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10話 すれ違う思い

 勘違いしたクリスによりあっさりと部屋を出されたフェンリルは、そのまま別の部屋で下にもつかぬ扱いを受けていた。

 具体的には周囲が今にもひれ伏さんばかりにへこへこと頭を下げられ、供物としていくつもの食べ物を差し出された。

 しかし、果物を出されてもどうしろというのか。まさか食えとは言うまい。フェンリルは肉食である。果物は食べない。食べれなくはないが、体調を崩す。あれだけ敬虔な村人達が、そんなことさえ知らないのだと思いたくない。

 きっとこれは箔をつけるための飾りだろうと無理に納得し、果物に口を付けることはなかった。


 それにフェンリルには、食べ物のことより重要なことがあった。置いてきたクリスのことだ。

 ミリシードで対峙したときにクリスの実力は大まかに把握したので、この屋敷に住む物騒な気配には気づいているだろうと思う。最悪気づいてなかったとしても、どうにでもなるだろうと思っていたが、心配は心配だ。


 だから何が起こっても動けるようにフェンリルはじっと耳を澄ましていた。

 同じ家にいるのだ、フェンリルの優れた聴力なら盗み聞きするぐらいは容易かった。

 そして、聞いてしまった。


(クリスは、俺を殺そうとしていたのか……)


 少なからずショックだった。

 フェンリルは天を仰いで、想い馳せる。


 あまりに短い恋だった。

 あまりに儚い恋だった。

 それでも久しぶりに彼が「生」を楽しめた時間だった。

 瞼を閉じれば今でもはっきり思い起こされるクリスの姿。初めて会ったときの気絶しているところから、精一杯に背伸びして赤い軌跡を残しながら剣を振り回しているところ、酒が回ってだらしない笑顔を浮かべて、けれども楽しそうに笑うところ。……ナンパ男をボコボコにしているところ。

 今まで止まっていた時間が動き出したみたいに、楽しくて嬉しくて華やかな時間。

 あれを失ったのだと思うと酷く悲しい。


(――ん? あ、あいつら!)


 感傷に耽っているところへ俄かに騒がしくなったことに気づき、そしてたむろしていた連中がクリスのところに乗り込んだことを理解した瞬間、フェンリルの体は動いていた。

 その際世話を焼いていた使用人の一人を突き飛ばしてしまい悲鳴があがったが、気にする余裕もなく、部屋へと乗り込んだ。

 クリスを囲もうとしていた連中の頭を軽く飛び越え、クリスの正面へ。


 赤い剣を持つクリスの瞳が揺れたのも一瞬、すぐに力を取り戻す。覚悟を決めた目を、フェンリルに向ける。


「御子様!」「そこは危険です!」「我々の後ろに隠れてください!」「女! 御子様に手を出してみろ、生きてることを後悔させてやる!」「お早く非難を!」


 男達から口々にフェンリルを心配する声と、クリスに対する罵声が飛んだ。


「ウォン!」


 男達に向かって一声。声が止んだ。

 彼らにはフェンリルが黙れと言っているように聞こえたのだ。


「さっきぶりね、フェンリル」


 口を開いたのはクリス。さっきまでの親しみの篭ったものではなく、殺気混じりの、敵に対したような呼び方。


(態々来てくれたなら好都合。ここで、仕留める! ……私の心がぶれないうちに)


 クリスは元々戦うことも殺すことも嫌いだった。単に選択の余地がないからやるだけだ。例え情を傾け始めていようとも、止まるわけにはいかない。

 クリスが構えると、一度は黙った男達が再びざわめき、フェンリルがもう一度咆える。再び静かになった。


(まぁったく。気の利かない奴らだな。俺は出てけっつってんのに、黙るだけかよ。ま、いいや)


 フェンリルもまた、クリスを見る。クリスと同じく、覚悟を決めた目だ。


(お前が俺の心臓を必要としてるなら、くれてやる! なぁに、俺はもう長く生きたんだ。命なんて惜しくねえ。それどころか、愛する人のために死ねるなんて、これ以上の幸せはない! ま、心残りがあるとしたら名前を知りたかったってぐらいだけどな。運がなかったと思って諦めるさ。

 さあ、早くその剣を、俺に振り下ろせ!)


 フェンリルは話しを聞いた時点で、自分の死を躊躇うことなく選択していた。ただショックだと、残念だと思うのは、もうクリスと別れなければならないのかという事実に対して。

 出会ってからまだほんの十数日なのだ。触れ合ってから一日も経っていないのだ。これからも一緒にと思い降りて来た身としては、こんなに早い別れは胸が避けるほど苦しい。


 それでも優先すべきはクリス。愛する人のために死ねるのなら、これ以上の幸せはない。


(俺は元々転生者だ。それも訳の分からん魔術師に、実験として作られた存在だ。どうせ碌な死に方をしないと思ってたのに、好きな人のために死ねるんだぜ?

