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この身体には二人いる——昼は勇者、夜は魔王  作者: 歩人


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第7話: 手の甲の文字

 九日目の夜。


 レインは夜城の私室で、壁に向かっていた。


 闇の魔力で空中に図表を描く。紫がかった光の線が、冷たい石壁の上に浮かぶ。九日分のデータ。毎晩、玉座の間に戻ってからつけていた記録を、今夜初めて一枚の図にまとめた。


 ——右手。


 聖光剣の柄の圧痕。Day 1から毎日。光属性の残留魔力が表皮下に蓄積しており、消えない。剣ダコ。レインはこの九日間、一度も剣を握っていない。


 ——筋肉。


 大腿四頭筋の使用パターン。レインの走行は影走——魔力で足を軽くする技術であり、筋肉への負荷は小さい。にもかかわらず、毎晩覚醒時に大腿部に疲労が残っている。走行ではなく、踏み込み。剣士の筋肉だ。


 ——傷。


 Day 3の右肩打撲。闇属性ではない。Day 5の左前腕の擦過傷。これも闇属性ではない。Day 7——右手首の捻挫。剣を振り損ねた時に生じる、典型的な手首の故障パターン。


 全てが、光属性の戦闘行為に一致する。


 ——そして、もう一つ。


 体の使い方。レインは歴代魔王の所作を受け継いでいる。背筋が伸び、重心が低く、歩幅が一定。だが毎晩、覚醒直後の体には「別の癖」が残っている。肩が開いている。重心がやや前方に偏っている。歩き出す時の一歩目が大きい。

 戦士の体捌き。しかもレインの知る闇の戦士ではない。ガルムとの模擬戦で身についた動きとも違う。光属性の剣士に特有の、踏み込み重視の前傾姿勢だ。


 九本の線が壁の図表に並んだ。毎日の痕跡データ。Day 1からDay 9まで。一本一本が独立した傍証であり、そのどれもが同じ結論を指していた。


 ——昼間、この体を使っている「誰か」がいる。


 レインは壁から一歩下がった。腕を組み、図表を見つめた。


 九日間かかった。初日から疑念はあった。だが疑念とデータは違う。仮説と結論も違う。レインは一日ずつ、一つずつ、証拠を積み上げてきた。焦らなかった。データが不足している段階で行動を起こせば、誤った結論に到達するリスクがある。

 蒼馬の記憶の中で、指導教官がよく言っていた——「n=1で論文を書くな」。


 確度。九日前は60%だった。五日前に78%に上がった。今夜——95%を超えた。


 残りの5%。それは「この体に起きている全ての異常が、召喚後遺症として説明できる可能性」だ。剣ダコも、筋肉パターンも、覚えのない傷も、全てが偶然の産物であるという仮説。論理的には棄却できない。


 だが。


 蒼馬の記憶が囁いた。情報工学の講義。卒業研究のゼミ。指導教官の口癖。


 ——「完璧を待つな。仮説は検証して初めて意味を持つ」


 95%の確信を100%に引き上げるために、あと何日必要だ。一日? 一週間? 一ヶ月?


 その間にも、昼間の「あいつ」はこの体を使い続ける。この体に傷をつけ、筋肉を酷使し、痕跡を残し続ける。レインはそれを毎晩観測し、データを積み上げ——そして何もしない。


 データは充分だ。


 足りないのは検証手段だった。直接コミュニケーション。昼間の「あいつ」に情報を送り、反応を確認する。仮説を事実に変えるために必要なのは、もう一点のデータだけだ。


 ——返答。


 昼間の人格が「返事を書く」。それだけで仮説は確定する。


 壁の図表を消した。闇の魔力を右手の人差し指に集中させた。黒い光が指先に灯る。闇のインク。触れた物体の表面に闇属性の魔力痕を刻印する——レインの闇蝕の応用技術。低出力であれば、数日間は消えない。


 左手の甲を、自分に向けた。


 ここに書く。


 昼間の「あいつ」が最も確実に見る場所。顔は鏡がなければ見えない。腕は服に隠れる。だが手の甲は——剣を握れば嫌でも目に入る。水を飲む時も。飯を食う時も。手の甲だけは、隠しようがない。


