9話 覚悟
「薬? 一体何の事かしら?」
クリスは惚けてみたものの、声が震えて動揺は隠しきれなかった。
タジダがふむと頷く。
「剣姫の母親が変わった病に罹り、薬を作るための材料を集めていると、冒険者の間で広まっている噂らしいですな。もっとも、広まったのが二年前ということで倅も忘れていたらしいですが」
「へえ、そんな噂が。知らなかったわね」
「惚けるのなら、相手の目を真っ直ぐ見ることですな。それだけ動揺を見せていては肯定するのと差異はありません」
クリスの泳いでいた紫の目がタジダとぶつかった。すぐ気まずそうに視線を外して俯く。
「話しの続きですが、この薬の材料の一つにどうやら儂等が黙っとるわけにはいかんものも混じっているようなのです。それが、山神様と同じ種族であるフェンリルの心臓だとか。もちろん飽くまで噂ですがな」
「そうなの……」
「ええ。しかもこのフェンリルという魔獣は絶滅寸前らしく、現在確実に存在しているとされているのが、あのミリシード山にお住まいの山神様ただ御一方だという話。これが剣姫殿が命懸けで登山された理由でしょう」
クリスは肯定も否定もしない。黙って耳を傾けていた。
タジダがふうと息を吐いた。
「我々が山神様に戦いを挑もうとする者を強く止めないのには理由があります。
もちろん山神様が敗れるはずがないと思っているのも確かですが、それ以上にあの山では生き物が少ない。それは餌が少ないということ。
なればこそ、餌となりそうな人間が山頂に向かうことを反対しないのですよ。山神様の御口に入らずとも、他の魔獣の腹に入れば、それはそれで山頂付近の生物が増えることと変わりませんからな」
ミリシード山に登る者は山神様の糧となって死ね。タジダの言葉を要約すればそういうことで、さすがにクリスも俯いたまま顔を顰める。自分が死ねと言われているのと同義だからだ。
「山神様が亡くなることはないし、斃されることもない。我々はそう確信しているからこそこういう対応をしているのですが、御子様が相手となれば話は別です」
タジダがギッとクリスを睨んだ。
「必要なのがフェンリルの心臓であれば、山神様か御子様かは関係ないはず。剣姫殿はあの方を弑そうとしていたはずだ」
クリスの体がビクッと震えた。一番指摘されたくないところだった。
「儂はこの推察をマイクから聞き、肝が冷えましたぞ。すでに夜遅くになっておりましたが、村中に急ぎ伝達させるほどに。それもこれも、あなたがこっそりと御子様の御命を奪うかもしれない、もしくは御子様を連れてどこかへ行ってしまうかもしれないと考えてのこと。
村総出であなたを監視させてもらいました」
クリスは全て納得した。
あの肉屋のおばさんから向けられた不快そうな目も、嫌がらせとばかりに値上げしてきたことも、売ってさえくれなかったことも、誰も彼もに睨まれている気がしたのも、キートのあの憎々しげな眼も。
全て、自分のせいだった。
「最後に聞かせて貰いたい」
タジダが再び口を開くと、クリスは弱々しく顔を上げた。その顔はフェンリルに戦いを挑んだ少女と同じものに思えないほど、か弱かった。
「別の素材を元に薬を作ることはできないのでしょうか?」
今までの責めるような声音から、労わるような優しい声音に。
これでもう一つ、悟った。
(この人、私が本当にフェンリルの命を狙っているのか確証がないんだ)
だから遠回りに聞く。
クリスがフェンリルを狙っているのかどうかを。
この問いにできると答えようとも、できないと答えようとも、それは前提に薬を必要としていることになり、フェンリルの心臓を欲していることに繋がる。
なぜここで確認するのかはわからない。
噂からの推測が多いため、推測を補強する一言が欲しいのか。
それとも、ほとんど確信しているが最後の一押しが欲しいからなのか。
何にしろ、クリスの思考をよぎったのは一つ。
(まだ、誤魔化せる)
今までタジダの語ったクリスの事情は、真実だった。母親を救うために材料の一つであるフェンリルの心臓を必要としている。
フェンリルが大人か子供かは問わない。ここのフェンリルである必要性もない。しかし、ここ以外にフェンリルを見つけることはできなかった。特に強い力を持つフェンリルだと知っていたが、クリスにはもう選択肢がなかったのだ。
