8.覚醒
「かつおぶしがほとんどなくなったね」
グリーンピースが風にネズミヒゲをそよがせながら、そんなことを言った。透明なドーム状の覆いがなくなったので、正面にちょっとした風よけはあるものの、運転席にいても風が当たる。
REDはパイロットゴーグルを外し、裸眼で機体内部を見回してみた。……確かにそうだ。端っこにいくらかかつおぶしの欠片が残っているけれど、機内を満たしていた薄茶のフワフワはほぼ消失している。
「滝のところで、かつおぶし爆弾の袋が落ちたのかも。機体を上昇させていたから、かなり斜めになっていたし」
「かつおぶしの発生源がなくなったから、これ以上増えないってわけだね。発生済のかつおぶしは風でほとんど飛んじゃったし、スッキリしたな。……かつおぶし爆弾の袋は今頃水の中かぁ」
「もったいないことしたな。あれ、持って帰りたかったよ」
あれば、色々な料理に使えたのになぁ。残念。
グリーンピースも悲しげな顔つきになっている。
「本当にそうだね。あれ、上品ないいダシが出るんだよなぁ」
二匹はかなりテンションが下がってしまったのだが、ゆっくり落ち込んでいる暇もないのだった。
「……キャットギャングにだいぶ差をつけられたな」
先行する機体はいまやゴマ粒くらいの大きさである。
「双眼鏡があるよ。使う?」
グリーンピースが前面の窪みから双眼鏡を引っ張り出して渡してくれる。
「おう、ありがとう」
REDがそれを覗き込んでいるあいだ、グリーンピースが体を乗り出しハンドルを握る。なんだかんだ良いチームである。
REDは遠くの川面に浮かぶ木の葉を見つけた。
「……少ない魔力でも、いけるかも」
呟きを漏らし、深く集中する。ネズミ女王が貸してくれた魔法の杖があれば、攻撃魔法で撃墜できるのだが、あいにく今はそれがない。杖はキャット兄弟に奪われてしまった。だから妖精王の異界に力を抑え込まれている状態で、なんとか工夫して乗り切るしかなかった。
目測だが、木の葉が浮かんでいるのはキャットギャングの機体のすぐ下あたりだ。少ない魔力で緻密な作業を行う場合、ああいった目印があったほうがやりやすい。
「――ジャンプ!」
REDは右手の人差し指を前に突き出し、号令とともにそれを上に向けた。狙いを定めた木の葉がパン! と真上に跳ね上げられる。川の水が葉の底にくっつくようにイメージしたので、木の葉の上昇と共に、水柱がまっすぐに立ち上がった。
水柱はキャットギャングの機体の端をかすめた。敵の蜂飛行機はこれにより少しグラつき、スピードが落ちた。
前方に目を凝らしていたグリーンピースが歓声を上げる。
「すごいや! 一体何をしたんだい?」
「水柱を真下から叩きつけた。でも少し狙いが外れたな」
「あれが蜂飛行機の前に突き出てきたら、敵は相当ビックリするぞ」
「でももう木の葉が浮いていない」
しかし一度木の葉ありで成功しているので、今の感覚を応用すれば、のっぺりした水面でもいけるかもしれない。
REDは双眼鏡を目に当てたまま、キャットギャングの乗る蜂飛行機、その下を流れる川を交互に見つめた。二点を行き来していた目の動きが、ゆっくりと引き絞られるように安定する。
「――よぅし、もういっちょ!」
前方を指差し、それをクイッと持ち上げた。水面がニュルンと上に突き出し、一気にドン! と上昇する。
その水柱は蜂飛行機の前面に突き出たので、敵は慌ててハンドルを切ったらしく、機体が激しく揺れている。バランスを崩した蜂飛行機は蛇行した挙句に、岸辺から大きくせり出していた太枝にぶつかって、クルンと回転した。その拍子に上部の透明なドームがパカンと開く。
「ああ、落ちるぞ!」
グリーンピースが口をポカンと開け、敵が撃墜されるさまを眺めていた。――このレースは蜂飛行機から落ちた時点で失格となる。ということはこれで自分たちの勝ちが確定するのだ。
蜂飛行機からパイロットが零れ落ちてきた。――REDもグリーンピースも当然、キャット兄の赤毛がそこから現れると考えていた。
ところが。
「え?! なんで荒くれドギー?」
運転席から落ちて来たのは、黒地に茶のまだら模様をしたワンコだった。荒くれドギーは前足も後ろ足もクルンと丸め、『きゃうーん!』という悲しげな声を上げていそうなポーズで川に落下していった。やつが乗っていた無人の蜂飛行機も、キリモミ状態で落水する。