 右手の人差し指を左手の甲に当てた。


 ——何を書く。


 レインは3秒考えた。


 論理的な自己紹介か。データを添えた分析報告か。蒼馬なら書式を整え、番号を振り、丁寧に状況を説明する手紙を書くだろう。


 だがレインは蒼馬ではない。


 歴代魔王の記憶が背骨を通った。玉座から見下ろす者の言葉。領土を主張する者の宣言。


 指が動いた。


 黒い光の筆跡が、左手の甲に刻まれていく。角張った、冷たい字。


 『この体は俺のものだ。出て行け。——R』


 書き終えた。


 手の甲を見つめた。闇のインクが皮膚の上で微かに光っている。冷たい。


 一行。それだけだ。分析報告も、証拠の提示も、論理的な説明もない。ただの宣戦布告。一方的な領有権の主張。


 ……これでいい。


 返答があれば仮説は確定する。返答の内容は問わない。怒りでも恐怖でも困惑でも——「反応がある」こと自体が、昼間の人格の存在証明になる。


 そして返答がなかった場合。


 レインは目を閉じた。


 返答がなかった場合——九日分のデータが全て無意味になる。自分は石壁に向かって図表を描き、存在しない仮想の敵に宣戦布告した、ただの異常者になる。


 その可能性も、5%は残っている。


 指先の闇のインクが、まだ温かかった。自分の魔力。自分の意志。自分の——賭け。


 レインはベッドに横になった。左手の甲を上にして。


 ……明日の朝。この字を見る奴がいるのか、いないのか。


 目を閉じた。




 十日目の朝。


 いつも通り、闇の中で目覚めた。


 ヒカルは起き上がり、息を整え、走った。十日目になると体が手順を覚えていた。右に曲がる。階段を下りる。外に出る。北の光を目指す。


 考えない。走る。


 十日間で体が覚えた最も大切なルール。走っている間は考えなくていい。足の痛み、呼吸の音、北の光——それだけに集中していれば、闇の中で目覚める理由も、覚えのない体の傷も、全部後回しにできる。


 光都に戻ったのは7時前だった。門の前にセレナはいなかった。最近はセレナも慣れたのだ。毎朝の「朝練帰り」に。もう聞かない。手帳に書くだけだ。

 城壁を抜け、光の魔力が体に満ちる。いつもの安堵。いつもの疑問——この安堵は俺のものか、器のものか。


 考えるな。


 部屋に戻った。汗をかいていた。十日分の朝帰りで体は順路を覚えたが、疲労は毎日同じだ。水差しから水を注いで、顔を洗い、手を洗おうとした。


 ——止まった。


 左手の甲に、文字があった。


 黒い文字。闇属性のインク。手の甲の皮膚の上に、角張った筆跡で書かれた一行。


 ヒカルの字ではない。


 ヒカルの字は丸い。ヒカルの字は大きい。ヒカルの字は力が入りすぎて紙が破れることがある。


 この字は違った。角張っていた。鋭かった。冷たかった。文字の一画一画に無駄がなく、刃物で刻んだように正確だった。


 知らない字。知らない筆跡。


 ——自分の手の甲に。


 水差しの水が、手からこぼれた。陶器が鳴る。水が石の床に散った。音が遠かった。


 読んだ。


 『この体は俺のものだ。出て行け。——R』


 手が震えた。


 自分の手の甲に。自分の手に。自分が眠っている間に。知らない誰かが——この手を動かして——この指で文字を書いた。


 この手を。


 俺の手を。


 理解するのに、数秒かかった。


 「召喚酔いの副作用」。王宮医師はそう言った。闇の中で目覚めるのは、召喚魔法の残滓が体内で暴れているから。覚えのない傷は、無意識の痙攣によるもの。体の異変は全て、召喚の後遺症として説明できる——と。


 嘘だ。


 後遺症は文字を書かない。後遺症に筆跡はない。後遺症は名前を持たない。


 R。


 誰だ。何者だ。どこにいる。


 手の甲をもう一度見た。文字はまだそこにある。消えない。夢ではない。幻覚でもない。闇属性の残留魔力が微かに光っている。冷たい光。指で触れると——皮膚に刻まれたように滑らかだった。上からこすっても消えない。水をかけても滲まない。

