4話 山神の御子
赤髪の少女、クリス・シーロッドは疲れた様子で、寂れた酒場へと足を踏み入れた。クリスの他には何が可笑しいのか馬鹿笑いしている客が一グループいるだけ。昼間っから飲んだくれている彼らに侮蔑の視線を浴びせながら、クリスは乱暴にカウンターへと腰を降ろす。
「マスター、強めのを一杯」
「はいよ、ってあんたか。その様子じゃ会えなかったみたいだな。まあ、滅多にお目に掛かれない方だからな、仕方ねえよ」
髭面のマスターがついこの前来たばかりのクリスだと気づき、慰めながら注文通り強い酒を渡す。この地方で作られる青い独特の酒で、甘味が強く飲みやすい。
クリスはそれをチビチビと口に含みながら、フェンリルに手も足も出ず負けたときのことを思い出して不機嫌に愚痴を零す。
「会えたわよ。そして完膚なきまでに負けたわよ。私の剣が全く当たらなかった」
「何!? 山神様にお会いできたとは、そりゃ運が良い。
けど剣姫の嬢ちゃんでもやっぱり山神様にゃ勝てなかったか。まあ、命があったんだ。上々なんじゃねえのか?」
「上々? とんでもない! あいつが気まぐれを起こさなかったら、今頃この世にいないわよ。
雪崩から助けたことといい、どこまでもふざけた魔獣よ!」
「ん? 山神様だったら、よく人を助けてくれてるぞ」
「……そうなの?」
山神様という単語に眉を顰めながらも、持っていたグラスをコトリと置いて耳を傾ける。
例え相手が魔獣という危険な生き物だったとしても、地域によっては信仰される対象になっていたり、人が魔獣の生態をうまく利用して暮らしていたりというのはありえることだ。
だから世界中を旅しているクリスにとって、莫大な力を持った生き物を神様だと敬うのは、比較的理解できる範囲であった。
しかし、魔獣が積極的に人を助けるのかと聞かれれば、疑問を持たずにいられない。魔獣は世界の敵と呼ばれ忌み嫌われるほど、むやみやたらに殺生を繰り返して命を奪う。
そんな存在が人を助けると聞いても現実味はない。
「ああ。遭難した人を送り届けてくれる程度だけどな。もちろん全員じゃねえが、相手は神様だ。助けるか助けないかなんて、気まぐれで決めてるんだろうさ」
「へえ、なら私を助けたのもそんな一例なわけね」
「いや、お前さんは例外だと思うぞ。
確かに山神様は寛容で、この村に襲い掛かる雪崩を止めてくださったり、雪の量を調節して困らないようにしてくださってるが、敵には容赦ない一面もある。
昔居たなんたらって一族が総出で山神様に挑んだらしいが、ほとんど帰って来なかったなんて話も残ってるな」
「……そうなの。あんな化物に挑むなんて、馬鹿な一族も居たものね」
「化物って、あんた」
不愉快そうに渋面を作るマスターを無視し、自嘲げに笑ったクリスはグラスに残っていた酒を一気に呷る。
「おいおい、そんな強い酒一気に飲むなよ」
「ふぅ、これぐらい平気よ。それより、もう一杯」
「はいはい。ヤケ酒は体に悪いぞ?」
「いいでしょ、別に。……ん?」
マスターから新しいグラスを受け取り口を付けようとすると、足に柔らかい物が触れて足元を見る。
今までいなかった、もしくは気づかなかった生物が親しげな蒼い目を向けて尻尾を振っている。
「……犬?」
「どうかしたか?」
「犬が居たのよ」
「なに、犬だぁ?」
マスターが首を伸ばして覗こうとしたものの、カウンターの影で見えないらしく、不機嫌にカウンターから出てきた。いつの間にか店の中に動物が入っていたのだ、不機嫌になっても仕方ない。
本当に居たらひっ叩いて追い出してやる。そう考えていたマスターがクリスの言った犬を見つけた。藍色を基調とし、足の先と尻尾の先が白く、額にひし形の黄色い模様を持った、大型犬だ。いや、狼だ。
マスターの顔が強張る。
道端で遭遇すれば大慌てで逃げ、村中に呼びかけなければならないレベルの大きさ。
しかしこの狼は凶暴な肉食獣とは思えないほど大人しく、尻尾を激しく振り回しながらクリスにじゃれついている姿だった。
すぐに納得して、これなら心配ないとマスターは胸を撫で下ろした。
「こりゃ犬っつうより狼だろ。困るぜ、嬢ちゃん。ペットを店に入れて貰っちゃ」
野生ならともかく、人に飼われ懐いたペットなら危険はない。マスターの危機感のない注意は当然のものだった。
そもそも野生の狼が態々人のいる店に入ってきて、無関係の人間にじゃれついていると考える方がおかしい。これを信じるぐらいなら、こっそりとペットを入れたのか、他で待たせておいたのが追いかけてきたのだと考える方が遥かに自然だ。
まあペットでも怖いものは怖いので、ひっ叩くというマスターの決意はあっさりと廃棄されたが。そしてペットだったとしても、ひっ叩けばマスターの身が危険だったわけだが。
「私? 私じゃないわよ、こいつが急にじゃれついてきたのよ。にしても狼って……しかもよく見たらこの模様。あのフェンリルと同じじゃない」
