1話 出会い
この世界随一の氷雪地帯、コーディア地方のさらに北。三千メートル級のミリシード山山頂近辺。辺り一帯が白で包まれ、一メートル先すら視界の怪しいこの場所で、二匹の獣が生存を掛けて相対していた。
一匹はナイトベアと呼ばれる五メートルは越える巨大な白熊。魔物と呼ばれるこの世界を害するモノである証しに、瞳は赤くさながら血のように獰猛な色をしていた。
対する片方は藍色の毛皮をした狼。足の先と尻尾の先が白く、額にひし形の黄色い模様を持つ。瞳はナイトベアとは対照的に知性を感じさせる蒼。フェンリルと呼ばれる聖獣である。
巨狼と呼べるだけの大きさをしているが、ナイトベアに比べると格段に小さい。
二匹の獣は十メートルほどの距離を開けて互いに睨み合う。
それは一見対等な戦いのようであるが、しかし実情は大きく違った。
ナイトベアは生きるために逃げようとし、フェンリルは生きるために喰らおうとする。捕食者と被捕食者の関係。
フェンリルが慎重に事を進めているだけで、勝敗は互いに明白だった。だからこそ先に動いたのはナイトベア。このまま殺されるしかない現状では、前に進むしかなかったのだ。
しかし、それこそフェンリルは待っていた。万が一にも逃げられる可能性を潰すために戦うことを選ばせたのだと、ナイトベアは気づかなかった。
フェンリルも前に出る。
その動きは軽やかで、雪など物ともしていない。仮にナイトベアが逃げることを選んでいたとしても、容易に捕らえていただろう。
慎重だった。
それだけの事でナイトベアの寿命は延びていたのだ。
彼我の距離がたちまち埋まり、接敵する。
ナイトベアがその太く逞しい腕を振り上げ、一気に振り下ろす。
雪原が割れた。
魔物の中でも上位に位置するナイトベアの一撃は、五本の爪痕を十数メートルに渡って残し、大きく雪を巻き上げた。
キシリ。
雪原から音が響き、始め小さな軋みだった音はすぐさま大きな音へと変わる。
(雪崩か。まぁ、ここなら下に人が住んでいるわけでもねえし、放っておくか)
そう考えるフェンリルの口には喉笛を食い破られたナイトベアがぶら下がっていた。
爪を振り下ろしたあの一瞬。
隙だらけになったナイトベアに喰らいつき、痛みを感じることすら許さず仕留めたのだ。仕留めた上で、自身が雪崩に巻き込まれることのない安全な場所まで退避していた。
フェンリルは今回の結果に満足していた。この大きさのナイトベアなら、一年は食いつなぐことができる。肉体が凍ってしまっても氷属性を持つフェンリルにとって何も問題はなかった。
目的を果たし、さて帰ろうかと起こり始めた雪崩に背を向けようとしたとき。吹雪を無視して見通す視界に、小さな人影が映った。
(人か? こんな時に運の悪い奴)
ここまで登ってくる人間は決して皆無ではないが、珍しいのは確かだ。大抵はこの山にある珍しい素材を求めて、稀に聖獣であるフェンリルの首を求めてやってくる。今回の人影もそんな人物の一人だろうとフェンリルは判断した。
一瞬助けようかと思ったものの、そこまですることないかと考え直す。自身が狙われることを理解しているため、助けることに積極的ではないのだ。
(せいぜい成仏しろよ)
人影が優れたフェンリルの耳でやっと聞こえる程度の小さな悲鳴を残し、雪崩に巻き込まれて消えた。
稀に起こる人身事故。フェンリルも幾度となく見かけてきた、何も変わらない普段の光景。
しかし、その内心だけはいつもと違った。
(……仕方ねえ、助けてやるか)
先ほど見捨てると決めたことを翻して助けることにし、加えていたナイトベアを地面に置いた。万が一、ナイトベアが雪崩に巻き込まれたとしても血の臭いですぐに見つけられるだろうとの判断もある。
今の優先順位は餌であるナイトベアではなく、あの巻き込まれた人影――全身を赤で染めた女性の無事だった。