「どういうことだ?」
理解の追いつかないグリーンピースが瞳を揺らしている。
REDはハッとして怒鳴った。
「くそう、入れ替わりだ!」
「何――」
側面に何かの気配があった。
――ゴゥン! 振動で体が揺れる。REDが左手を見遣ると、赤毛のキャット兄が操る蜂飛行機が、こちらに体当たりをかましていた。
キャット兄は横手の森に潜んでいて、奇襲を食らわしてきたのだ。無防備な状態でぶつけられ、機体が激しく揺れる。REDはハンドルを細かく動かしながら、左手をキャット兄のほうに向けた。左席にいたグリーンピースが慌ててのけ反り、出力のためのコースを開けてくれる。
REDは渾身の力で魔力を放った。全力を出したのに、妖精王に力を抑え込まれているので、軽めの攻撃にしかならない。それでもゴリラが本気で拳を叩きつけたくらいの威力はあったので、敵のドームにひびが入った。
「――このクソネズ公が!」
キャット兄が凄惨な顔つきで怒鳴っている。
REDは続けざまにもう一撃放った。これによりREDは全身から力がごっそり持っていかれるのを感じていた。――渾身の力で二撃――外の世界なら地面に深い深い大穴が開くレベルの極大魔法だ。ところがこの異界では『怪力のやつがちょっと暴れた』程度の攻撃力にしかならない。
この程度のしょぼい攻撃でも体力をごっそりと持っていかれる。REDから二撃食らい、キャット兄のドームが砕け、飛び散った。あちらの機体も大きく揺れている。
REDが魔力を叩きつけた瞬間、ちょうどキャット兄がこちらを攻撃しようとして女王の杖をかざしたところだったので、機体が揺れたことでそれがスポッと手から抜け落ちた。杖が吹っ飛び、こちらの機体にぶつかる。
――バチン!
嫌な音がして、羽音が急に静かになった。
「どうなってる!」
REDが怒鳴ると、グリーンピースが慌てて外に身を乗り出し、自分たちの蜂飛行機の状態を確認した。
「ああ、畜生! 左の羽のつけ根に杖が挟まっている!」
「羽が止まった?」
「止まった! でも壊れてはいないから、杖を抜けば――」
片側の羽がひとつ止まっているので、バランスが悪い。機体はグラグラ揺れている。REDは暴走しないようハンドルを操るのに精一杯だ。
「――僕が取るよ、RED」
グリーンピースが信じられないことを言い出した。REDは必死でこれを止めた。
「だめだ! 羽は機体の下のほうについている。あんな下まで身を乗り出したら、落ちるぞ! 落ちたらどうなる――お前、カナヅチじゃないか!」
これらのやり取りを並走しながら見物していたキャット兄は、ネズミにトドメを刺すのをやめ、レースに集中することにした。――敵の機体は羽のひとつをやられている。あの弱々しい負け犬ネズミに、杖の回収なんかできっこない。あいつは昔から意気地なしで、相当トロいのだから。もう一匹の赤茶の新入りは油断ならないやつだが、羽がひとつ止まった機体を制御するのに手一杯の様子だ。――馬鹿め、詰んだな。キャット兄は口角を歪に持ち上げて、嘲笑を漏らした。
キャット兄はアクセルを踏み込み、一気にスピードを上げた。大慌てのREDたちには目もくれずに。
――グリーンピースはREDのほうを振り返り、微笑みを浮かべた。
「もう言うチャンスがないかもしれないから、今言うよ」
「だめだ――やめろ、グリーンピース」
REDの顔が歪む。この高さから落ちて無事に済むとは思えない。キャットギャングは魚たちを魅了の指輪で従えているから、落水したとしても、魚たちに助けてもらえる。先ほど落ちた荒くれドギーも無事回収されただろう。――だけど自分たちは自力で岸に上がるしかない。落水時に気絶したらもうそれでアウトだし、運良く意識を保っていられても、グリーンピースは泳げないのだ。
「――ありがとう、RED。君が来てくれてよかった。どうかお願いだ、ゴールまで一着で辿り着いてくれよ」
「行くな!」
REDの瞳から涙が零れる。無力な自分が悔しかった。魔力は底を突き、いまやハンドルを握るのが精一杯の状態だ。――肝心な時に、仲間も守れないのか? なんのための魔法だ。――なんのための魔法だよ!