つい最近敗北したばかりの巨狼の姿を思いだし、不機嫌そうに振り払おうとしたが、
「山神様と同じ模様だって!」
突然のマスターの大声に体をビクッと震わせ、もう一度酒を飲もうとしていた動きを止めた。楽しげにじゃれついていた藍色の狼も驚き、マスターを見上げた。店内に居た少ない客達も下品な笑い声を収めて何事かとマスターを注視する。
店内の注目を一身に浴びたマスターだが、本人はそれどころではなく、今まで感じたことのない緊張に身を包まれていた。
「そりゃ山神様の御子じゃねえのか!?」
「はあ?」
マスターの指摘にクリスは首を傾げたものの、改めて足元の狼を酔いの回る目で見ると、その姿は雪山で対峙したあの巨狼とダブって見えた。
「……ああ、そうかもしれないわね。大きさはともかく、あいつと瓜二つだわ」
クリスがそう断言すると店内は異様な静寂に包まれ、狼が落ち着きなさげにキョロキョロと周囲を窺う。酔い始めているクリスだけが気づかず、何を考えたのかおもむろに手を伸ばして狼の頭を撫でた。
「ああっ!」
誰かが恐怖とも驚きともつかない声をあげたが、クリスは気にしない。そもそも聞こえていない。
クリスは自分で思うほど、酒に強くなかった。
(わぁ、柔らかくて気持ちいい。野生じゃなかったのかしら、毛艶も良くてサラサラしてる。そういえば少しだけ触ったフェンリルの毛皮もこんな感じだっけ。気がついたばっかりだったからおぼろげだけど。いつまでも撫でたくなるわね、癖になりそう)
いつの間にやら、にへらとだらしない笑みを浮かべて、尻尾を大きく振り回す狼の頭を撫で続けていた。
しばらくそうして和んでいたのだが、ふと周囲が静かなことにようやく気がついて辺りを見渡し、思わず顔を引き攣らせた。店内にいたマスターと客達がクリスに向かってひれ伏していたのだ。正確にはクリスが撫でまわしている藍色の狼に、跪いていた。
「ど、どうしたのよ、一体」
何が起こっているのかわからず、近くにいたマスターに訊ねる。
「あ、あんたは村の人間じゃねえからわからないかもしれないが、そちらは山神様の御子だぞ! この村に伝わる神様の御子だぞ! それを無遠慮に触れて……、村に災厄が降りかかったらどうするつもりだ!」
ひれ伏せながらも、上目使いに睨んでくるマスターの迫力に押され、たじたじとなるクリス。
「や、山神っていっても、ただの魔獣で……いえ、ごめんなさい。何でもないわ」
フェンリルと相対したとき以上のいくつもの殺気がクリスに振りかかり、慌てて謝罪する。実力の面でありえないことと理解しながらも、確かに身の危険を感じた。
「でも、きっと大丈夫よ。この子もほら、こんなに大人しく撫でられてるし」
もう一度クリスが撫でてやると、肯定するようにウォンと一声楽しげに鳴いた。しかし、周囲の者達にとって本人が楽しいかどうかはあまり関係ない。人間が親しげに山神様の御子を撫でているという状況が、只管畏れ多いのだ。
山の麓にあるこの村は度々山神と呼ばれるフェンリルに救われている。もしフェンリルがいなければ、とっくにこの村は滅んでいたはずだった。少なくとも村ではそう伝わり、フェンリルに対して崇拝と尊敬、そして感謝の念を持っていない者はいない。
その神にも等しい方の御子が村に居る。
もちろん間違いかもしれない、偶然模様が似ていただけかもしれない。
しかし、何か粗相をして山神様の機嫌を損ねてしまえば。考えただけで体が震える。芯から得も知れぬ恐怖が呼び起された。
この村の住人ではないクリスにはわからない感覚だったが、それでも村人達がフェンリルを怖れ敬っていることは理解した。
同時に一つの疑問が浮かぶ。
「そんなに大切にしている山神様なのに、どうして私が行くのを止めなかったのよ?」
ひれ伏したままのマスターに話しかけるのを、些か居心地悪く思いながら訊ねる。
「山神様に挑もうって奴は昔から何人も居たさ。時に国をあげて討伐隊が組まれたことさえある。
山神様はその全てを返り討ちにして生き残ってるんだ、今更一人二人挑んだところで何かが変わるもんじゃねえ。
けど、止めようとはしたんだぞ? 少し話しを聞いただけで飛び出してったのはあんたの方だ」
そうだったかな、とクリスは過去を振り返り、確かにフェンリルの存在を確認したあとは急いで酒場を出たのだと思いだした。出る間際に制止の声さえ聞こえたような気がしたが、足を止めることはなかった。
浮かんだ疑問にはある程度納得したクリスだが、この状況に一番驚いているのは大人しく頭を撫でられている狼、フェンリルだった。
(何で俺、こんな敬われてんの!? 今まで止めてきた雪崩とか、全部俺が原因なんだけど!? 寝覚めが悪いから止めてただけなんだけど! しかも雪の量の調整とか、やったことねえよ!?)
いつの間にか誤解に満ちた扱いを受けていたと知ったフェンリルは、困惑しながらも頭に感じる温かさに嬉しそうに目を細めていた。