1.衝撃
いまだかつて、これほどの衝撃を受けたことがあっただろうか。
百花祭当日、いつものネズミ姿に化けたREDは、実家のパン屋を訪ねることにした。おそらく両親は留守だろう。記念日は店を閉めて、仲の良い親戚の家に行っていることが多い。REDは姉が一人寂しく過ごしているのではないかと思い、会いに来たのだ。
屋根上から雨どいをスルスルと伝って、通りに下り立つ。案の定、店の前には『店休日』の看板が出ており、入口のガラス扉には内側からロールカーテンが下ろされていた。下のほうが三十センチばかり開いているが、屋外のほうが明るいので、中の様子は見えない。
REDは鼻歌交じりに、小さな通用扉のノブを捻った。扉は格子状にガラスが嵌め込んであるのだが、その左下の格子一枚分が独立して開くようにしてあった。ネズミバージョンのREDが通るために、最近作られた小扉だ。
そうして店内に足を踏み入れたREDは、微かな衣擦れの音を聞き取った。
「ん……」
吐息のような声を漏らしたのは、大好きなお姉ちゃんだ。REDは目をまん丸して、小っちゃなドアノブに手をかけたまま固まってしてしまった。
――カウンターのところで、姉と騎士が寄り添うように抱き合って、キスをしている! キスといっても、挨拶で頬っぺたにするやつじゃない。唇と唇でする、大人のやつだ! なんてこった! REDの心の中は嵐だったが、あまりに混乱していたために、指一本動かすことができなかった。
どこか遠くのほうから、子供の笑い声が響いてきた。REDが小扉を開いたまま突っ立っているので、音が遮られることなく、店の中に届いた。それで恋人たちは『あれ?』と気づいたらしい。――抱き合っていた二人が体を放し、扉のほうを振り返る。無言のまま、三者の視線が絡んだ。
見た者、見られた者、それぞれの思惑が交錯し、地獄の空気が流れた。
***
姉は「お茶を淹れてくるわね」と言い置いて、耳を真っ赤にしながら奥に引っ込んでしまった。――騎士は慌てるべきだ、REDはそんなことを考えていた。みっともなく取り乱し、アタフタと言い訳すべきだと。ところが彼はシレっとして、落ち着き払っている。初めこそ『参ったな』という顔をしていたものの、すぐに平素どおりの態度に戻ってしまった。REDはそれが気に食わない。
「ねぇ、謝ってよ」
すごんでみるのだが、赤茶のネズミ姿のため、迫力が足りなかったようだ。騎士は土下座するどころか、微かに眉根を寄せて眺めおろしてくる。
「なんで?」
「おいおいおいおい」
ありえなすぎて、ちょっと半笑いになるRED。そのまま二足歩行で、カウンターの上を苛々と歩き回る。
「君ね、お姉ちゃんとまだ結婚していないでしょうが」
「そうだね」
「嫁入り前の娘にキスするって、どういうことだね」
「だけど僕たちは婚約者同士だから」
「馬っ鹿もんがー!」
REDがブチ切れた。卓上で地団太を踏み、両拳を突き上げて怒りをあらわにする。しかし生憎ネズミ姿のため、コミカルな動きにしかならなかった。
「婚約者同士なら、ほっぺにチューまでで、やめるべきでしょうが!」
「え?」
「ばっきゃろーが! 恥を知れ! このチャラ男め!」
「いや、あのね。お言葉ですが、僕らは節度を守ってお付き合いしている」
「どこがだ!」
「この鋼の自制心を褒めてもらいたいくらいだよ。僕は彼女の服を脱がしたことは一度もないし――」
「てめぇ、今、なんて言った!」
REDが飛びかかり、騎士の襟元を締め上げる。しかしネズミ姿ゆえ、マスコットがぶら下がっているようにしか見えなかった。
騒ぎを聞きつけた姉が奥から出て来て、仰天して叫ぶ。
「きゃー! ちょっとあなたたち、何しているの!」
「お姉ちゃん! こんな女たらしとは、一刻も早く別れるのだ! 隙を見て、お姉ちゃんの服を脱がせる気だぞ! そうでなきゃ、あんな台詞は口から出てこない! 貞操の危機だ! 警報、警報を鳴らせー!」
これに騎士がちょっとキレた。
「REDはシスコンがすぎるよ。唇にキスくらい、今日び、子供でも経験している。君だって当然、陛下としたことがあるだろう?」
がーん! REDはショックのあまり騎士の襟首から手を離し、カウンターの上に転げ落ちた。姉が慌ててキャッチしたのだが、手の中で丸まるネズミREDは、虚ろな目でぐったりしている。
「……あの、RED? 大丈夫?」
姉が心配そうに声をかけると、REDのネズミヒゲがピクリと動いた。そして涙目になり、
「うわーん! もうお姉ちゃんは、私の知っているお姉ちゃんじゃないんだー! 騎士とのラブラブチューチューを経験した、別の女なんだー!」
