第5話: 盾と紅茶
三日目の朝も、闇の中で始まった。
もう慣れた——と思いたかった。石の床の冷たさ。胸を圧し潰す闇の魔力。窓のない部屋。三度目ともなれば、恐怖より先に手順が動く。起き上がる。足元を確かめる。右に曲がる。階段を下りる。
だが「慣れた」は嘘だった。
走り出した足が震えていた。三度目でも、この闇は怖い。
北へ。光の方へ。
光都の城壁を越えた時、ヒカルは自分の体に違和感を覚えた。
右肩が重い。覚えのない筋肉痛。昨日の素振りのせいではない——昨日は左手で剣を握った。右肩を酷使してはいない。
夜の間に、「あいつ」が何かをした。
三日目。もう偶然では片付けられなかった。毎朝、闇の中で目覚める。毎朝、覚えのない傷が増えている。毎朝——この体が、自分だけのものではないと突きつけられる。
考えるな。走れ。
門の前にセレナはいなかった。三日目になると、セレナも「学習」したらしい。城門ではなく、城の正面玄関で待っていた。手帳を開いて。ペンを構えて。
「おはようございます、ヒカル様。本日の朝練は——」
「ああ。走り込み」
三日目の嘘。もう迷いすらなかった。
セレナの紫の瞳が一瞬だけ細くなった。手帳に何かを書いた。ヒカルにはその字が見えなかった。
中庭。
ヒカルは聖光剣を握り、素振りを始めた。
三日目にして、剣を振るのが日課になりつつある。理由は単純だった。体を動かしている間は考えなくていい。走っている間と同じだ。剣を振る。もう一回。もう一回。振り方がわからないまま、ただ腕を動かす。
——だが今日は、いつもと違った。
十振り目で、手首に鋭い痛みが走った。
「いっ——」
剣を落としかけた。手首を押さえる。痛い。何が悪いのかわからないが、手首の角度がおかしい。振り上げるたびに関節が軋む。
「その持ち方、手首壊すぞ」
声が降ってきた。
振り向いた。大きかった。視界の半分が埋まるほど大きい。
岩みたいに四角い顔。小さな垂れ目。汗だくのシャツ。肩に——巨大な塔盾を背負っている。盾には無数の傷があった。だが一箇所だけ、やけに丁寧に磨かれた面がある。朝の光を反射して、そこだけ鏡のように光っていた。
「——誰だ」
「ガレス。ガレス・ストーンウォール。お前の前衛」
名乗りが短い。自己紹介というより、事実の報告だった。
ガレスはヒカルの横にしゃがんだ。巨体が沈むと、それでもヒカルの目線より高かった。
「手、出せ」
「え」
「手首、見せろって」
言われるまま右手を差し出した。ガレスの掌がヒカルの手首を包んだ。硬い手だった。掌全体がタコに覆われていて、指の皮が分厚い。盾を何万回と握った手。
「親指、ここ。人差し指、ここ。柄を握るんじゃなくて、添えるんだ。剣に手首を合わせるな、手首に剣を合わせろ」
理由は聞かなかった。「なぜ」を言わなかった。ただ——直してくれた。
ガレスの手が離れた後、ヒカルは剣を振った。さっきまでの痛みが消えていた。手首が楽だ。振り上げから振り下ろしまで、関節に無理がかからない。
「……すごい」
「すごくねえよ。基本だ」
ガレスが笑った。大きな口が開いて、犬歯が見えた。犬みたいだ、とヒカルは思った。尻尾があったら振っている。
「ペトラ、見ろよ。勇者様が基本も知らねえって」
ガレスが背中の塔盾に話しかけた。盾は当然、何も答えない。
「……ペトラ?」
「俺の盾。ペトラ」
名前がある。盾に名前がある。——変だと思った。思ったが、嫌ではなかった。むしろ少しだけ安心した。盾に名前をつける人間は、たぶん悪い奴じゃない。
「素振り、付き合ってやる。暇だしな」
暇だから。理由がそれだけだった。
ヒカルは頷いた。断る理由がなかった——いや、断りたくなかった。
一時間。
ガレスはほとんど何も言わなかった。ヒカルが剣を振り、時々手を止めて「ここ、こうだ」と直してくれるだけ。長い説明はない。理論もない。ただ正しい形を、体で教える。
ヒカルは気づいた。ガレスの教え方は——言葉が少ない代わりに、体が雄弁だった。「こう振れ」ではなく、自分の体で見本を見せる。腕の角度。膝の曲がり方。重心の位置。言葉にできないものを、動作で伝える。
