弥生さん
青く澄んだ空が、白くて大きな雲が、世界は綺麗なのだと、世界は美しいのだと、そんな夢を語る様に現実を押し付ける。夏の近い空気が暖かさを湛えて降り注ぎ、温い風が柔らかく過ぎる。子供の笑い声がどこからか聞こえ、追われる様に歩幅を広げる。下を向いて自分の足が動くのをまるで他人事の様に見つめて、外という無限の空間の広さに閉塞感が募って、どこまでも続く真っ直ぐな路地に目眩を覚える 。そうして見上げた、誰かの家の窓に映るてるてる坊主に今朝の事を思い出す。
ゆらりと重力に従って伸びた身体が酷く重く見えた。足先から溢れる液体は恐らく汚物のそれで、この異臭の出処なのだろう。変わり果てているであろう顔を見ることが出来なかった。何もせず呆然と立ち尽くす事しか出来なかった。靄のかかった様に虚ろな頭は鈍く状況を捉える事しか出来ない。
「おはようございます弥生さん」
震える声で、しかしいつもの様に挨拶をして返ってくる筈のない返事に期待する。
(「おはよう直志さん」)
ぎしり、と天井が軋んで、大きな音を立て重いものが目の前に落ちた。
(「聞いて欲しいことがあります」)
彼女が汚物にまみれた床に崩れる。
(「私は、 ひとを殺したことがあります」)
顔は蒼白に、私の真正面に。
(冗談を言わないで下さいと笑うと、彼女は少し悲しそうな顔をした。)
手足が冷たく冷えていく。叫びたくとも声が出ない。
(偶に思うのだ。彼女の仕草や言葉全部、偽物なのではないのかと。)
震える手で遺書らしき紙片を手繰る。脚を縺らせながら、玄関に向かう。
(「もし私が居なくなっても」)
悲しさではなく、ただの恐怖で逃げ出した。
(「許して下さいね」)
溢れ返る暖かな空気に、息が詰まりそうだった。
三丁目の廃屋、裏庭の桜の木。住所と共に記された連絡先は洋菓子店。店主に彼女の事を訪ねるとその住所に連れて行かれた。
「彼女とは昔からの知り合いだった」
スコップで土を掘り起こしながら懐かしむような表情で彼は言う。
「僕は愛していたんだけどね」
「僕と一緒になれば彼女は確実に不幸になってしまうだろう」
「だからせめて彼女に頼まれれば何でもしてあげようと思っていた」
「この処理を頼まれた時は正直嬉しかったんだ」
「俺がやったことにして自首しても良かったんだけど」
「動機はあるしねえ」
「けど彼女は僕を好いてくれてたからそんな事はしなかった」
「だから僕はこうしたんだ」
彼はそうして私を見た。深く深く掘られた穴から微かに見える、あれは誰なのだろう。その既に白骨化した死体に彼女が真実を言った事を知る。
「私はどうすれば良いのでしょう」
彼は笑って首を傾げた。
「君は彼女とどういった関係だったのかい?」
そう言われて気付く。私と彼女は、一体どういう関係だったのだろう。
これどうするんだい、と投げかけられた言葉に、どうにかしておいてくださいと呟いた。
一言で告げるには多すぎて、ただ語るには浅すぎた。私の一目惚れから始まったそれは本当にただの虚無としか言いようのない偽物であった。そうとしか言えないだろう。私は質問に答える事が出来ずにその場を去った。踏みしめる土の感覚が曖昧になっていく。視界が酷く狭く歪む。彼女という幻覚が輪郭を崩していく。
全て忘れたいと思った。空がこれ以上青くならない内に、入道雲が大きくなる前に、痛みが尾を引かない様に、そうしないとならないような気がした。私などが踏み込んではならない世界だった。触れる事で自分まで狂ってしまいそうだった。
ただ一つだけ。この暖かな日差しは、きっと屋内の彼女には届いていないのだろう。何故かそれだけが、どうしようもなく悲しかった。