こう判断が百八十度変わってしまったことに、フェンリル自身心当たりがあった。過去に数度、似たようなことがあったからだ。
(テイム能力持ち、か。運のいい奴だな、悲鳴をあげることなく雪崩に飲み込まれてたら俺は助けなかった)
魔物、もしくは聖獣に好かれる能力者、モンスターテイマー。彼らは各々一系統の魔物を使役する力を持つ。
その中でもフェンリルに好意を抱かせるのなら、あの赤の女性は聖狼種に対しての能力を持っていることを示していた。
もっともフェンリルにはテイム能力に対しての耐性はある。長年生きてきたため付いた耐性だ。
だから普通の魔物のように使役者に追従するということはないのだが、それでも目の前で死なれるのは目覚めの悪いものがある。
フェンリルが赤い女性を助けようとする理由など、その程度のものだった。
ナイトベアを置き身軽となったフェンリルが、雪を軽く踏みしめて飛んだ。
重力を感じさせない軽やかな跳躍。
そのまま雪崩の上へと着地し、本来なら巻き込まれて当然なのに、いたって平気そうにもう一度飛ぶ。氷の属性を持つフェンリルにとって、この程度の雪崩はなんということなかった。
跳躍を数度繰り返しながら、この辺りでは決して臭うことのない、女性独特の甘い香りを嗅ぎ取った。
(こっちか。結構流されてんな)
臭いさえ嗅ぎ取れてしまえば、後はフェンリルにとって容易いことだ。どこにいるか、目で見るように知ることができる。
もう数度、軽く跳躍し女性の流されている辺りに追いついた。
(【氷雪操作】)
フェンリルは魔術で雪崩を操作し、数メートル下に埋まっていた女性を雪崩の上へと押し出した。氷雪を操るのはフェンリルの十八番。この程度なら眠っていてもできる。
出てきた女性に潜り込んでうまく背中に乗せて、ついでに近くにあった荷物も一緒に咥えると、再び跳躍を繰り返してナイトベアの死体のところまで戻ってきた。
(ここなら巻き込まれねえだろ。つっても、放っておくのもまずいか? 寒さで死んじまったら意味ねえ、し、な……)
背中から降ろした女性を改めて覗き込んだフェンリルは言葉を失った。
遠目からはわからなかったがまだ幼さの残る少女で、歳はせいぜい十七か八。顔立ちが整い、今でも十分に美人と言っていい。
燃えるような赤い髪に健康そうな小麦色の肌。赤い防寒着の上からでもはっきりわかる、成熟した体。腰に上等そうな剣を佩いている。
これで瞳が紫掛かっているのなら、フェンリルの良く知る一族の特徴そのままだった。
(まさか、炎術師の一族か? ……関わりたくねぇな)
人の髪の色は基本的に金髪で、他の髪の色を持つのなら何かしらの特徴的な力を備え付けていることが多い。
炎術師もそんな力を持つ者達の一つで、かつて魔氷狼であるフェンリルを、名声を高めるという理由だけでしつこく狙ってきた一族だ。
フェンリルにとって炎を得意とする炎術師は相性の悪い相手なので、比較的苦しい時期が続いたのだが、何故か四百年ほど前を境にぱったりと途絶えてしまっていた。
(ようやく諦めたと思ってたのに、まーた狙い始めたってか? 俺、あいつら嫌いだわー)
そう思いつつも、フェンリルの目は赤髪の少女から離れず、それどころか凍えないようにと体に寄り添い温める。
安全なところへ運んだのだから、起きるまで待つ必要はない。
このまま住処へと帰るべきだ。
起きてしまえば面倒事になると理解していた。
だが、フェンリルは動かなかった。
たった一つの感情、声を聞いてみたいという思いだけでこの場に留まっていた。
(はぁ……。やっべえな、まさか俺が一目惚れとか……。前世の感覚が残ってたのか、テイム能力のせいか。
多分、両方だな。なんたって、好みジャストミートだし。はぁ……)
フェンリルは赤髪の少女に惚れてしまっていた。
これから起こると予想できるいくつかの面倒を想像して、フェンリルは何度もため息を落としていたが、尻尾は少女の起きたときを想像して楽しげに揺れていた。