5話 擦り付け
フェンリルが姿を変えて現れたのはそう難しい説明がいるわけではない。
単に惚れた赤髪の少女であるクリスを追いかけるのに、一番問題のない形にしただけのことだ。
始めこそ、圧倒的な力の差を見せつけてあえて見逃すことにより、テイム能力を気付かせようとしていたフェンリルだったが、追いかける直前になって別の策を思いついたのだ。
当初の予定では、
『まさか私を追って……? いや、魔獣が人に懐くなんてあり得ない。でも、あれだけの力を持ちながら私を逃がしたうえ、追いかけて来るなんて……。ハッ! もしかして私にはテイム能力があるのかも』
的な展開を考えていたフェンリルだったが、それよりも体を小さくして改めて接する方が、赤髪の少女の警戒が解けるのではと考え直したのだ。
自分より体が大きい生物に対して、人は本能的な恐怖を覚えるもの。むしろ元の大きさのフェンリルが追いかければ、トドメを刺しに来たとさえ思われかねない。
そこで、自身の体を一番適した形に変えることにした。
フェンリルにとっての理想は人化することだったものの、この世に人化などという便利なものはない。せいぜいミミックやドッペルゲンガ―などの、相手の姿を真似られる魔物がいるぐらいのものだ。
しかし体の大きさを変える程度のことなら、長年の研鑽により問題ない。もちろん実力も相応に下がるというデメリットの他、元の姿に戻るにも一定の条件を達成する必要があるのだが、惚れた子の傍にいられるというメリットが遥かに勝る。
それに、
『この子はフェンリルの子供かしら。こんなに私に懐くなんて……。そういえば、親の方も何故か攻撃的じゃなかった。……ハッ! もしかして私にテイム能力があるのかも』
的な展開も期待でき、決してフェンリルに悪い状況ではない。さらに言えば、小さくなることでより可愛がってもらえる可能性があり、そこまで行けば大成功だ。この時点でもう大きいまま会いに行こうという考えは消えた。
そうして体を小さくし、少女の匂いを辿って村の中を通り、意気揚々と誰にも気づかれることなく酒場へと入ったフェンリルだった。ちなみに酒場での会話は、酒場に入る前から聞こえていた。
身体能力はともかく、五感に衰えはないのだ。
(しっかし、まさかこんな敬われてるなんてなぁ……。こんないつの間にかできてた村なんて気にした覚えねえんだけど)
未だひれ伏すマスターを見たフェンリルもクリスと同じく、居心地の悪さを感じていた。普段は命を狙いに来た人間ばかり相手にしていたから、尚のこと気持ち悪い。
立ち上がれと意思を込めてウォンとマスターに吠えると、体をビクンと震わせてますます頭を伏せる。脅かしたつもりはないのに、甚だ不満な結果になった。
「……今のは多分、立っていいって言ったんだと思うわよ。というか立ってくれないと凄く居心地悪いんだけど」
呆れた様子のクリスに言われて、マスターを含めた客達が恐る恐るフェンリルの顔色を窺う。本当に立っていいのだろうか、失礼に当たらないだろうか。マスター達の顔が困惑に染まる。
チャンスとばかりにフェンリルが頷いてクリスの言葉を肯定すると、マスター達は互いに顔を見合わせて躊躇しつつも、ようやく立ち上がった。
(そんなに俺が怖いのか。どちらかというと、俺が何度も滅ぼしかけてんだけどなー。あの山の奴ら、加減しらねえんだもん。こないだのナイトベアみたいに、しょっちゅう雪崩起こすような攻撃仕掛けてきてさ)
フェンリルは長き時を生きる聖獣である。その実力に匹敵するものは世界中探してもそう多くない。フェンリルほどの強者と相対した魔物は恐怖に駆られ、生き延びるために一切手加減するはずもなかった。
「しかし御子様がここに来ていることを山神様が知ったら、お怒りになるんじゃないのか?」
「まさか赤い姉ちゃんが攫ってきたわけじゃねえよな?」
「そんなわけないでしょ。私がここで飲んでいたら、この子の方が来たの。そんなこと、あなた達だって知ってるでしょ」
「だからって山神様の御子様が態々降りてくんのもおかしいだろ。山頂にお住まいの方だぞ、誰かが連れてきたとしか考えらんねえ」
立ち上がった客達が不安に駆られるようにクリスへ疑惑の目を向け、口々に責めるようなことを口にする。
山神様の怒りに触れたかもしれない。そう思えばこそ、皆の口は自然と厳しいものになる。
あまりに身勝手な理屈。クリスも始めこそ言い返していたが、突然晒された敵意に困惑を隠せず、やがて身を竦めて小さくなる。
誰もが自分達のことばかり考えていたせいで、フェンリルが不機嫌そうに唸り出したのにも気がつかなかった。
責めること自体がフェンリルの怒りに触れているのだと、気づかなかった。
(この糞共が! 自分勝手な理屈で他人責めてるんじゃねえよ、ボケ! いっそのこと俺が直々に滅ぼしてやろうか。
それと! 誰かこの子の名前呼べよ、未だに何ていうのかわかんねえじゃねえか!)