そして——ヒカルの体が、それを吸い取った。
ガレスの足の運びを見た。次の素振りで、ヒカルの足が同じ運びになった。ガレスの肘の角度を見た。ヒカルの肘が同じ角度になった。
吸収が速すぎることに、ヒカル自身は気づいていなかった。
ガレスは気づいていた。垂れた目が一瞬だけ細くなった。だが——何も言わなかった。
昼。食堂。
「飯、食おうぜ」
ガレスに連れられて食堂に入った。長いテーブル。木の椅子。窓から差し込む光。騎士たちが数人、談笑しながら食事をしている。
ガレスがパンを二つ取って、一つをヒカルの前に置いた。
「ここのパン、まあまあだ。俺が焼いたやつの方がうまいけど」
「焼くのか? パン」
「盾持ちは手が丈夫だから、捏ねるの向いてんだよ」
ガレスが自分の掌を見せた。タコだらけの、分厚い手。この手でパンを捏ねるのか。剣ダコと小麦粉が同居する手。
パンをちぎった。口に入れた。
——うまい。
三日目のパンだった。初日のパンの感動はもうない。だが「うまい」は本物だった。小麦の香ばしさ。焼き目の食感。噛むほどに甘みが出る。
「……うまい」
「だろ」
ガレスが笑った。大きな口を開けて、目を細めて。
ヒカルも笑った。
——同じ笑い方だった。
口の開き方。目の細め方。歯の見せ方。ガレスの笑顔を、ヒカルの顔がそのままコピーしていた。
気づいたのは、向かいに座っていた騎士が一瞬だけ怪訝な顔をしたからだ。ガレスそっくりの笑い方をする勇者。体格も顔も全く違うのに、笑い方だけが同じ——それは傍目には、異様に映ったはずだ。
ヒカルの笑顔が、固まった。
「どうした?」
「……いや」
笑い方が——借り物だった。
昨日までは気づかなかった。いや、気づかないふりをしていた。セレナといる時、言葉遣いが丁寧になる自分。騎士団長と話した後、背筋が伸びる自分。そして今——ガレスと笑った後、ガレスの笑い方をする自分。
全部、コピーだ。
記憶がない。だから参照元がない。他の人間がどう笑うかを見て、それを写し取ることしかできない。ヒカルの「笑い方」は存在しない。あるのは、ガレスの笑い方。セレナの頷き方。王の声の出し方。寄せ集め。借り物。パッチワーク。
——俺の「自分」は、どこにある?
パンを噛む手が、止まった。
「ヒカル」
ガレスの声。短く。低く。
「なんだ」
「俺って、どんな奴に見える?」
ヒカルは思わず聞いていた。自分でも驚いた。なぜこんなことを聞いたのか。——聞きたかったのだ。鏡がないから。自分の顔を知らないから。他人の目に映る自分を、確かめたかった。
ガレスは一瞬、きょとんとした。それから——考えた。考えるのが苦手な男が、真剣に考えた。額に皺を寄せて、パンを噛むのを止めて。
「……いい奴」
「それだけか」
「それだけで充分だろ」
ガレスはパンの残りを口に放り込んだ。もぐもぐと咀嚼しながら、ペトラの表面を手の甲で撫でた。
「難しいこと聞くなよ。頭痛くなる」
——いい奴。
その二文字が、空っぽな器の底に落ちた。名前をもらった時と似ていた。たった二文字で、何かが変わる。
「いい奴」はヒカル自身の性質なのか。それとも、ガレスの「いい奴の定義」にヒカルが当てはまっただけなのか。わからない。
だが——ガレスがそう言った。ガレスの目でヒカルを見て、ガレスの言葉でそう言った。
借り物かもしれない。でも、嬉しかった。
ヒカルはもう一度笑おうとした。口が動いた。——ガレスの笑い方が出てきた。反射的にそうなる。自分の笑い方が存在しないから。
途中で、止めた。
口を閉じた。少しだけ俯いた。そして——唇の端だけを、ほんの少し持ち上げた。
ガレスの笑い方ではなかった。セレナの微笑みでもなかった。誰のコピーでもない——不格好で、ぎこちなくて、唇が引きつっていて。
でも、それはヒカルだけの顔だった。
たぶん。
「……変な顔」
「うるせえ」
ガレスが腹を抱えて笑った。ヒカルは笑わなかった。笑わないことを、選んだ。ガレスの笑いにつられない自分を、初めて選んだ。
それがどれほど小さな一歩なのか——ヒカル自身にもわからなかった。