 それを不幸という奴もいるだろう。悲劇だと嘆く奴もいるだろう。

 けど俺にとっては、これ以上ない幸せだ!)


 さあ、早く殺せ。

 フェンリルはじっとクリスの目を見て、訴えていた。

 訴えていたが――。


(これは、なんという王者の風格。やっぱり小さくてもあのフェンリルの子供ね。少し舐めてたかも……。

 この達観した気配……幼い頃に一度、師匠が見せてくれたことがある。一切構えているように見えないのに、あらゆる技に対応する返し技……あれは、無形の構え!

 まさかフェンリルが使えるなんて……。迂闊に踏み込めない――!)


 全然通じていなかった。

 殺そうとする者と、殺されようとする者と。互いの望む結果が一致していながら、思考の違いによっておかしな膠着が生まれる。

 命を奪う覚悟を決めたといっても罪悪感までを殺しきれていないクリスには、フェンリルが自分の発言に怒り抵抗しているように見えていたのだ。もちろん、実際には無抵抗。殺してくださいといわんばかりにじっとしているだけなのだが、攻撃されると思ってしまえばもう駄目だった。


 そしてそんな二人の沈黙を周囲で見守る男衆も勘違いした。

 曰く、御子様は自分達を守ってくださっているのだと。そして、この罰当たりな冒険者を自らの手で始末すべく、駆けつけてくださったのだと。

 感動に身を震わせ、涙する者さえいた。


「もう我慢なんねえ! 御子様に戦わせるぐらいなら、俺が!」


「ヴァウ!(来るな!)」


 逸った男を制したフェンリル。

 力強い一声に、男の動きは止まる。しかし、クリスはこの一瞬を隙ができたと思った。

 反射的に剣を振り上げながら一歩踏み込み、しかしフェンリルも前へと踏み込んだことで動きをピタリと止めた。クリスに冷や汗が流れる。


(あ、危なかった……。今の隙に見えたものは、誘いだった。そうでなければあのタイミングで前に踏み出せるはずがない。くっ、体は小さい癖に飛んだ技巧者がいたものね!)


 ぎりぎりで動きを止めものの、相手の思惑に引っかかってしまったクリスは小さく笑い、フェンリルを心から称える。


「やるわね。さすが、フェンリル」


 唐突な称賛の言葉にフェンリルは首を捻った。


(やるって何を? あれ? 切りやすいように前に出たんだけど、何で動きが止まったんだ……? あ、動いたせいで狙いがずれたのか。余計なことしちまったな、スマン!)


 今度こそ切りやすいように、フェンリルが進んだ分だけ下がった。


(っ、ここで下がるなんて……。こんなあからさまな誘いに私が乗るとでも思ってるの?)


 クリスも進んだ分だけ下がり、剣を構え直した。

 状況がリセットされた。

 周囲の男達がこの極度の緊張感に、誰ともなく息が漏らす。

 第三者が見れば、なんだこれと首を傾げたくなる状況である。


 フェンリルは今度こそ大人しくしていようと動かず、クリスは迂闊に動けば反撃されると思い、無意味な膠着が続く。約一分。そこで状況が大きく動いた。

 どちらかが動いたのではなく、それは外からやって来た。どたばたと余程急いでいるだろうことを窺わせる慌ただしい足音が近づき、大きな音を立てて扉を開けた。


「村長、大変です!」


「後にせい! 今大事な所だ!」


 大慌てで入ってきた若者にタジダが叱責を飛ばす。彼にとって今重要なのは山神様の御子のことであり、どんな伝言を持ってきたのか知らないが、村の問題如き塵芥の連絡なぞ耳に入れる時間も惜しかった。

 急いで来たのに邪険にされた若者は、しかし無視して大声で伝える。


「ミリシード山より魔物の群れが! 数はおよそ十! まっすぐ村へ向かっています!」


 それを聞いて村の男達の顔が凍り、青褪めていく。

 タジダの予想していた程度より遥かに事態は切迫し、村が全滅するかどうかという瀬戸際まで追い詰められていたことを悟った。それでも何かの間違いではないかと否定する気持ちがよぎる。


「そ、それは本当か!」


「はい、もうすぐそこまで迫っています!」


 報告の直後、遠くからいくつもの人の悲鳴が聞こえてきた。

 全滅する。タジダは頭を殴られたような衝撃を覚え、目の前が真っ暗になった。


「村長! 誰か、村長の看病を! 気を失ったぞ!」


 この期に及んで夢へと逃げた村長の周りで、どうするどうしようと、男達が右往左往している。

 もはやさっきまでの緊張した雰囲気はかき消え、緊迫と混乱だけに包まれていた。


(魔物の群れ、約十……あれ? これって俺のせいじゃね?)


 フェンリルはやっべえと思いながら考えていた。


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