10.勝負の行方
REDの体感的には数秒で――(あるいは正確に計測してもやはり数秒だったかもしれない)――ドラゴンはキャット兄の蜂飛行機に追いついた。ドラゴンは少し胸を反らせ、胸部を押し当てるように、先行するキャット兄の蜂飛行機に接着させた。
押す――前へ――そしてドラゴンは徐々に高度を下げていった。胸部に押し当てた敵機を落とすため、かなり前傾姿勢になっている。足のほうが上がっているので、そこに機体を引っかけられているグリーンピースは、シーソーで下から上に跳ね上げられたみたいに、ふわりと体が浮き上がるのを感じた。
――徐々に、徐々に、キャット兄の機体が落ちて行く。
キャット兄は恐怖に目を見開き、機体が上部から黒い化けものにプレスされ、高度を下げていくのを、なすすべもなく眺めているしかなかった。前面に見える空の割合がぐんぐん減っていき、あっという間に水面が近づいてくる。
キャット兄は涙目になった。静かに首を横に振る。イヤだイヤだと心の中で呟きながら。
彼のエンドはすぐにやってきた。――チュイン、と蜂飛行機の下部が流れ星川に着水した音が聞こえた。そして次の瞬間、キャット兄の乗る蜂飛行機は水没した。
彼は落水した蜂飛行機から飛び出して、犬かきをしながら流れ星川を必死で泳ぎ渡った。やがて岸辺に自力で辿り着いたキャット兄の毛並みはペシャンと潰れ、一気に年老いたように見えた。
ドラゴンは敵機を撃墜したあと、悠然と舞い上がり、一路ゴールを目指した。
***
鏡の泉に一着でドラゴンが到着した。
王様は当てつけのつもりなのか、ドラゴンの背に乗ったまま派手な花火を打ち上げた。花火がひとつ上空で弾けると、そこから連鎖的にいくつもの花火が続いた。
漆黒のドラゴンは鏡池の上空をゆっくりと旋回する。
気の抜けたREDは腰が抜けそうになった。王様がREDを抱き留めてくれる。
「魔法を使えるようにするのは無理だけど」
王様はそう断ってから、回復魔法をかけてくれた。REDは肩に乗っていた大岩が取り払われたような感じがした。
魔力のほうはしっかり寝ないと回復しないが、臨時で体力が戻ったのはありがたい。ここまでスッカラカンになるほど魔力を使い切ったのは、これまで生きてきて二度くらいしか経験したことがなかった。とにかく息をするのもダルいというか、体全体がずっしり重くなるのだ。
「ありがとう」
REDがはにかんで礼を言うと、王様はいつものように優しい瞳で彼女を見つめ返してくれる。それでREDは『もう大丈夫だ』と思った。――彼がそばにいる――だからもう大丈夫だと。
しばらくしてキャット兄が蜂飛行機で駆けつけてきた。彼の乗りものは水没したので、別の機体に乗り換えている。同乗しているのはキャット弟ではなく、新顔の猫だった。顔面のパーツが中央に寄っている三毛だ。三毛は怒ったような顔をしているが、それは単に地顔らしく、前方のドラゴンに恐れをなしているのか、瞳が挙動不審にキョロキョロと動きまくっていた。よく見ると鼻の下もピクピク痙攣しているようだ。――横目で恨めしそうにキャット兄を睨んでいるので、『にゃんで俺がこんなことに巻き込まれなきゃいけないんだ!』と考えていそうだった。
キャット兄はドラゴンへの恐れよりも、負けたことでプライドが傷ついたらしく、怒り心頭の様子である。カンカンに怒りながら拳を振り上げて怒鳴る。
「おい! ゴールしたのはドラゴンで、蜂飛行機じゃないじゃないか! インチキだ! こんなのインチキにゃ!」
「なんで『インチキ』って二回言うんだよ。――しかも二回目は『インチキにゃ』とか、ちょっと猫可愛く言ってみたりしてさ」
REDが眉根を寄せる。するとタイミング良くアナウンスが流れた。
『――おとぎの国レースの優勝は、ネズミチームです! 一着はグリーンピース!』
「にゃんだって?」
キャット兄は興奮すると、所々ネコ言語になるらしい。思い切り目を剥いている。毛が濡れそぼっているので、目を剥くとなんだか地獄からやって来た悪魔猫のようだった。
「どうしてグリーンピースが――……」
キャット兄は視線を忙しなく動かし、ドラゴンの足爪に引っかかった一台の蜂飛行機に気づいた。ヒョロリと痩せた貧相なネズミが、とぼけたような笑みを浮かべ、キャット兄に向けて手を振っている。
「畜生! あの弱虫が一着とは!」
キャット兄は毛を掻きむしり、喉の奥で唸りを上げながら地団太を踏んだ。
***
「――そうだ、ハニーを助けないと」
REDが呟きを漏らすと、王様が小首を傾げた。
「それ誰?」
「ピンクのかわい子ちゃんだよ」
「僕にとっては君がかわい子ちゃんだけど」
王様が真顔でさらりと言うので、REDはピタリと動きを止めて彼を見上げた。――一拍遅れてカカッと頬を燃やし、王様の肩を拳でポスンと叩く。
「恥ずかしいにゃん!」
「可愛い」
「間違った! キャット兄のニャン語が移った!」
「だから可愛いってば」