 この文字は——魔力で書かれている。意図を持って。技術を持って。この手の甲の面積に収まるように、一画の太さまで計算された精度で。


 文字を書くには、知性がいる。知性があるということは——「それ」は、考えている。この体の中で、自分が眠っている間に、目を開け、手を動かし、考えて、書いた。


 恐怖が腹の底から這い上がった。朝の闇を走る時の恐怖とは質が違う。あれは「知らない場所にいる」恐怖だった。これは——「知らない誰かが自分の中にいる」恐怖だ。


 自分の体が、自分のものではない。


 その事実が、十日間で積み上げてきた「見て見ぬふり」を一瞬で崩した。


 覚えのない傷。覚えのない筋肉痛。覚えのない疲労。毎朝、闇の中で目覚める理由。全て——全部、こいつだったのか。「R」。こいつがこの体を使って、夜の間に——


 恐怖が、沸点を超えた。


 怒りに変わった。


 水差しを掴んだ。壁に叩きつけそうになった。止めた。拳を握った。爪が掌に食い込んだ。


 俺の体だ。


 俺は——ヒカルだ。光の勇者ヒカルだ。この体でここまで来た。この手で初めて剣を握った。この足で毎朝走った。この目で光都の空を見た。この口でパンを食べて「うまい」と言った。この耳でセレナの声を聞いた。この心臓の鼓動を聞いて——生きていると知った。


 十日間。たった十日間。だがこの十日間は、ヒカルの人生の全てだ。記憶を持たない人間にとって、「今」だけが自分の証明だ。過去がない。だから「今持っているもの」を奪われたら、何も残らない。


 それを——「出て行け」だと?


 お前が出て行け。


 机の引き出しをこじ開けた。インク壺を掴んだ。羽根ペンを——違う。手が震えすぎて書けない。ペンの先が紙の上で滑って、点が散った。


 指で書いた。インクに指を突っ込んで、右手の甲に。


 震えていた。文字が歪んだ。何度も書き直した。インクが手の甲を汚して、ぐちゃぐちゃになった。だが構わなかった。読めればいい。こいつに伝わればいい。


 『俺が先にいた。お前こそ出て行け。——H』


 書いた。


 書いてから、手が止まった。


 「俺が先にいた」——本当にそうなのか。本当に、俺が先だったのか。記憶がないのに。生まれて十日なのに。何を根拠に「先にいた」と言える?


 わからない。わからないが——そんなことはどうでもいい。今、この瞬間、腹の底を焼いている怒りだけが本物だ。理屈じゃない。この体は俺のものだ。それだけが確かだ。


 インクが乾いていく。黒い文字。丸くて、大きくて、力が入りすぎている——ヒカルの字だ。


 「R」の文字の隣に、「H」が並んだ。


 ——左手の甲に、闇のインクの角張った字。右手の甲に、普通のインクの丸い字。


 同じ体の両手に、二つの筆跡が向き合っている。


 その光景を見て、ヒカルは初めて理解した。


 自分は一人ではない。


 この体に——もう一人、いる。




 扉がノックされた。


「ヒカル様、朝食を——」


 セレナの声。ヒカルは両手を咄嗟に背中の後ろに隠した。


「あ、ああ。今行く」


「……どうされました?」


 扉が開いた。セレナの紫の瞳が、ヒカルの顔を捉えた。


 ——目が赤い。水差しが割れている。床にインクが散っている。


 セレナの視線がそれら全てを一瞬で走査した。手帳を開く気配。だが——開かなかった。


「朝食はお部屋にお持ちしましょうか」


「……頼む」


 セレナが出て行った。足音が廊下を遠ざかる。途中で止まった。3秒。——また歩き出した。


 あの3秒に何があったのか、ヒカルには想像がついた。手帳を開こうとして、やめたのだ。


 ヒカルは両手を見下ろした。


 左手の甲——闇のインク。角張った、冷たい字。黒い光が皮膚の上で微かに脈打っている。

 右手の甲——普通のインク。丸くて、大きくて、力が入りすぎた字。乾いて少し滲んでいる。


 二つの手紙が、一つの体の上で向き合っている。


 明日の朝——こいつは、この返事を見る。


 「R」は怒るだろうか。それとも——満足するだろうか。自分の仮説が正しかったと知って。ヒカルには「R」がどんな奴かわからない。角張った字しか知らない。冷たいインクの感触しか知らない。


 だが一つだけわかることがある。


 「R」は——賢い奴だ。この文字の精度。一画の無駄もない筆跡。手の甲という場所の選択。全てが計算されている。ヒカルにはできない種類の知性が、この文字の奥にある。


 恐怖は消えていなかった。怒りも消えていなかった。だがその奥に、もう一つだけ——言葉にできない何かが生まれていた。


 返事を書いた、ということは。


 「R」が——ここにいることを、認めた、ということだ。

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