向こうだろうか。
長い道のりに飽きてボクが疑問の答えを探そうと思う間際に、コンクリートビルの道が終わった。
日の当たる場所と影になっている場所の境目が絵に描いたようにハッキリと別れていた。
目が眩んで向こう側は真っ白にしか見えなかったが、瞬きを繰り返していく内に明るい向こう側の景色が浮かび上がっていく。
格子が、じわり。
そのそばにミニチュアのような木の幹の輪郭が、じわり。
木の葉や花のような他の色は遅れてやって来た。
ボクは、やっと見つけたのだ。
どこかのショッピングストリートに繋がると思っていた道は、広場の裏側に繋がっていた。
それは、初めて見る景色のはずだった。
だが、徐々に浮かび上がっていく景色には見たことのあるものばかりが映っていた。
ビルが、車が。信号機があって、横断歩道があって、スーツを来た人々がいて。ハイヒール、パンプス、ブーツ、花柄、チェック模様、おしゃれをした人がいて。
遠くビジネスホテルの看板が見えた。
看板。
ボクはふと我に返ったような気分になって、あの看板のところまで走った。
三、だ。白い漢字の三の文字。ボクはずっとそれを求めていた。
そしてそれは間もなくしてボクの視界に全貌を現した。
行、銀、J、F、∪、菱、三。
目の当たりにした瞬間、ボクはずっと思い出さなかったことを思い出すことができた。
会社、だ。
この街にはないもの、そしてボクが目指していたところだった。
だが、わからない。
柵に手を掛け、ボクはどうしてこの街にいるのかを思い出そうとした。
するとその時。
しわがれた声で、「そこは楽しいか?」と声がした。
声は足下の方からした。
目を向けると、ふわりとタバコの匂いを感じた。
ボクに声を掛けてきたのは、赤いリボンが巻かれたクリーム色の中折れ帽を被った年寄りの男だった。スーツも帽子と同じ色だった。
いかにも外国紳士らしい格好をしているのが、目の前の空間には不釣り合いなように感じた。
ボクは何も答えられなかった。
男の吐き出したタバコの煙がボクの視界を歪ませた。
すると男は「俺にはわからねえけどな」と言って灰皿にタバコを押し付けると、車と人の流れに乗ってどこかへ行ってしまった。
ボクは彼を目で追いながら、考えていた。
ここは楽しいのか。
ずっと、楽しいと思っていた。
ここにいると毎日誰かがボクに構ってくれて、毎日何かが起きて、ボクは暇をする暇がない。皆優しくて、辛いことなんかひとつもない。
だけど、なにか違う。
あの看板を見ているとそんな正体不明の疑問に溺れそうだった。
生暖かい風が吹き、排気ガスとタバコと靴の匂いがする。
ボクが今まで感じていた涼しい風や、木や花やハーブの香りは簡単に掻き消されてしまう。
行き交う人の流れはとても荒々しく、あの街の中に感じる流れとは全く違っていた。
一度飛び込めばもう二度と戻れないくなるような気がした。
そこは楽しいか、という彼の言葉をもう一度考えた。
ボクは、この柵の向こうの世界を思い出しさえしなければ、「楽しいよ」と答えられたと思う。
もし、あの赤地に白い文字の看板を見つけなければ、その楽しさを疑問に感じることもなかったはずだ。
だけど、なにか違う。
ボクは、一度離れたはずの向こうの世界を羨ましいと感じていた。
行き交う大勢の彼らの方が実は自由を持っているのだと。
ボクが欲しかった自由は、あの街で得られるものではなかった。
ふと感じた不気味さの答えが見つかると、ボクはほとんど迷いなく柵に身を乗り出していた。
すると。
「今晩にはお祭りがあるんだよ」
聞き覚えのある声がした。
身を乗り出したまま振り返ると、細い木の隙間の向こうから誰かの目玉だけがこちらを見つめていた。
それが誰だかはよくわからなかった。擦り切れた目尻から赤い血が汗のように一筋流れていた。
返事をせずにただその目だけの誰かを見つめていると、向こうの誰かは「ショッピングストリートに新しいお店が開くんだって」と言った。
その言葉に体に力が抜けた。
足が浮いて宙ぶらりんのボクは、今にも柵から手を離してしまいそうだった。
だがその時、ボクよりも先に何かが地面に、カサ、と触れた。
地図だった。
ボクが描いた街の地図だ。
宙ぶらりんのままそれを見ていると、「明日の夜には、あのカフェで演奏会があるんだ」と声は続いた。
次の瞬間、下から上ってくるタバコの煙がボクの目を潰した。
突くような痛みに咄嗟に目を閉じると、暗闇の中ボクの背中に不意に何かの力が加わり、ボクはバランスを崩して柵の向こうに落ちてしまった。
ボクの躊躇などまるで意味がなかったかのような呆気ない一瞬だった。
背中をぶつけて息が止まりそうだった。
涙目で荒い息をするボクに、誰かが「大丈夫ですか」と声を掛けてくれた。
本当は苦しかったが「大丈夫です」と答えたものの、喫煙所を囲む人の誰もボクの方を見てはいなかった。
誰かの靴が歩道を叩く音と車が響かせる音が聞こえていた。
ボクは立ち上がって高いところにある柵を見上げた。
ひとつだけ微かに、ニ、の声が聞こえた。
ボクは、道に迷いたかったんじゃない。
出口を探していた。
迷路に必要なのはきっとそれだけだと思う。
だから、決めなければならないのだろう。迷路には入り口しか用意されていないから。
ボクは感謝を伝え損ねたまま、排気ガスと靴の匂いとタバコの煙の中に紛れた。