そして挑み、敗れた。
もはや母を助けることはできない。そんな暗く沈んだ気分で村まで戻り、ヤケ酒を飲んでいるところへ現れたのがフェンリルの子供だ。
希望は、繋がった。
(どうする……)
クリスは迷う。
ここでそんなつもりはない、とでも言おうか。あの子の命など必要としない、と口にしようか。
どちらも嘘だ。この場だけの誤魔化しだ。
クリスが何と答えようとも、タジダがフェンリルを簡単に返したりしないことは百も承知しているが、口先だけでも誤魔化して油断を誘うのが一番いい。
幸い、腕ずくで取り返すのは難しくなかった。
その上でクリスが選んだのは。
一度瞑目し、再び目を開けたとき。クリスの紫の瞳には強い力が宿っていた。そこに先ほどまでの怯えは、ない。
「薬の作り方には、複数の方法があります。中にはフェンリルの心臓を使わないものもあるでしょう」
真実を語ることだった。
何故かはわからない。ただ、自分に懐いてくるフェンリルの子供を想ったとき、真実を語らなければならないと思った。
「っ、何と。では、御子様は見逃しても構わないということですな」
安堵したタジダに、クリスは無情に首を振った。
「いいえ。残念ながら精製法は古語で書かれていて、訳された物は全て紛失しています。長い時間を掛けて唯一判明した精製法が、フェンリルの心臓を必要とするものだけなのです」
クリスの脳裏に、フェンリルの姿がよぎった。
足元にじゃれついてくる姿、撫でられて嬉しそうにする姿、クリスを守るように立つ姿、肉を美味しそうに食べる姿、心配そうに見上げてくる姿。
所詮は昨日出会っただけの魔獣だと、全ての想いを振り切り、言い切る。
「私は、あの子を殺します」
空気が凍った。
重い沈黙が流れる。膝に置かれたタジダの握りしめられた手が、ブルブルと怒りを押し殺して震えていた。
クリスは何もあのフェンリルが憎くて殺すのではない。できることなら殺したくない。それでも、母の方が大事だった。どちらかを選ぶのなら母を選ぶ。それだけのことだ。
たっぷりと時間が流れ、タジダが呻き声ともつかぬ声を出す。
「よ、くも……」
さっきまでの冷静な男の姿はそこにはない。怒りで顔が真っ赤だ。
「皆! 来い!」
タジダの声に合わせて扉が開き、ぞろぞろと男達が入ってきた。数はおよそ二十。各々が何かしらの武器を持っているが、剣よりも農具の方が多い。
「御子様の御命を狙うなんて」「ぜってえ、生きて返さねえ!」「死んで詫びろ!」「たかだか母親を助けるだけのことで、罰当たりな」「もっとまともな人だと思ってたよ」「殺してやる」「あんなに懐かれていたのに、恩知らずが」
いくつもの罵声と怨嗟の声がクリスへと向けられる。敵意と憎悪が渦巻き、殺意となって赤い少女へと降り注がれる。
しかし、もはや弱気を見せることなく甘んじてそれを受け入れる。殺すと覚悟をもって口にしたのだ、この程度の殺気など今更のこと。それに旅の間にこれより恐ろしい殺気には何度も晒されたのだ、武器も持ったことのないような素人達の殺気など無いに等しい。
(もう、覚悟はできている。私は、あの子を殺す。邪魔をするなら、そいつも一緒に)
クリスは鞘に収まったままの剣を掴むと、ゆらりと立ち上がった。
「いくらAクラスの冒険者とはいえ、この人数相手ではどうにもなるまい」
「村長さん……呆れたわね。Aクラスの冒険者を舐めすぎじゃない?」
人が多く集まっているのは知っていた。気配を隠す術も知らない素人だ、わからないはずもない。
それでもクリスが余裕を持っていたのは、十分対処可能だと判断していたため。
強者が隠れている可能性を考えないでもなかったが、実際に目の当たりにして、全員を切り殺すのに十秒あればおつりが来ると判断した。
Aクラスの冒険者というのはそれだけの実力を持っているのだ。
(私が力ずくで動いたらどうするつもりなんだろうと思ってたけど、まさかこれほど過小評価されてたなんてね)
明らかにタジダの失策だった。
「ゴメンね」
クリスが謝罪と共に赤い輝きを放つ剣を抜いたとき、部屋の向こうから悲鳴が聞こえた。