春は此処に在り
刃の様に凍てついた風が、男の肌を斬りつけるように吹き荒れる。
しかし、男は風に逆らいながらも、雪山の中を彷徨っていた。
吐く息は白く、荒い。
彼は、山を1つ持つ者だった。
山の中で自然の恩恵を受け、生きる者だった。
しかし、それも人間が勝手に山に踏み入ってきておかげで終わってしまった。
ちくしょう、ニンゲンめ。
男は、左肩を握り締めた。鮮血が、真っ白な雪に吸われては消えていく。
ニンゲンの持つ「ジュウ」とかいう武器は強力で、男の強靭な肌に傷を負わせていた。
左肩の傷は、その時に負った忌々しいものだ。
寒さと痛みが、男の命を少しづつ、だが確実に削っていく。
「ッ・・・」
視界が歪み、遂に男は力尽きた。
冷え切った身体は、もはや動かない。
死んでたまるか。こんなところで・・・。
男は、必死に立ち上がろうとした。
だが、存命のためにもがく力は、もう何処にもなかった。
目覚めると、木の天井が見えた。視線を巡らせば、そこが家の中であるということが分かる。
傷ついた左肩には手当てがなされており、薬草の香りが仄かに漂った。
(この匂い・・・)
その薬草は春にしか採れない、今の時期では非常に貴重なものであると男の知識の中にあった。
(この家の奴は、よほどの馬鹿か世間知らずか)
そうでもなければ、決して自分を助けたりなどしないはずだ。
起き上がって窓を見れば、外は猛烈な吹雪であった。
あの中を歩いていて、今生きている自分の生命力には少々驚かされる。
(こんな山に住んでいるのだ。魑魅魍魎の類か山姥に助けられたか)
「誰が山姥じゃ」
男の心の声を読み取ったような若い女の声が、部屋に響いた。
振り向くと、そこには扉を開け放ち佇む女が1人。
「・・・お前が、俺を此処に?」
「そうじゃ。わらわが助けなければ、そなたは死んでおったのじゃ。感謝するが良いぞ、鬼よ」
女は、偉そうに腰に手を当てて言い放った。
しかし、男はそんな女の態度よりも言葉に戸惑っていた。
「何故、俺を鬼と知りながら助ける?」
そう。
男は異形の者であった。鋭い爪と牙、頭部には角を持ち、背中に流れるは真っ赤な髪、そして真っ赤な目を持った化け物の・・・鬼。
「わらわは、今にも死にそうな者を見捨てられる冷血の持ち主ではないわ。そうじゃ、そなた名を何という?」
「・・・覇婁」
「そうか、ハルか。良い名じゃのう」
女は何が嬉しいのか、喜びに目を細める。
「わらわは、サオじゃ」
そこで改めて覇婁は、サオと名乗る女を見つめた。
美しい女であった。つりあがりがちな瞳は全体のバランスを崩す事無く、かえって女の強気な性格には良く似合う顔を作り出している。
そして、その目は生き生きとした光を放ち、覇婁を見つめていた。
美しさに目を奪われつつも、覇婁は起き上がった。
「・・・世話になったな」
覇婁はサオの脇をすり抜け、家を出て行こうとした。
しかし、サオがその前に立ち塞がる。
「何処に行くつもりじゃ?」
「出て行く」
「ならぬ。外へ出たら死ぬだけじゃ」
覇婁は、サオの顔をマジマジと見つめた。
(何を言い出すんだ、この女は)
自分は鬼なのだ。人間に忌み嫌われ、蔑まされ、または恐れられる、どちらにせよ人とは決して相容れぬ存在なのだ。
それだというのに、この女は自分を助けようとしている。
「春が来るまでこの家で休むが良い。この家にはわらわしかおらぬし、第一、遠慮するなぞ鬼の辞書にはないじゃろ?」
鬼は、暫く自分を正面から見つめる人間を見つめていたが、やがて寝かされていた床に腰を降ろし、胡坐をかく。
そんな覇婁を見て、サオは満足とばかりに口の端を上げた。
「暫く休んでおるが良い。鬼のそなたなら傷の治りもさぞや早いであろうことよ。わらわは隣の部屋におるのでな、何か要り様なら呼ぶが良いぞ」
そう言ってサオの姿が扉の奥に消えると、覇婁は床に寝そべった。
この国では珍しいことに、床には絨毯という物がひかれていた。優しい緑色のそれは、寝そべると非常に心地良く、覇婁にかつての棲家の山で昼寝をしているような錯覚を思わせた。
(しばらく此処で傷を癒すのもいいだろう・・・あの女の言うようにな)
カタンッ、カタンッ・・・
規則的に木片がぶつかり合う音が、安穏とした覇婁の眠りを覚ました。
(何の音だ?)
