6話 呼び出し
「ふわぁ~、良く寝たわ」
目を覚ましたクリスは気の抜けた声を出しながらベッドの上で大きく伸びをする。
昨日は酒場で眠ってしまっていたクリスだが、人が多くなる深夜帯に入ろうかという頃にマスターに起こされ、村唯一の宿に移動していた。
部屋には脱ぎ捨てられたままの服が散乱しており、起きたばかりのクリスは下着姿だ。顔には未だ幼さが残っているが、しっかり成熟した体つき。肩には包帯が巻かれているが、それ以外に傷跡のない綺麗な体をしていた。
誰もいないからこその隙のある姿。
しかし、この場を盗み見る者が一人居た。
それも部屋の外から覗くのではなく、堂々と中から盗み見るものだった。
(いやー、眼福眼福。服の上からでもわかってたけど、やっぱり結構育ってんのな! 種族の違いのせいか、欲情するってわけじゃねえんだけど、朝からいいもん見れたわー)
部屋の端で丸まり片目を薄らと開けるフェンリルである。尾は左右にゆっくり揺れて、これ以上なくリラックスしている。
昨夜宿から出たクリスにくっついてきたフェンリルは、宿の主人に嫌な顔をされたものの、山神様の御子ということでクリスの部屋まで入ることに成功したのだった。
御子の噂はすでに村中に広まっていたのだ。
「……あれ? 何であなたがここにいるのよ」
フェンリルを見つけたクリスが不思議そうに呟く。
酒が回っていたことと、山を降りてきたばかりの疲労が蓄積して意識が朦朧としていたクリスは、怯えるように後ろをついてくるフェンリルに気づいていなかった。
起きてみたら何故か部屋にいた。その程度の認識だ。
(やっぱ気づいてなかったのか。酔っぱらってたもんなあ。俺も殴られたくなかったから、後ろをコソコソついて来たし、仕方ねえか
……そういや昨日のナンパ男、顔の形変わってたけど大丈夫だったかな)
昨日、酔っぱらっていたクリスをナンパした男が有無を言わさず殴り倒される現場を目の当たりにし、他人事ながら酷い恐怖を覚えたフェンリル。それこそ、愛するクリスをナンパした男の方を思わず心配してしまうほどの、凄惨な光景だった。
思い出しただけで肝が冷え、悄然と尻尾が垂れる。
「あれ、元気なくなっちゃった?」
いくつかの疑問に首を傾げながらも、クリスはベッドから降りて下着姿のままフェンリルに近づく。膝を抱えて傍に座ったときには、フェンリルの尾が激しく振り回されていた。
「撫でるまでもなく元気になったわね」
クリスは苦笑しながら艶やかな毛並を梳くように撫でる。
しばらくその感触を楽しんでいたクリスだったが、ふと表情に影を落として呟く。
「昨日はそこまで頭が回らなかったけど、あなたがあのフェンリルの子供っていうことは、やっぱりフェンリルなのよね……?」
それは誰かに訊ねるような問いではなく、自問する感が強い。
突然様子の変化したクリスにフェンリルは心配そうに顔を上げると、憂鬱そうに、あるいは苦しそうに顔を歪めるクリスの姿が目に映る。
何故そんな顔をするのかと言いたげに目を細め、慰めるように頬を優しく舐めた。
「ふふ、くすぐったいわよ」
少しだけ元気になったクリスに安心したとき、部屋の外から近づいてくる気配を感じて意識を扉の方へ向けた。
「どうしたの? ……ん?」
クリスも少し遅れて、近づいてくる人の気配に気がつく。
念のためにとクリスは慣れた動きで立てかけていた剣を手に取る。
(私が女だからって、襲われかけたことは度々あった。もしそういう邪なことを考えていれば、切り刻んでやればいいわね)
ぶっそうなことを考えながらも、同時にそうはならないだろうとも思っていた。
恥知らずな輩が我が物顔で横行するのは大抵夜中で、陽の上った今の時間帯では考えにくいからだ。
しかし、いつでも例外というものは存在する。クリスは警戒を解くことなく、下着姿のまま剣を抜いて構えた。
やがて気配が部屋の前で止まり、ノックの音が響く。
「宿の者ですが、起きてますか?」
「ええ。起きてるわよ。何か用?」
「はい。実はお客様に話があるという方の使いが見えてまして。出てきてもらってもいいですか?」
「……今、着替えてるところだから少し待ってもらえる?」
「わかりました。食堂の方でお待ちしているそうなので、お伝えしておきます」
あらかじめ決められていたのか、あっさりと遠ざかって行く気配。
完全に離れたことを確認したところでクリスは息を吐いて剣を下げた。
部屋に放り散らかされた服を手に取りながら、クリスは使者とやらについて考える。
(こんな朝早くから何の用かしらね。考えられることと言えば、やっぱりこのフェンリルの子供について。昨日の様子からでも随分フェンリルに依存している村だっていうのはわかったし、放っておくはずもないか。
その方向で考えられることは、それほど多くない。けど、狂信者はときに想像の斜め上を行く。気は抜けないわね)
着替え終わり、扉へと鋭い視線を向ける。
「さて、それじゃ行くとしましょうか。フェンリル、おいで」
部屋を出ながら指示すると、尻尾を振りながら足元にじゃれつきついてくるフェンリル。
クリスの口元に思わず笑みが浮かんだ。
(何でこんなに懐いてくるのかしら? まるで私の指示を理解してるみたいに動いてくれるし。フェンリルが人の言葉を解するっていうのは有名だけど、まさか本当だったなんてね。誇張されてるだけだと思ってたわ。
……まずいわね、情が移りそう。この子は魔獣、人類の敵。今言うことを聞いてるからって絶対に心を許しちゃいけないのに。
それに、私はこの子を……)
長い間一人で旅をしてきたからか、よく懐いてくるフェンリルに心が癒されるのを感じ、だからこそ憂鬱になる。クリスが表情に影を落とす中、足元にじゃれつくフェンリルも何事かと考えていた。
(朝早くから用事、ねえ。やっぱり俺のことなんかね。あの酒場の対応を考えたら、早く山に返せとか言われそうだな。
その場合、俺は拒否する。けど、俺の意思なんて無視して下手すりゃ力づくで返そうとする輩もいるかも。
ま、いざってときにゃ俺が守ってやればいいよな。なんたって俺、敬われてるし。庇う仕草みせてやれば、昨日みたいに何とかなるだろ。
けど一応この娘にも警戒しておくよう促すか)
フェンリルがウォンと一声鳴く。
突然吠えたフェンリルにクリスはきょとんとしたものの、激しく振られる尻尾を見てクスリと笑った。
「構って欲しいの? でも今は駄目よ。あまり時間がないからね」
(そうじゃない! 構って欲しいけど、そうじゃない!
俺は何があるからわかんねえから気をつけろって言ってんの!)
否定するようクリスにもう一度吠えると、
「仕方ないわね、ちょっとだけよ?」
笑いながら目線の高さをフェンリルに合わせて、顔を撫でまわしてやるクリス。
(そうじゃない! 嬉しいんだけど、そうじゃない!
天国に登るようなこれ以上ない心地良さなんだけど、そうじゃない!
ええい、離せー)
心の中で離せといいながら、撫でられる心地良さに尻尾を振り回して一切抵抗しないフェンリル。
そのうちに、いざとなれば俺が助ければ、そして俺に対する好感度が上がればと考え、そこで考えることを止めた。