9.痛めた羽根!?
空気の抵抗――降下する浮遊感。
思わず上を見上げるとカラスがいない。
――落ちる!
カルがそう思う間もどんどん降下していく。
「カル!?」
ザーンが気付き、その声でニコが旋回する。
躊躇いは一瞬だった。
「……やるしかねえ!」
闇を、霧を、漆黒の翼が鋭く切り裂く。
王宮の屋根まであとわずかのところで、カルは止まった。惰性でグラグラと揺れる体。そのまま、見張りの目の届かぬ高さまでバサバサと音をあげ、上昇していく。
死を覚悟した体は、一瞬何が起きたのかを理解出来ない。
先に動いたのは感情だった。
――助かった。
だが、次に思考回路が復活し、自分の状況を悟る。ニコの背で、ザーンがカルの腕を掴み、必死で耐えていた。
黒い流線型の身体は上昇する。
……ニ、コ。
黒の、濡れ羽が、ギシリと音を立てたような気がした。慌ててザーンにむかって声をあげる。
「離して! この速さで飛んだらニコがっ!」
だが、答えたのはニコだった。
「馬鹿言うなよう。カルがいなきゃ嫌だぜ、おりゃ〜」
のんびりと――そんな余裕などないくせに――やけに間のびした声が響く。
「……まあ、とにかくだ。おいっカラスども!」
クァッと短い鳴き声を聞く。カルのまわりで、三十数羽のカラスが口々に謝る。
「手伝え! カルはロープに捕まれよ。その方が軽くならあ!」
言われた通り、カルはカラス達のロープを掴む。ただし、足はニコに接したままで。ザーンが無言でカルの腰を支える。
これなら揺れないし、ニコに負荷もそれほどかからないだろう。
「……ニコ」
「んあ?」
「……ごめん」
首をふってニコは家を目指す。
――乾燥剤にふかふかのタオル、大好物の木の実に長椅子の張り替え、これだけじゃ足りない。
ニコの体は悲鳴をあげる。このスピードでは当然だ。カル一人だけを乗せているかのような速さで城下町までやってきた。
「ニコ、私、歩くから先に帰っていて!」
「おりゃ……大丈夫、だよお」
ゼエゼエと荒い息を繰り返しながら、ニコは言う。ただしスピードは全く落ちていない。
「全然、大丈夫そうじゃないよ!」
カルが言ったとたん、今まで無言だったザーンが呟いた。
「――私も歩くよ」
目を見開いて見ると、歪められた眉としかめられた眉間がザンの心情を現していた。
「私も、いや、私が歩く」
カルも顔をしかめた。
「あんた、道知らないでしょ? 話にならない。――ニコ、いいから降ろして!」
うっ、とザーンが怯む。言外に口を聞くなと、告げられたのが如く。傷付いた表情を見せる。
それをカルは見事に無視した。
そんなことはカルにとって、たいした問題ではない。
ニコの大きな闇の翼が悲鳴をあげたような気がした。速度はむしろ上がっていたが高度は徐々に低くなり、今はもう家々の屋根に飛びうつれるようなくらいだ。
だが。
「……ばか言うなよぉ。おりゃ平気だかんな! それよりも……大丈夫か!?」
ニコは羽ばたくことをやめない。猛スピードで住み家に向かう。
「……あと僅かだ。カル、しっかり捕まっとけ!」
ニコはフンッと鼻息も荒く、痛む筋肉に鞭をふるい、激しく動かした。バサリと一振りするたびに、黒く艶めいた羽が霧を切り――舞う。
下肢につく擽ったい感触の下、脈打つ鼓動が。
痛い、と。
訴えている。
カルにはわかっている。
だが、ニコはこのまま運ぶ気だ。どんなにカルが提案したところで、変えはしないだろう。
――あたしのせいだ。
「ニコ」
んあ、と少し間延びした声を出し、ニコが首を傾ける。
「ごめんなさい」
行き辺りばったり、ではないが計画は多少雑だった。実際蓋を開けてみれば、こんな陳腐な仕事運びで。時間が足りなかった、というのは言い訳にはならない。
カラス達に伝えておくべきだったのだ。
それが恥ずかしいことでも。
仕方なく協力してくれているニコに迷惑をかけてしまった。
涙が滲む。
ぐいっと袖口で拭うと、黒い仕事着に鈍く光る銀の跡がついた。
――泣くのはあと。自業自得なんだから。
「ニコ! あと少しだから! 頑張って!」
カルはなるべくカラス達に体重がかかるように、ぐいっとロープを引っ張った。気休めかもしれないが、その方が一時的にもニコが楽になるのではないか、と思った。
四十メートル――。
三十メートル――。
二十メートル――。
十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、今だ――!