音は壁を通して隣の部屋から聞こえてきていた。
疑問に思った覇婁は起き上がり、隣の部屋へと向かった。
「何じゃ? 何か用かの?」
サオの声と共に、音が止まる。
音は、サオの機織の音であったようである。
(この布、床にひいてある物と同じものか・・・)
機にかけてあるのは若葉のような、優しい柔らかな緑の絨毯。
覇婁の視線に気付いてか、サオは愛しげに布を撫でた。
「わらわは、この布を織り上げることが仕事なのじゃ」
布を見つめるサオの目は、何処までも優しい。
「で? ハルは何の用で此処へ来たんじゃ?」
「お前に用はない」
「何じゃ。わらわに用はないのか・・・」
サオの声音に、明らかな落胆の色が混じる。
「まあ、良いわ。何かあったら呼ぶがよいぞ」
「ああ」
ぶっきらぼうに返事をして、覇婁は部屋へ戻ろうと背を向けた。
「ハル」
サオが覇婁を呼ぶ。
「何だ?」
覇婁は、振り向かずに鷹揚に答える。
「・・・ありがとう」
何故、礼を述べられたのかが分からず眉を顰めたまま、覇婁は思わず振り向いた。
「わらわの家に、わらわ以外の者がおるのは初めてじゃ。そなたは好きで来た訳ではないじゃろうが、わらわは嬉しいのじゃ。」
サオが花が咲いたように微笑む。
「だから、ありがとう。感謝しとるぞ」
あまりにも嬉しそうに微笑むものだから、覇婁は呆けた様にサオを見つめた。
そして、サオに気付かれないように小さく呟く。
「・・・馬鹿か」
「誰が馬鹿じゃと!!?」
つくづく、地獄耳の女だ。と、覇婁は今度は心の中だけで呟いた。
「まぁ、良いわ。ほれ、仕事の邪魔じゃ。さっさと部屋に戻って寝ておれ」
サオは犬か何かを追い払うように手を動かした。自分から呼び止めておいて思い切り、覇婁は邪魔者扱いだ。
覇婁はその仕草に怒りを覚えつつも、反論はせずに部屋に戻った。
床に寝そべると、また隣の部屋から機の音がする。
カタンッ、カタンッ・・・
それから幾日の月日が流れたであろうか。
その日は、覇婁がサオの家に転がり込んでから始めての、吹雪が止んだ日であった。
外では月が神々しく輝き、純白の雪面を煌かせながら照らしている。
そんな外を窓越しに見つめながら、覇婁はすっかり聞きなれた機の音を聞いていた。
カタンッ、カタンッ・・・。
それまで、夜に止むことの無かった音が遂に、止んだ。
(ついに終わったのか・・・?)
何とはなしに、覇婁がそんな事を考えていると扉が開いた。
「ハル、起きておったか」
「まぁな」
視線を窓から、サオへと向ける。
「・・・何の用だ?」
「別に・・・傷はもう、良いのか?」
「? ああ」
傷が良くなっていることは、献身的に介護してくれていたサオが1番良く知っているのではないか。
何故、わざわざ聞くのだ?
