2話 戦闘
「ここ、は……」
少女のかすれた声を聞き、フェンリルの尻尾がその動きを早くした。
(気絶から約二時間、ようやく起きたか。てか声凛々しいな! イメージより勇ましそうだ)
ようやくまともに聞けた少女の声にテンションの上がるフェンリル。眠っていた間に感じていた色々な不安や、面倒事に対する煩わしさなど全て吹っ飛んでしまった。
ただ彼女の声が耳に心地良い。もっと聞いていたい。そんな感情が胸の奥から湧いてきた。
しかし、少女はフェンリルほど暢気でいられない。
始め霞み掛かった意識が、こちらを見つめるフェンリルの顔を認めるに当たって、急激に浮上し、体が強張る。
「魔氷狼、フェンリル……」
呆然として呟き、次いで命の危機を感じると、慌てて起き上がり剣を抜き放ちながら距離を取る。気を失う前には一メートル先さえ霞む吹雪が襲って来ていたが、すでに止み、曇天で薄暗くなっている以外に視界を遮るものはない。
薄らと赤く発光する刀身をギラリと輝かせ、フェンリルへと向けると同時に、チラリと転がっているナイトベアの死体に、自身の紫の瞳を向ける。
「伝説の魔獣が、私を助けたり守ったり、どういうつもりよ」
敵意と疑心の織り交ざった視線を受けて、フェンリルははてと首を傾げた。
(魔獣? 俺は聖獣なんだけど、てかあいつらと同じに見られるのは心外だな。魔獣ってとにかく他の生物殺すことしか考えてないんだぜ? 俺と一緒にすんなよなー)
内心で魔獣と一緒にされた不満を吐き出すフェンリルだが、少女の見た目にはハッハッと荒く呼吸をし、何故か激しく尻尾を振る自身より大きな獣としか映らない。
その善意が通じないまま、少女は敵意だけをさらに強くし、自嘲気味に笑う。
「……聞いた私が馬鹿だったわね。魔獣の気まぐれに理由なんてないか。
でも、感謝だけはしてあげる。せめて楽に逝かせてあげるわ」
例え相手が魔獣だとはいえ、命を救われながら命を狙うことの愚を少女は知っていた。恥知らずは重々承知。それでも尚目的のために少女は剣を振るうことを選ぶ。
チクリと痛む胸を押し込んで雪を踏みしめ、フェンリルへと一気に迫る。地面の悪さ故に踏み込みが浅くなったと少女は顔を顰めたが、傍目には何の影響も見えない力強さ。
フェンリルへと剣を振るい、宙に赤い軌跡が残る。
「チッ!」
舌打ちする少女を後目に、剣を避けたフェンリルは距離を取りつつも内心落胆し、嬉しそうに振られていた尻尾はいつしか悲しそうに垂れていた。
(……やっぱり、わかりあえるはずもねえか。テイム能力にこいつが気づいたならまだ可能性はあったんだけどな)
テイム能力は基本的に一系統にのみ有効だ。
世間一般に多くいるのは魔狼種であり、聖狼種は数が極めて少ない。そしてフェンリルは聖狼種。フェンリルが今まで会ってきた聖狼種のモンスターテイマー達は誰しも己の能力を自覚しておらず、フェンリルが何かしら手伝ったとしても、この少女と同じように気まぐれとしか思わない者ばかりだった。
もちろん、テイム能力の利きにくいフェンリルが、それらしい行動を取らなかったという理由もある。これほどテイム能力者に近づいたのはフェンリル自身初めての事だった。
気づいて欲しいというフェンリルの想いと裏腹に、少女はさらに攻撃を加えるべく距離を詰めてきた。
雪での戦闘に慣れたのか、さっきよりも動きが良い。普通、この雪山のような気温の低いところだと動きが鈍くなっていくものなのに、少女は別らしい。
一閃、二閃と赤い剣戟が増え、それでもフェンリルは反撃することなく避けるに留めた。
ただ攻撃したくないだけのフェンリルだが、その意図がわからない少女は舐められているのだと思い、歯噛みし、攻撃をさらに激しくしていく。
フェンリルに肉体的ダメージは全くない。掠りさえしないのだ、ダメージがあるはずもない。
だが、精神的なダメージでいえば、少女はこれ以上ないほどのダメージを与えていた。
(憂鬱だわー……。惚れた子からこんな敵意の籠った眼で見られんのも、攻撃されんのも、凄い憂鬱だわー……。声出せねえのがこんなに辛いとは、な。何百年振りの感情だよ、これ……)
どれほどの時を一人で過ごしてきたか。
とっくに忘れたと思っていた感情が胸に去来する。
「ウオオオォォォォォン!」
唐突に、フェンリルは雄叫びを上げ少女がビクリと固まる。何をする気だ。少女の目はそんな疑問に満ちて、体は何が起こっても対応できるよう警戒しているが、この雄叫びに意味はない。ただ吠えただけだ。
