浮気は学生の間だけ――その約束を守ったのに、裏切られた男
浮気、不貞、復讐など不快な描写があります。
ハッピーエンドではありません。
先日倒れて、医師に療養を命じられた。
私の枕元に、これから貴族学院に入学する息子が挨拶に訪れていた。
しっかりと励むように言葉をかけてやる。
「あなたは、学生生活と婚約者を大切にしなければなりませんよ」
妻は息子にそう言い聞かせた。
心なしか「あなたは」という言い方に棘を感じる。
気のせいだろうか。もしかしたら、若干の後ろめたさがあるのかもしれない。
貴族学院は全寮制だ。
義務ではないが、貴族学院を卒業していれば一定のレベルをクリアしていると見なされる。そうとう有名な家庭教師を雇っているなら別だが、社交界では肩身が狭くなる。
「決して、『学生の間だけ浮気してもいいだろう』なんて、馬鹿なことを言ってはいけません。
そんなことを言った時点で、相手の愛情はなくなると心得なさい」
妻の言葉が、私の胸をえぐった。
それは、かつて私が妻に言った言葉だ。
青春を謳歌したいと、軽い気持ちで提案してしまった。
「まさか! そんな馬鹿なことを言うわけがないじゃないですか」
事情を知らない息子が、無邪気に笑う。
「ふふふ。そうよね。
相手を傷つけたら修復不可能になるなんてこと、誰にでもわかるわよね」
妻は細めた目を、ちらりと私に向けた。
もうあれから十年以上経っているのに、まだ許していなかったというのか?
たった三年間の遊びなのに……。
息子が先に退出して、妻がその後に続こうとした。その瞬間を逃さず、妻に話しかけた。
「その言葉をちゃんと守ったじゃないか。
卒業してからは君一筋だ……」
必死に言葉を紡いだが、妻の目はこちらに向けられない。
「あなたのお世話係に、あなたの大好きな人を雇いました。
どうぞ、学生生活を思い出して、余生を楽しくお過ごしになって」
背中を向けたままそう言うと、妻は部屋を出て行った。
ほどなくして、馬車が出ていく音が聞こえてきた。
本当なら、私も玄関で息子を送るはずだった。
成長した息子を喜び、将来に向けた希望を家族で分かち合う。
そこに、当主代理となった弟の声が混じっていた。私の補佐をして、何かあったときのスペア。
非情なようだが、貴族は家を守るため、万全の備えをする必要があるのだ。
弟が私の影となるのも、致し方ないことだろう。
しかし、誰が来るというのだ?
妻は寝たきりになった私の世話をするつもりがないのか。
あれほど愛情を注いでやったのに、手のひらを返すとは……やはり冷たい女だ。
学生時代に身の程をわからせてやったと思ったのに、まだ足りなかったか。
そんなことを考えていたら、うつらうつらとして、眠ってしまったらしい。
目が覚めた。喉が渇いたので、ベルを鳴らす。
くたびれた女が、入ってきた。
「お久しぶりです」
しわがれた声で、まるで精気がない。死に神を連想させ、鳥肌が立った。
「おわかりになりませんか?
ロクサーヌでございます」
学生生活の輝かしい日々が、脳内を駆け巡る。
あの可愛い、守ってあげたくなるような少女が、この老婆?
まさか……。
震える手で吸い口を用意し、私の口に当てる。
視界に入る手は黒ずみ、爪もボロボロだった。私のロクサーヌは、可憐な桜貝のような爪をしていたのだ。
「ロクサーヌの名を騙る偽物め」
消えろと念を込めて言ってやると、ぎゃははと下品な笑い声が返ってきた。
乱暴に吸い口をサイドテーブルに置くと、老婆は大げさにため息を吐いた。
「学生時代にあんたと恋人になったのが、運の尽きだわ」
老婆は、それから私を詰り、責め始めた。
「未だに学生時代を美化しているなんて、驚くわ。
私はあんたと結婚して、この家の夫人になるつもりでいたのよ」
何を言っているんだ?