グリーンピースが体をほどんど外に乗り出し、杖を抜き取ったようだ。羽音が正常に戻る。しかし力を入れて抜かなければならなかったので、自身の安全は確保することができなかった。後ろ手に杖を蜂飛行機の中に放り込み、そのままグリーンピースの体が機体から落ちていく。
――REDは頭で考えるよりも先に体が動いていた。力を振り絞り、蜂飛行機の側面に足をかける。REDはダイブするように機体の外に身を乗り出し、グリーンピースの細い手を掴んだ。――自身が落ちる力を利用し、反動でグリーンピースの体を振り回し、ぶん投げる。
「うわぁ、RED!」
グリーンピースの体が宙を舞い、蜂飛行機の中にフワンと弧を描いて舞い戻るのが確認できた。
「……やったぜ」
REDは笑みを浮かべた。REDの体はいまや完全に宙に放り出されている。蜂飛行機が遠い。――遠い。
REDの小さな体がどんどん落ちて行く。視界がぐるりと反転した。――遥か下、水面から尖った大岩が顔を出しているのが見えた。REDが落下していくちょうど真下にそれがある。
魔法を使おうとして、魔力切れを起こしていることに気づく。……ああ、ここまでか。
王様に会いたいなぁ。せめて最後に一目だけ。
――ねぇ、前にさ――よく晴れた日にふたりで川べりに遊びに行って、水面を眺めながら話をしたよね。私が『水面に陽光が当たり、キラキラと金色に輝いている。王様の髪の色だ』と言ったら、あなたは海の色をした瞳で優しくこちらを見返した。『――何十年後かに、僕が君よりも先にいなくなったとしたら、ここに来て。それで僕のことを思い出してほしい』。私は寂しくなって、『それじゃあもしも私が先にいなくなったら? あなたは夕焼けの赤を見て、私を思い出すの?』と尋ねた。あの時――……あなたはたぶん泣きそうになっていた。『君を失ったら、耐えられそうにない』と言って。
私がいなくなっても大丈夫? ……ごめんね。
大好きだよって伝えたかった。
REDは目を閉じた。
***
――同時刻、外界。
地面の揺れは断続的に続いていた。妖精王の作った異界が周辺の魔力を貪欲に吸収しながら境界を強化し続けているせいで、歪が解消されないからだ。境界を壊すことさえできれば、これも治まる。
王様は異界へのアプローチ方法を探りつつも、困難に見舞われている人々の救助もしなければならなかった。
壁が崩壊しかけ、その下に子供たちがいるのに気づき、彼らの元に飛んで行って救い出し、安全な場所に移す。――ふっと息を吐いた瞬間、ビジョンが見えた。
ネズミ姿のREDが真っ逆さまに落ちて行く。下は川になっていて、大岩が突き出しているのが見えた。
王様の虹彩が金色に光った。海の青から、眩い星々の輝きにも似た金に。
彼の体から爆発的な魔力が溢れた。それは急激な変化だった。――その瞬間、何かがズレた。感覚の鋭い者は異変を察知したかもしれない。
彼は妖精王が作り上げた箱庭に穴を穿った。卵の殻を押し潰すように。一気に。圧倒的な力で。
他者がホームで組み上げた閉じられた魔法式に、外部から無理矢理干渉しようとするのなら、百倍以上の力の差でもって圧倒しなければならない。ゆれに強力な魔力を有する妖精王が築いた異界を、別の誰かが無理にこじ開けるのは、理論上不可能である。
けれど彼はそれをやってのけた。脆弱な人間であるはずの彼が、妖精王が丹精込めて組み上げた魔法式を、力でねじ伏せてしまった。