「――うわぁあぁっ!」
カラスと自分を繋ぐロープを投げ捨て、ザーンの背を乱暴に掴み、空を跳ぶ。
狙いを外せば再びニコに世話をかけてしまう。
だから、慎重に。
一発で成功するように。
――ゴツッ!
「あああああっ!」
悲鳴と共に床に叩き付けられる――ザーン。
脇でカルはしっかりと受け身をとり、スックと立ち上がる。
背後でうめく彼を放って、今しがた飛込んできた窓に駆け寄った。
「ニコ!?」
一瞬、嫌な考えが頭をよぎる。
階下を勢いよく望めば、目指す黒い生き物はいなかった。
「――どこに」
(上です!)
不意に声がした。バサバサと沢山の羽音をたてて、カラス達がカルを見つめた。
カルは窓から身を乗り出して屋上を見やる。
「見えない!」
踵を返し、扉を抜けて、屋上へと急ぐ。
――ニコ!
階段を駆け上がった。気をとられたせいか、うまく呼吸も出来ず、息があがる。
たかが一階分を駆けただけで、肺が爆発したかのように熱い。
「ニコ!?」
名を叫びながら屋上への扉を開ければ、真ん中にニコが横たわって――否、潰れていた。
「ニコッ!」
慌てて駆け寄り、膝がすりむけるのも構わず、側に座り込む。
「カルゥ……バテたよ、おりゃあ」
「ニコ……ニコ……ごめ、ごめんね」
拭った涙がまた溢れる。自業自得なのだから、泣くことは自分を肯定しているようで嫌だった。それを止めようと、鼻をすするが、涙はとめどなく溢れ、屋上の床に落ちた。
「カル、泣くなよぉ? おりゃ、まだ生きてるからさ〜? 泣くなって」
しゃくりをあげて、首を振る。
「お〜い? カルよぉ……」
横たわったまま、ニコは首を巡らした。
「ったく。おいっ、そこの……なんだっけ? ザーン? まぁいいや。そこの王弟! カルを慰めろ」
呼ばれたザーンは、オロオロと扉口で迷ったあと、近寄ってきて、また迷う。そんな彼に舌打ちし、ニコは声をあげた。
「おいおい! 泣いてる女にはぎゅって抱き締めてやるのが普通だろ〜!? いつもならおりゃ、人になんか譲らないけどもな。今日は別だ」
特別に許可をやる、と偉そうに呟いた。
言われて抱き締めようとザーンがカルを見たときには、ニコの言葉に驚いたおかげで泣きやんでいたけれど。
「とにかくニコを部屋へ」
首を掴んで引っ張りあげて、胸まで持ち上げる。が、重すぎる。
「……動くわけない、か」
ちょっと待たなきゃかな、と呟いて、カルは溜め息をついた。
無理に引っ張ればニコを傷付けかねない。ザーンに手伝ってもらったとしても、上手く運ぶ自信はない。
「……ニコ。平気?」
聞けば、クアッと鳴く。だが、カルにはわかる。
「ちょっと筋がいったね……」
翼のつけ根をゆっくりと撫でて、ニコのそばに座り込んだ。
「ごめんね」
カルが再び謝る。
「……一回でいいぞ。おりゃ、二度も三度も聞きたかねぇ」
ニコがぶっきらぼうに言う。
それは、気にするな、と言ってくれているようで。
カルは一層いたたまれなくなる。
「すまない」
ザーンがカルの肩に大きな手を置いた。
振り返るとザーンも神妙な顔をしていた。
「大丈夫か……?」
カルがうつ向くと、ザーンが小さく溜め息をついた。そのままカルの隣、ニコのそばに膝をつく。
「ニコ。……カルも。ありがとう。私を、盗み出してくれて――」
カルが座っても頭半分高いザーンを見上げる。ニコも首を巡らし彼を見た。
「私は、二人のお陰で諦めていた自由を手にいれた。外の世界に出てこれた――感謝する」
ザーンがニコを撫でた。
一瞬、緊張でもするように首筋の羽毛が立つ。
「しばらく、厄介になる。だが、必ず、自分に合った仕事を見付ける。それが――」