家格の低い女が、この家に嫁げるわけがないだろう。
「突然『青春のいい思い出だった』と捨てられて、青天の霹靂よ。
卒業しても、まともな縁談なんか来なかったわ。
学業はあなたと遊んでいたから、成績は落ちる一方だった。
家から追い出されて、娼婦をするしかなかったのよ」
「ち、近寄るな」
女は、バサバサに傷んだ髪を一つ縛りにしている。手入れされた妻の髪とは雲泥の差だ。
かつての艶やかな髪の面影など、どこにもない。
「ひどいことを言うじゃない。
あんたは責任を取る気なんか、これっぽっちもなかったのね。
私は人生を棒に振り、あんたは一時の甘い時間を楽しんで、堅実な生活を手に入れた。
なんて不公平なの?
若くして寝たきりになったのは、天罰に違いないわ」
あの、可憐な庇護欲をそそる少女の言葉とは思えない。
彼女に悪霊が取り憑いたと言われたら信じるぞ。
狂ったように笑った女は、ふっと正気に返ったように私の目を見た。
「いいえ、違うわね。
あなたに『自分のことをわかっているのはロクサーヌだけだ』と言われた彼女の復讐よ。
あなた好みの、脂っこい料理を好きなだけ食べさせたと言っていました。
あれ以来、『野菜も食べるように』と言われなくなったのでしょう?」
「それは、私の気持ちを取り戻すための努力だろう」
少し声が震えた。
「男性は栄養学の授業がないから、知らなかったのね?
奥様に健康管理を握られて……これからは財布の紐も握られちゃうわけだ」
老婆は、脂っこいものがいかに体に悪いかを説明した。
知っている知識を披露するのは楽しい。老婆の目も輝きを取り戻す。
ああ、ロクサーヌは料理が好きで、家政学の成績はよかったな……。
私に尿意が訪れたため、思い出話はそこで途切れた。
ぽつりぽつりとロクサーヌは人生を語り、ときに恨み言をぶつけてくる。
「年増になって客がつかなくなり、進退窮まっていたんですよ。路上で『立ちんぼ』するしかないかと……。
そこに奥様から声をかけていただきました。
あんたの世話をしたらいいと。
働き次第では、その後の仕事も紹介してくださるそうです」
彼女は少しずつ言葉遣いも態度も落ち着いてきた。安心できる生活環境で、人の心を取り戻しているように見えた。
だが、しゃべっている内容に引っかかりを覚える。
「――それは、私の死後ということか?」
「そうですよ。一日でも長生きできるように頑張りましょうね」
「う、嘘だ。それではまるで、私が死ぬのをなんとも思っていないようじゃないか」
「奥様が――というご質問ですか?
それは憎まれているでしょう。
学生時代に奥様をどれだけ馬鹿にして、ひどい言葉をかけたか覚えていないのですか」
穏やかに言い聞かせるような話し方に、学生時代の逢瀬が甦る。
当時は愛情が籠もっていると思っていたが、声質と抑揚でそう聞こえるだけだったのか?
「いや、あれは若気の至りというか、照れ隠しというか……。
愛されていることに胡座をかいてしまって、悪かったとは思っているよ」
何度も反省した。ちゃんと言葉にして謝罪したし――。
「はあ、くだらない。
自信がないから、そうやって奥様の愛情を確かめようとしていたのでしょう」
一刀両断に切り捨てられた。そこまで言うか?
「くだらないだと?