前者八割、後者二割の怒りでフェンリルが低く唸り出すと、クリスに文句をぶつけていた者全てが恐怖に震えて押し黙った。
クリスが怯えて俯くマスター達を見回し、何を思ったかふっと優しく笑う。味方が誰もいないと委縮していたクリスだったが、まるで守ってくれるように構えるフェンリルのおかげで肩の力が抜けた。
「庇ってくれたの? ありがとね」
フェンリルの頭に再び温かい手が触れた。女の子らしいとはいえない、何度もタコを潰した剣士の手。しかしフェンリルはこの手が何より愛しく感じられ、唸り声を止めて撫でられるがままになっていた。
「さて、と」
クリスは今一度、周囲を睥睨する。
自信満々に、侮蔑するように。
委縮していたクリスとは別人のように。
じっくりと間を開けてから、口を開いた。
「あなた達が大事にしている御子様は、みっともない罵詈雑言に大変ご立腹のようだけど、これはあなた達の中では問題にならないことなのかしら?」
フェンリルが客達の言葉に対して不愉快に感じていただろうことは、誰の目にも明らかで、だからこそ無言が貫かれる。
御子様の不興を買った。どう考えても大きな問題になる。今になってそんな考えが浮かんできたが、今更どうにもならない。その事実にある者は体を震わせ、ある者は顔面を蒼白にする。
あまりの怯えように溜飲を下げたクリスは、勿体ぶってから再び口を開く。
「いいわ、許してあげる。けど今日は皆の奢りね」
どことなく幼くも色っぽさを漂わせて笑うクリスに、一瞬何を言われたのかわからなかったものの、理解した瞬間ほっと場が弛緩した。
すでに全員がフェンリルの怒った理由を、クリスに責任を押し付けようとしたからだと理解しており、クリスが許してくれるのならきっと御子様も許してくれるだろうと思ったからだ。
酒を奢る程度のことで怒りを収めてくれるのならなんていうことはなかった。
「よし、いいだろう。悪かったな、責任を押し付けようとして。ここは俺の奢りだ、いくらでも飲め! お前達も! 酒の場で不愉快にさせちまった詫びだ、今日はタダにしてやる!」
マスターが腰に手を当て、胸を張って剛毅に宣言する。
数人程度しかいない酒場だったが、一気に活気を取り戻し、その騒ぎは夜になるまで続いた。
◇◆◇余談◇◆◇
――数時間後。
「おい、あんた。こんなところで寝てたら風邪ひくぞ」
「んぅ~、もうちょっと~……」
「余所もんか? あらら、すっかりできあがっちまってやがる。仕方ねえな、俺が宿まで運んでやるとするか」
いかにも親切でするのだと言わんばかりのことを口にしながらも、その顔は下心満面のだらしない笑みを浮かべ、クリスの肩を抱こうとしたとき、別の客が慌てて止めた。
「おい馬鹿、やめろ! 死にてえのか!」
「あん? どうしたんだよ、そんな必死になって」
「必死にもなるわ! あの人は御子様のお気に入りだぞ、気軽に触れるんじゃねえ!」
「何、この嬢ちゃんがか?」
男は自分が何をしようとしたかを思いだし、冷や汗が流れるのを止められなかった。
時刻はすっかり陽の落ちた頃となり、山神様の御子に懐かれた少女がいるというのは村中に知られた今一番の話題だ。
もちろんこの男も耳には入れていた。しかしどんな少女なのかまでは知らず、そしてクリスの近くに御子らしい狼はいなかったため気づかなかったのだ。
しかし改めて御子様を探してみれば、酒場の端で伏せっているそれらしい狼が一匹。
「それだけじゃねえ。少し前にも連れ帰ろうとした馬鹿がいたんだが、触った途端酔っぱらった嬢ちゃんにボコボコにされたんだぞ」
「ぼ、ボコボコって冗談だろ? こんなぐっすり眠ってるってのに」
「酔っぱらってるからかしんねえが、一切手加減しないで馬乗りだぞ……。五人掛かりでも止まんねえんだぞ……。
冗談だと思うなら触ってみろよ。どうなっても知らねえからな……」
止めた男は恐ろしいものでも見るような目でクリスを一瞥し、去っていく。その様子に真実味を感じた男は、逡巡したものの、こんなことで怪我したらばからしいと同じく去って行った。
(コワイコワイコワイ……酔っぱらってるあの娘は怖い……)
そしてトラウマを作っていたものが一匹……。