何もないオモチャ箱
ゆったりふっくり空が膨らんだ。
私は目覚まし時計の音で目覚めた。
目覚まし時計は壊れている。
朝起きると爆発していた。
散らばった破片を片付け、ゴミ箱に捨て窓を開ける。清々しくも毒々しい紫色の空が世界には広がっており、私は大きく深呼吸をした。
「はー、いい朝」
潮の香りを吸いこんで、スモッグが漂う街並みを見つめる。
時刻は朝の八時を過ぎており、通りは多くの人が行き交っていた。
杖を振り回すワニおじさん。
段ボールを引きずるサメおばさん。
りんごを頭に乗せた狐の子供に、その頭に乗せたリンゴを弓で狙う兎の子供。
今日も混沌とした街並みを見下ろし、私はいつも通りの言葉を発する。
「大変、遅刻だわ」
私の仕事はチャーリーを運ぶこと。
荷台に載せて桟橋を渡り焼却炉に放り込む作業だ。これが意外と重労働。重いし多いしの大仕事なのだ。
私は慌てずゆっくり支度をして、ショルダーバックを携え家を出る。
地上まで十階あるので、私は外階段を使って降りていく。細い手すりと薄い鉄の板で作られた螺旋階段を降りていると、六階でエレベーターに乗ろうとするダチョウおじさんがいた。
「よっ、シャーリー。階段で行くなんて若いねー」
「おはよ、ダチョウさん。エレベーターにはまだ乗れないの」
「そうかいそうかい、それじゃあね」
「私、シャーリーじゃないよ」
言い終える前に、ダチョウおじさんはエレベーターのドアの向こうに消えていった。開いたドアは真っ黒。何もない空間が広がっている。ダチョウおじさんみたいに真っ直ぐ落ちていければ楽だけど、私は階段を使って一階へ。
一階へ着くとダチョウおじさんが潰れていた。
外に出ると、隣に住んでいるアナコンダおばさんが庭の手入れをしていた。
「おや、おはようユーリ。悪い夢は見たかい?」
「おはようアナコンダさん。私はユーリじゃないわ」
「そりゃあお前、ユーリは昨日食べてしまったからね」
はっはっはと笑うと、アナコンダおばさんは庭の手入れを再開する。しゅるしゅるしゅるしゅる庭に埋まっている木々に抱き着きへし折っていく。べキンッ、と折れた木が通りに倒れた。
「うひゃっ!?」
ジャムを抱えたアライグマの配達員さんが驚いた声をあげ尻餅をついた。間一髪、目の前に木が倒れてきたのだ。危なく下敷きになるところだった。私は大丈夫? と近寄った。
「まぁ、大丈夫?」
「いやはや、びっくりこいた」
アライグマの配達員さんは額をハンカチで拭くと、大きな瓶に入ったジャムを手で一掬い。
「やぁマーシー、学校かい? 今日の配達だよ」
ボタボタと地面にジャムを垂らしながら言った。
私はポケットからハンカチを取り出しその中に入れる。包むようにハンカチに入れたジャムをポイッと道端のゴミ箱に捨てた。
「ありがとうアライグマさん。でも、私はマーシーじゃないわ」
いやはやと汗を拭きながら、アライグマの配達員さんは次の配達先へ向かっていった。
仕事先に向かって歩いていると、扇風機を回すトカゲおじさんがいた。
ぐるぐる扇風機を回してスモッグを拡散させている。灰色の喉がイガイガする煙を商店街に充満させて今日も大満足そうだった。
「ん? ジェアリー遅刻かい?」
「おはようトカゲおじさん。そうなの急がなきゃ」
「そうかそうか、気を付けていっといで」
「ええ、あと、私はジェアリーじゃないわ」
トカゲおじさんが扇風機を私に向けてきた。凄い風が吹いてスカートがめくれそう。
私はショルダーバックから鉄製のトンカチを取り出してトカゲおじさんに投げつける。
「ぎゃっ!?」
すこーん、と。
小気味いい音を鳴らして倒れるトカゲおじさん。私はスカートを抑えて急いで歩いていく。
普通の一軒家に煙突をぶっさしただけの工場という名の仕事場についた。
「おはようございます」
私が声をかけると、作業中のクマおじさんが怒った顔で言ってきた。
「遅刻だよメアリー」
「ごめんなさい。でも、私はメアリーじゃないわ」
「そりゃそうだ。メアリーは昨日車に撥ねられて死んだからね」
クマおじさんはリヤカーと工具を私に渡してきた。
「さぁ、さっそく仕事に取り掛かってもらおうか。仕事の時間まで後十一年もある、しっかり働いてくれよ」
「はい、クマおじさん」
私は受け取った工具からレンチを取り出すと、クマおじさんの頭を殴った。
「ぎっ!?」
噴水みたいに血を噴き出して倒れ込むクマおじさん。私は今日の仕事をしなきゃとクマおじさんをリヤカーに乗せて運んで行く。
ガラガラガラガラ、リヤカーが揺れる度にクマおじさんの血がポタポタと地面に落ちていく。