と叫んで、モコモコな腕で涙を拭いながら、店から飛び出していった。姉は呆気に取られ、言葉もない様子であった。
***
丘の上から町並みを見おろし、REDはぼんやりと考えを巡らせていた。
今日は百花祭なので、通りは華やいでいる。そこここに荷車が置かれ、沢山の切り花が荷台に積まれているのが見えた。
喧騒から離れて、石塀の上にネズミ姿で腰を下ろしていると、世界中でひとりぼっちのような感じがした。
「……何しているんだろ」
ポツリと呟きを漏らす。実家で取り乱し、怒りを爆発させたのは、騎士のせいではないことがREDには分かっていた。自分の中に苛立ちの芽があり、それが一気に大きくなって、制御できなくなったのだ。
きっかけは先日のこと。木の枝に登って、ネズミ姿でお昼寝をしていたら、そのうちに文官たちがやって来て、下で雑談を始めた。話の内容は、文官の一人が奥手な娘と付き合っていて、キスすら許してくれないというものだった。
REDはウトウトしながら聞き流していたのだが、『キスすら許してくれない、って、何言ってんの。まだ結婚していないんだから、当たり前だろ』と考えていた。その時は疑うことなくそう信じていたから、ほかの連中が、『大変だなぁ』と同情しているのを耳にして、『不満に感じるなんて、おかしな価値観だな』としか思えなかった。
そのことはほとんど忘れかけていたのだが、もしかすると心の奥のほうに、何か引っかかるものがあったのかもしれない。それで実家に帰ってみたら、あんなことがあったので、混乱してしまったのだ。
――あれ? もしかして私がおかしいの? そんな疑惑が浮かんで、胸がモヤモヤした。陛下とは婚約しているのに、これまで一度も唇にキスしたことがない。頬っぺたにはしたことがある。それがREDにとっての最大限の愛情表現だった。それがとても幼いことかもしれないなんて、考えたこともなかったのだ。
もしかして陛下は、いつまでたってもお子様なままでいる婚約者のことを、不満に思うこともあったのかな? だけど優しいから、我慢してくれていたの? そんなことを考えてしまい、胃の上のあたりがきゅう、と締まるような感じがした。
今日は百花祭。女の子から好きな人に花を贈る日だ。REDは一輪の赤い花を手にしていた。それを眺めおろしながら、ネズミ耳をパタパタと動かす。
……陛下に会いたいなぁ。会って、大好きだよ、って気持ちを伝えたい。それで、唇にキス……は恥ずかしくて難しいかもしれないけれど、いつも一緒にいてくれてありがとう、私のことを大事にしてくれてありがとう、って伝えたい。
ぼんやりしていたら、広場のほうで花火が上がった。今は昼日中であるし、セレモニーの開始を知らせる号砲的なものかもしれない。
パーン! という音が思いがけず大きく響き、ビクリと肩が揺れる。バランスを崩しかけたところで、すぐ近くで羽を休めていたムクドリが急に飛び立ち、REDの肩に当たった。
あ――
グラリと体が傾いて、REDの小さな体が石塀から転がり落ちた。遥か下の地面は傾斜になっていて、樹木が深く茂っている。空の青が見えたのは一瞬のことだった。木の葉を突き抜け、草地に落ちたあと、毬のように跳ねてゴロゴロと斜面を転がり落ちていく。草でできた緑のトンネルを、後ろ向きにでんぐり返ししながら。
「うわぁああああああああ!」
REDは叫びながら転がり続けた。どこまでも、どこまでも。――それにしても、いやに長くないか? このぶんじゃ、地の底まで落ちちゃうよ! 目がぐるぐる回るぞ、助けてくれぇえい!
***
突然スポンと景色が開けた。REDはべしゃりと潰れ、地面に突っ伏した。緑の斜面を落ちてきたはずなのに、周囲は平坦で、広場のようになっている。
空からけたたましい警報が響き、REDは両手でネズミ耳を塞いだ。蜂の羽音を最大音量にして、金管楽器の音を混ぜたような、ブーン、ブーン、という耳障りな音だった。奇跡的にまだ赤い切り花が手の中にあったので、頭から花が生えたみたいになっている。
「な、なんだ……?」
警報とともに、周囲の空気がボワンと膨張して、まとわりついてくるような圧力を感じた。
『――境界ヲ修復シマス――』
謎のアナウンスが流れる。頭の中に直接呼びかけてくるような、変な声だった。
三十秒ほどで音と圧が治まったので、顔を顰めながら体を起こすと、周囲をぐるりとネズミたちに囲われていた。全員が二足立ちしている。
そのうちの一匹が、ルビーの嵌まった杖をこちらに向けて突きつけていた。