彼がニコからカルへ視線を転じた。紫がかった黒曜石が鈍く艶めく。
「――それが、二人と同じなら嬉しい」
カルは言葉につまった。
――あれほど言ったのに。
塔の隠し階段で、散々諭したにも関わらず、まだザーンは夢を見ていた。
……盗賊なんて、それ以外方法がない人がやるものよ。
カルにも、理由がある。
闇も光も、全てを視ることが可能な――。
突如、バサリと羽音がして、カルはそこから戻される。
目を転じれば、ニコがいない。
「ニ、ニコ!?」
空を見上げれば、霧のなかに黒く羽ばたく姿がある。
「ニコ!」
そのまま、スッと滑空し窓へ入る姿を確認する。慌てて階段を駆け降り、自室へ飛込んだ。
いつもの長椅子にニコはいた。
「よぉ」
「よぉ、じゃないよ」
カルは溜め息をつく。そのまま、応接用の長椅子に座った。
ザーンが追うように部屋に飛込む。
それをニコは見て、話しかける。
「――俺はニコ。古の鳥。カルの相棒だ」
威圧するようにザーンを見つめる。
「おりゃあ、貴様に用はない。住み家が見付かったなら、すぐに出ていけ。それが貴様にとっても――最善だ」
ザーンはしかしニコに負けなかった。
同じように睨み返す。
「その提案を飲む前に、私には名がある――ザーンと呼べ」
「はっ! ふざけるなよ? おいっカル。こいつ今すぐ塔に戻してこようぜ」
「こいつじゃなくて私はザンだ」
「あほだな。カル、やっぱ戻すんじゃなく捨ててこようぜ〜」
ザーンが横を向いてぼそりと呟いた。
「……食ってやりたい」
「いい度胸だな。おいっカル! そいつ、ダダイに押し付けてやれよ」
カルも溜め息をついた。二人を放って、窓に近付く。
窓の外には、まだ嘴に黒いロープをくわえたままのカラス達がいた。
「みんな、ごめんね! ……ロープ回収するから屋上に来て」
争う二人を尻目に屋上へ行くと、すでにカラス達が待っていて、カルは微笑んだ。
「みんな、協力してくれてありがとう」
カルが伝えれば、カラス達は口々にクアッと鳴き、リーダーだと思われるカラスが代表して口を開く。
(……すまなかった。まさか、貴女があれほど重いとは思ってもみなかったのだ)
カルは自嘲気味に笑う。
「仕方ないわ。言わなかったのはあたしだし……今のあたしは前と全く違ってるから――だから探しているのよ」
(その話は耳にしていた。我々も失念していたのだ)
昔、カルはニコの背に乗らずに動物に力を借りてよく空を飛んだ。考えてみれば、あの頃の自分は羽のように軽かったのだ。
(すまなかったな、上手く運べなくて。報酬はいらんよ)
「そういうわけには――」
(いや、もっとこちらがしっかりしていれば良かったのだ。仲間と話しあったが、そういうことで皆、納得している。だから、いらぬ)
そう、とやりきれない気持ちでカルが呟く。
(だが――また何かあったら声をかけてくれ。喜んで協力する)
言い終わるか終わらないかで仲間達は飛び立つ。それを見上げ、同じようにリーダーも飛び上がり、霧の中に消えた。
それを目で追ってから、カルは階下に降りた。
部屋では二人が耳を覆う子供の喧嘩を続けていた。
言い争いは朝までやまなかった。
* * * * *
太陽がのぼり霧が消える頃、《月の塔》に驚愕が走った。
「王弟が! ユーガウド殿下がっ!」
塔に入った衛士が、ぐらりと揺れた。
窓の側、冷たい床に横たわる姿があった。その顔を確認して、一人の衛士が王の間へと急ぐ。
緊急事態を告げ、王に額付くこともせず、それを口にする。
「失礼します! 只今、王弟ユーガウド・ジン・トルディキア殿下がみまかられていることを発見致しました!」