雪山に遠吠えが響き、山彦が返ってくる。
しかし、何も起こらない。
「……一体、何がしたいのよ」
不可解な行動だった。
しかし、何故か哀しげで戦意を鈍らせる雄叫びだった。あるいはそういう効果のある術だったのかもしれないと、少女は意識して再び戦意を滾らせる。
「魔獣の考えなんて、考えようとするだけ無駄か」
それだけ口にすると、少女は再び剣を振るった。
魔獣だから。
結局少女の思考はそこに帰結するのだ。
理解し合うには、種族と言葉の壁は遥かに大きい。
(しゃーねー。とりあえず今は諦めるか。パスを繋げる機会は他にもあんだろ、きっと)
テイマーと使役獣の関係を正式に持つと互いに言葉を交わすことができ、居場所もわかる「魔導回廊」を繋げることができる。しかし、このパスを繋げるにはテイマー側からの能力使用が必須。フェンリルからはどうにもならないことだった。
今パスを繋げることがフェンリルにとって最良だったが、現状ではとても不可能と判断し、今回は別の方向で攻めることにした。
つまり、『こんなに力の差があるのに、あなた何考えてるの!?』作戦だ。簡単に解説すれば、少女に圧勝した上で逃し、疑問を持たせることで少しでも好意的に意識してもらおうといういじらしい作戦だ。
即興で考えたにしてはうまい作戦なのではないかと、フェンリルは一人内心で納得し、圧勝という前提を満たすため、フェンリルも戦意を昂ぶらせる。
「っ、ようやくやる気になってみたいね」
雰囲気の変化を敏感に感じ取った少女は愚直な攻めを止め、じっと観察するように戦意を研ぎ澄ませる。
ここからが本番。
少女に油断はない。
互いに見合ったまま、少女は魔力を込めた言葉を発する。
『朱の剣士が命じる。我が魔力を糧とし、全てを穿つ炎の槍となりて敵を滅せよ』
【フレイムランス】
魔術の詠唱。
少女の魔力が一メートルほどの槍を形取りフェンリルに真っ直ぐ向かって来た。その後ろで槍に隠れるように、少女が走り出す。
フェンリルはフレイムランスを避けたが、追撃に少女の鋭い切り上げ。氷の壁を作って防御するものの、ジュウと音を立てながら水蒸気を撒き散らし、バターにナイフを刺したようにあっさり切られてしまった。
(やっぱあの剣は炎属性持ってるわけね。俺への相性バッチリだ、最悪。ま、斬られなきゃどうってことねえけどさ)
(フレイムランスを避けた!? 伝承の通りなら避ける必要はないはず。伝承が間違っているのか、奴の作戦なのか。判断がつかないわね)
フェンリルの余裕を持った思考とは別に、少女は今の行動に不可解さを感じ、僅かに剣筋が鈍ってしまっていた。
フェンリルの狙い通りに。
もっともフェンリルとしては、この程度で鈍ってくれたら有難い程度の狙いだったが。
その鈍りを好機と捉えたフェンリルは大きく跳び退り、周囲に氷の矢を十数本生みだして順次少女を貫かんと飛翔し襲い掛ける。
「くっ!」
ジグザグに飛び下がりながら氷の矢を避ける少女。しかし全てを避けきれず一本が肩を掠め、負傷したところが氷に包まれる。
(あっ、当てちまった! 全部外すつもりだったのに!)
見事的中させた本人は後悔に項垂れていた。
(当ててどうすんだよ、当てて! 惚れた女傷つけるとか、とんだ屑野郎だな! 死ね! いっそ死んで謝罪しろ!)
そして精一杯の罵声を自分自身にぶつけていた。
力の差を思い知らせてやろうとは考えていたが、傷つけるつもりは毛頭なかったフェンリルとしては、甚だ不本意な結果だった。
そんな悄然としたフェンリルの様子を訝しく思ったものの、少女は改めてフェンリルの強さを実感していた。
(魔獣が魔術を使うのはそこまで珍しくないけど、魔力の動きをあんなにスムーズに。しかもとてつもなく早い。魔力の動きと発動にほとんどタイムラグがなかった。加えて、一度に生み出したあの数も滅茶苦茶。世の常識がひっくり返るわ。
やっぱり伝承通りの化物ね。
そういえば、頭も切れるって書いてあった。もしかしてあのフレイムランス、私の動揺を誘うためにわざと避けたっていうの?)
もしそうならば、自分はフェンリルの術中に嵌っていたわけだと、少女は自嘲する。
(手加減をしていたつもりはないけど、小手調べなんて悠長なことはしてられなかったわね。
大丈夫、この程度の怪我なら影響はない。ここから全力で、殺る!)
「おいで、【ムラサキ】」