これはいけないと慌てて出血部分を押さえてリヤカーの底へと押しこんだ。
これでもう大丈夫、と私はふぅと一息つく。すると、ぬっちゃりとした微妙に粘着質のある液体が額についた。手を見て見るとそこには真っ赤で真っ赤なクマおじさんの血液が。
私は汚い汚いと服の裾で手を拭いて、リヤカーを押して出発した。
さぁ桟橋まであと少しだ。
私が桟橋近くまで来ると、原付バイクに乗ったフクロウおばさんが通りかかる。
「あら、キャンディー。お仕事かい?」
「こんにちはフクロウおばさん。お買い物?」
「今日は隣の森まで鼠を買いに行くのよ。まったく遠く住んでるから困っちゃうわ」
「そう、行ってらっしゃい。あと、私はキャンディーじゃないわ」
あらあらおほほほとフクロウおばさんは走り去る。
私はとことこガラガラリヤカーを引いていく。
桟橋に着くと、川に落ちたフクロウおばさんが浮いていた。
桟橋を通り抜け別れ道を何度も曲がり辿り着いたのは焼却場。
鉄格子の門は固く閉じられ、番兵のハムスターお兄さんに声をかけた。
「こんにちは」
「こんにちはアリス。お仕事かい?」
「ええ、開けてくださる?」
「ご苦労様」
ハムスターお兄さんが門を開けてくれた。
私はガラガラとリヤカーを引いて中に入る。
「ありがとう」
「お安い御用さ。それよりも、忘れてしまってはダメだよ」
「忘れる? それよりも、私はアリスじゃないわ」
私は建物の中に入っていく。
建物の中は薄暗くジメッとした雰囲気だった。私はこの雰囲気が嫌いだ。とっても不快で、二度と来たくないと思う。けれど、やはりまた来てしまう。思い出したくないのに思い出す。
忘れていた記憶を、思い出す。
不思議に不快で懐かしい気持ちになりながら、焼却炉の入り口まで来た。
火は灯っていない。
これからチャーリーを放り込んで、火を点けるのだ。
深い深い穴倉。
ドアを開ければそのまま焼却炉となっている。チャーリーを放り込んで終わりだ。
四角い空洞の、底の方には冷たい床が広がっている。十階よりも高い。大口を開けた大蛇を彷彿させる。
私はドアを閉め、リヤカーの中を見た。
「あれ?」
すると、チャーリーはいなかった。
おかしいなと思い何度も確認し、逃げたのかとリヤカーの下も見たけれどいない。
空っぽのリヤカーが、そこにあるだけだった。
「あれー?」
私は顎に指を当て首を捻る。
そういえば、クマおじさんの血の跡もない。綺麗さっぱりの裾。汚れ一つない袖。
おかしい。
おかしい。
おかしい。
ここは何処だろう?
工場内は薄暗く、錆びた鉄の臭いに満ちていた。
古ぼけた廃工場の様相。
ここはどこ?
ここはどこ?
私はなに?
私はなに?
リヤカーはない。
ドアが開いている。
焼却炉のドアが開いている。
私はゆっくり、ゆったりとドアへ近づいた。
真っ暗な闇が広がる空洞。
エレベーターよりも寒々しい、痛みを感じる冷気。
恐る恐る、覗き込む。
「あ……」
山積み。
たくさんの人形が山積みになっている。
杖を持ったワニの人形。
段ボールに入ったサメの人形。
りんごを頭に乗せた狐の人形。
弓を引く兎の人形。
ぺったんこになったダチョウの人形。
アナコンダにアライグマにトカゲにクマにフクロウに。
たくさんの人形が折り重なって積まれている。
手足は千切れ綿は飛び出し、見るも無残な姿。
――おかえり――
声がした。くぐもった透き通る不思議な声。
――おかえり――
声がした。遠い過去に置いてきた誰かのモノ。
――おかえり――
声がした。昔私が持っていた、ぬいぐるみの声が。
「帰らない……」
拒絶する。私は拒絶する。
蠢くぬいぐるみ達が手招きする。
早く来いと、戻っておいでと催促する。
――ココはヤサシイよ――
――ココはコワクナイよ――
手招きする。誘惑する。
だから私は、拒絶する。
「まだ帰れないの」
嘘だ。
本当は帰りたい。
世界がとても輝いて、
世界がとても優しくて、
世界がとても楽しかったあの頃に。
だけど私は、だけど私は――。
「まだ頑張れるから、もう行くわ」
私は歩き出す。
私は歩き出す。
ドアから離れ、扉の向こうに。
辛くて悲しい現実に。
もうすぐ目が覚める。
おはようと言って、おやすみと言う。
そんな世界に、私は行く。
――マッテるよ――
声がする。懐かしい声が。
――マタオイデ――
声がする。優しい声が。
――ボクラはイツデモいるよ――
声がする。私を呼ぶ、声がする。
―― マタね、チャーリー ――
声は聞こえず、私は目覚ましの音で目覚めた。
目覚ましは壊れている。
END