たかが娼婦が言うじゃないか」
屈辱に震えながら言い返す。
「こんな男を本気で愛していたなんて、私も馬鹿だった。
自分のことしか考えていない、幼稚な男。
はっきり言いますけど、奥様はあなたを愛してなんかいませんよ」
「子どもまで生んで、夫婦として生活してきたんだ。
それをお前なんかに否定させないぞ」
カードゲームで勝利を確信したときのように、切り札を叩きつけてやる。
もう、黙ってくれと祈りながら――。
「あははは。ばっかじゃないの。
女は相手を憎んでいても、力尽くで押さえつけられたらやられちゃう。
嫌でも腹が膨らんでしまえば、産むしかない。
それを愛情の証だと思うなんて、傲慢で滑稽だね」
「――愛、じゃない?」
「父親が許してくれなければ、貴族令嬢なんて婚約解消もできないし、一人で生きていくこともできない。
働く場所がないんだから。
それこそ私みたいに、一気に娼婦にまで落ちてしまう。
だから、歯を食いしばって耐えているだけ」
地獄を見てきた女の迫力に、気圧された。
貴族の当主が娼婦に言い負かされるなんて……。
二の句が継げなくなった私を、ロクサーヌは哀れな者を見るように顎をあげた。
「ねえ、あなたは弟さんと仲がいいの?」
「独身のまま、私の補佐として……私が倒れたから、近いうちに当主代理になる。
息子が当主になるまでの中継ぎとして」
特別、良くも悪くもない仲だ。
嫡男とそのスペアという、絶対に超えられない壁がある。
「一学年下で、あなたによく似ていたわよね。
あなたに放置された奥様と一緒にいたのを覚えてるわ。
みんな、奥様は弟さんと婚約し直せばいいのにって噂していたのよ」
「なんだ、それは?」
あいつらも浮気していたのか? 自分たちは清廉潔白なふりをして、私だけを責めていたなら、許せない。
「なあに? 『心外』みたいな顔をして。
あなたにそんなことを言う権利はないでしょ。好き勝手していたんだから」
「くそっ。
あいつら、学生時代の思い出を話すときに、俺を仲間はずれにするんだ」
「仲間はずれというか……別行動していたから、一緒の思い出がないだけでしょ。
じゃあ、私と思い出話をしましょうよ。
逆に、あの人たちはわからない話を」
けらけらと笑う姿に、ようやく学生時代の面影が重なった。
「そんなことをしても、あいつらは羨ましがらないだろう」
「そりゃそうよ。相手が私だもの。
高尚な話題についていけない私のことなんか、視界に入っていないんじゃない」
「お前、変わったな」
「ええ、生意気なことを言えばぶたれるし。
娼館に乗り込んでくる奥方や、娼婦を殺そうとする婚約者がいるの。
浮気を容認されたら、それは匙を投げたってことよ。その状態に至ったら、もう愛は冷めている。
生きていくために我慢しているだけ」
娼婦の乾いた笑いが、耳障りだ。
「俺は違う。
――愛されている」
絞り出すように、信念を込めて言う。妻の名誉を守らなければ、とも思う。
「へえ? なら、なんで私が呼ばれたの?
私たちがイチャついても、構わないから。もはや傷つくこともないから。
あんたの世話なんかしたくないから――でしょ」
「それは……。俺の代理が大変だから……手が回らないってだけで」
苦し紛れに理由を探す。
薄々感じていることを、目の前に突きつけるな。
「それなら、普通に世話をする使用人を雇えばいいだけじゃない。
これは、奥様の復讐なのよ。きっと」
「学生時代、辛かったという恨み言か? ――今になって言うことかよ。
当時、その場で言うべきだろう」
手遅れになってから言うなんて、卑怯じゃないか。
目の前の女は両手を空に向けて、肩をすくめた。救いようがない馬鹿をみるような目をして……。
「ねぇ、息子さんって、本当にあんたの子ども?」
女の目が昏く光る。
俺が幸せだということを許さないという、復讐者の顔に変わっていく。
「どういう意味だ?」
「弟さんとの子どもだったりして。二人とも、仲良かったじゃない」
「そんな、馬鹿な……」
そういえば、妻の笑顔が違う。俺と、弟に向ける顔が……!
俺の絶望する顔を、楽しそうに娼婦が鑑賞している。
「あんたのご両親も黙認していたりしてね。父親がどっちでも、孫には変わりないもん。
平民に落とされたあたしには、関係ないことだけどさ。あははは」
女は笑いながら、目尻の涙を指で弾いた。
そんな貴族らしからぬ振る舞いが、若い時は魅力的だった。年を重ねると、その指を何で拭くつもりかと不快になるだけだ。
そういえばこの女と浮気して、半年くらいは悲しそうな顔を見せていた。
弟が入学してくると、奴が彼女を慰めるようになり、俺たちに苦言を呈することがなくなったんだ。
俺は、弟が次期当主である俺のフォローを従順に務めていると思っていた。……すでに、その頃から裏取引をしていたのか?
楽しい学生生活、穏やかな結婚生活という栄光の日々の記憶が、崩れ落ちていく。
父上、母上。私の人生をなんだと思っていたのですか?
この女が来てから、一度も妻はこの部屋を訪れていない。