「うわん! 王様と会うのは数時間ぶりだけど、なんか十年ぶりに会った感じ!」
「言いたいことはなんとなく分かる。僕も十年ぶりに会った感じがする」
てなラブラブトークをしていたら、
「おーい!」
ビッグの声が響いて来た。ドラゴンの背から身を乗り出し、下を覗くと、蜂飛行機を操縦してビッグが飛んで来る。ドラゴンの大きさに圧倒されているようだが、その足にグリーンピースの機体が引っかかっているので、そちらを目指しているようだ。とにかくグリーンピースのほうしか見ていないので、人間姿になっているREDと新顔の王様がドラゴンの背の上に乗っているのには気づいていないようである。
「おーい、グリーンピース!」
「ビッグ! それとハニーも!」
ビッグの蜂飛行機にハニーも同乗しているようだ。座席の後ろにいたハニーが背伸びをしたので、ピンクの耳がピョコンと上に突き出て、存在を確認することができた。
「なんとかハニーを助けたぜ! 俺、キャット弟にタイマンで勝った!」
「すごかったですよ、ビッグ!」
ハニーが後部席でピョンピョン跳ね、ビッグの肩を両手で撫でている。
「おやおや」
REDはこれに興味津々だった。
「このぶんだと、ハニーはビッグとくっつくのか?」
「だけどRED、ハニーってたぶん――」
王様が何か言いかけた時、別の蜂飛行機が近づいて来た。かなり速い。その蜂飛行機は下のグリーンピースのほうではく、REDたちのほうに直接向かって来る。
「――あ、ネズミ女王だ!」
水晶玉で見たままの姿をしたネズミ女王が、蜂飛行機を操縦している。女王はキャットギャングに囚われていたはずだが、隙を突いて逃げ出して来たのだろうか。あの蜂飛行機はおそらくキャットギャングの持ちものを強奪したのだろう。
やがて女王はドラゴンの背に着陸し、蜂飛行機から優雅に降り立った。飛行機の段差を超える時も、ドレスの裾を華麗に捌き、気品のある振舞いである。REDは女王の貫録にすっかり感心してしまった。
王様がさっとかしこまって礼を取ったので、REDも慌ててそれにならった。
ネズミ女王が鷹揚に頷いてみせる。
「ご苦労さまです、RED。わたくしとの約束を守りましたね。あなたは勝った」
「……これって私が勝ったと言えるのかな? 結局、優勝したのはグリーンピースです」
「あなたのアシストあればこそでした。チームを優勝に導いたのは、あなたです。謙遜することはありませんよ。あなただって、王家の宝が欲しいでしょう?」
「うーん、まぁ、欲しいといえば欲しいですけど」
REDは斜め上を見て考えを巡らせた。……とろけるチーズかぁ、やっぱりそれは欲しいなぁ。自分が操縦して一着を取ったわけじゃないけれど、女王がいいって言うんだから、甘えちゃう?
「じゃあ、ありがとー!」
REDがちゃっかり両手を差し出すと、王様が冷静にツッコミを入れる。
「こら」
「だけど陛下、ネズミ王家秘蔵のとろけるチーズだよ?」
「絶対にチーズじゃない」
「そうですよ、もっといいものです」
ネズミ女王がふわりと中空に舞い上がり、REDの手を取った。――王様が止める暇もなかった。
女王が何か短く呟くと、REDの手のひらに緑の文様が浮かび上がる。それはクルリと回転し、光を放ち、REDの肌に染み込んだあと、すぅっと消えて見えなくなった。
「ん? 今の何?」
REDはぎょっとした。
「ご褒美です。あなたをひ孫の嫁にして差し上げます。今のは婚姻を約束する、強力な魔法契約です」
「ひ、ひ孫?」
ひ孫がいるって、ネズミ女王、何歳よ? 超セクシーボイスだから、まだうんと若いのかと。……ていうかネズミ王家のひ孫と結婚って、困るよ! 私は王様と結婚するんだから!
「だめですよ、ネズミ女王! 私には婚約者がいてですね」
「ぶっぶー、キャンセル不可です。もう契約しちゃいましたから」
「そんなぁ」
陛下は隣で言葉も発さず、手のひらで額を押さえている。
REDが青くなってアワアワしていると、女王の体が光り輝き、変身が解けて人の姿になった。白髪が綺麗にカールした、優美な老婦人である。
「え、女王って人なの?」
「あなたと同じですよ、赤の魔法使い。……まぁわたくしがネズミ姿になったのは、自主的な変身ではなく、妖精王の魔法のせいですけれど」
「……ひいおばあ様」
王様が小さな呟きを漏らした。
「ひいおばあ様だって?」
REDはびっくりしっぱなしだった。
「ええ? この人、王様の身内?」
「五年前、執事と散歩に出たきり、行方不明になっていた」
「おお……なんてこと」
「妖精王の悪戯にしてやられたわね」
ネズミ女王あらため太王太后は軽く肩を竦めてみせた。口調は飄々としているが、よく見ると目元が引き攣っていたので、実はかなり腹に据えかねているのかもしれなかった。
「ご無事で何より」
王様の言葉は淡々としているようでいて、温かいものだった。それで太王太后の顔に初めて柔らかな笑みが浮かんだ。