覇婁が怪訝な顔をすると、サオは苦笑を浮かべた。
「・・・ハル」
サオは覇婁に近づいてくると、鬼の大きな身体を小さな身体で抱き締めた。
突然の抱擁に、覇婁の身体は驚くほど過敏に反応し硬直する。
「おぬしと会えて良かった・・・」
サオは消え入りそうなほど小さな声で呟いた。そして、身を翻し部屋から出て行こうとする。
その腕を覇婁は掴み、サオの身体を引き寄せた。
「逃がすと思ったか」
「鬼は、自分の欲望に忠実じゃのう」
クスッとサオはくすぐったい笑いを浮かべた。
「お前の様な女は、滅茶苦茶に犯して喰らってしまいたくなる」
「喰うのは勘弁じゃな」
サオは自分を押し倒した鬼の紅い髪を弄び、あくまでも戯れの口調を崩さない。
「残念なことじゃが・・・時間が来たようじゃ」
「何?」
サオが薄く微笑む。
「わらわは、行かねばならんのじゃ」
「何処にだ?」
ハルの問いに、サオは答えなかった。寂しさを持った壊れそうな笑みをただハルに向けるだけ。
「・・・すまぬな、ハル」
突如、覇婁を抗いきれない強烈な睡魔が襲う。
眠ってはならない。
もし、此処で瞳を閉じたなら・・・サオはいなくなってしまう。
必死に耐える覇婁を1度抱き締め、サオはそっと離れた。
「さ、サオ・・・何を、した・・・?」
「やっと、わらわの名を呼んでくれたのお」
覇婁のぼやけつつある視界の中で、サオは今までに1度も見せたことの無い幸せに満ちた、それでいて悲しみを持った笑顔を見せた。
「さらばじゃ、鬼よ」
それが、サオの最後の言葉だった。
どこからか、鳥の囀る声が聞こえてくる。
声に誘われるように、覇婁はその重い瞼を開いた。
そして、辺りを見回す。
いない。
あの偉そうな態度の女の姿はどこにもない。そして、女の家もなくなっている。
覇婁は、巨大な木の室の中で眠っていたのだ。
(どうなっているんだ)
室を飛び出す。久し振りの太陽の光はあまりにも眩しく、覇婁は目を細めた。
青空を仰ぎ、次に大地に目を向ける。
「!?」
足元には、いや、見渡す限りの大地には、サオの織っていた緑の絨毯がひかれていた。
花は今にも咲かんとばかりに蕾を膨らまし、木々は柔らかな若葉をつけている。
春。
ぽつんと、そんな単語が浮かんできた。
『そうか、ハルか。良い名じゃのう』
そう言って笑みを浮かべた女の顔が浮かんでくる。
そこで、覇婁は気付いた。
春を告げる女神の名は―――左保姫。
まさか、と覇婁は己の考えを打ち消そうと呟いた。
馬鹿馬鹿しい。あの女が、神のわけが無いだろう。
そう考えつつも否定できないでいる心がある。
『春が来るまでこの家で休むが良い。この家にはわらわしかおらぬし、第一、遠慮するなぞ鬼の辞書にはないじゃろ?』
なぜ、春が来るまでと言った?
この深い雪に埋もれる山に、たった1人で住んでいた女は。
「わらわは、この布を織り上げることが仕事なのじゃ」
春を織り上げることが、女神としての仕事であったのか?
「サオ」
呼んでみたところで、返事などない。返って来る筈がない。
覇婁は決めた。
冬になれば左保はまた此処に帰ってきて機を織るだろう。
ならば、此処で待っていれば良いのだ。
手に入れたくなったものは、必ず手に入れる。それが鬼という生き物だ。
冬になって帰ってきたら左保は、どんな顔をするのだろうか。
驚くだろうか。呆れるだろうか。
「なんじゃ、まだ此処におったのか」
きっと、そう言って笑うのだろう。
(あの女を、今度は俺が驚かしてやるのも良いだろう)
そんな覇婁の頭上を、鶯が春の風をその身に受けながら春を告げるために里へと飛んでいった。