食堂を出た後、廊下でセレナとすれ違った。
「ヒカル様。ガレスと一緒でしたか」
「ああ。剣を教えてもらった」
セレナの目がヒカルの顔を走査した。いつもの観察。頭のてっぺんから足先まで。——だが今日は、何か別のものを見つけたらしい。
「……少し、表情が変わりましたね」
「変わった?」
「はい。——いえ、記録上の所見です。失礼しました」
手帳にペンを走らせた。何を書いたのか、見えなかった。
夜。
レインは予定通り光都の王城で目覚め、予定通り脱出し、予定通り夜城に帰還した。
所要時間、24分。前夜より4分短縮。南東ルートの石積みに慣れてきた。
だが数字を見ても、何の感慨もなかった。
——四日目。「日常」が完成しつつある。
ヴェルデが城門で待っていた。四晩連続。四晩連続で「散歩」と言い、四晩連続でヴェルデは「さようですか」と答えた。
もう儀式だ。
「おかえりなさいませ、レイン様」
「……ああ」
「本日は、少し早いですね」
「道を覚えた」
嘘ではなかった。だが全てでもなかった。ヴェルデの赤い瞳が0.5秒だけ長くレインを見た。右の角のヒビを——触らなかった。触らないことが、かえって不自然だった。
玉座の間に向かう廊下を歩きながら、レインは体の状態を確認した。
右肩の筋肉痛。昼間の「あいつ」が何かをした痕跡。腕の動かし方に変化がある——素振りか。昨日までは自己流の痕跡だったが、今日は違う。肩甲骨の可動域が広がっている。フォームが矯正されている。
誰かに教わったのか。
……まあいい。あいつの昼間の事情など、知ったことではない。
玉座の間。
冷たい石の椅子に腰を下ろした。
ヴェルデが控えている。レインの右斜め後ろ。いつもの位置。前代魔王の時代から変わらない立ち位置だと、歴代の記憶が教えてくれた。
「レイン様」
「何だ」
「夜の一服をご用意いたします。何をお持ちしましょう」
声のトーンが、微かに——ほんの微かに、いつもと違った。報告の声ではない。日常の声でもない。何かを確かめようとする声。
レインは気づいた。これはテストだ。
歴代魔王の知識が瞬時に検索された。前代魔王の嗜好。白湯。白湯だけを好み、紅茶を嫌った。——理由は知らない。歴代の記憶にも前代の私的な嗜好の「理由」までは記録されていない。ただ事実として、前代は白湯を選んだ。300年間、一度の例外もなく。
ヴェルデはそれを知っている。知っているから、聞いている。
「白湯」と答えれば——ヴェルデは安堵する。前代の影をレインの中に見つけて、角のヒビを撫でて、「やはりこの方は後継者だ」と自分に言い聞かせる。
蒼馬の記憶が割り込んだ。
紅茶。砂糖二つ。ミルクなし。大学の食堂で、毎日のように飲んでいた。安い紅茶。ティーバッグを二回使い回すこともあった。試験前の図書館。自販機の紅茶。110円。ぬるかったが、それでよかった。
蒼馬は紅茶が好きだった。
——だが、レインは蒼馬ではない。
前代でもない。
生まれて五日目の存在が、「自分の好み」を持っているだろうか。記憶のない器に味の好みがあるだろうか。——ヒカルにはない。あいつは何を食べても「うまい」と感動している。全てが初めてだから、全てが等しく新鮮で、選ぶ基準がまだない。
レインには——ある。蒼馬の好みがある。歴代魔王の好みがある。前代の白湯がある。蒼馬の紅茶がある。
どれも借り物だ。
だが——借り物の中から「選ぶ」ことは、借り物だろうか。
蒼馬は砂糖を二つ入れた。前代は白湯を選んだ。レインが紅茶を選んだとしても、それは蒼馬の模倣になる。白湯を選べば前代の模倣。どちらを選んでも——借り物。
なら。
「紅茶を」
ヴェルデの指が動いた。角のヒビに向かって——途中で止まった。
「……かしこまりました。砂糖とミルクは」
「いらない」
蒼馬は砂糖を二つ入れた。レインは入れない。
前代は紅茶を飲まなかった。レインは飲む。
どちらとも違う。
選んだのはレインだ。蒼馬の好みでもなく、前代の好みでもなく——レインが、今、この瞬間に決めた。紅茶を。砂糖なしで。
それが本当に「レインの好み」なのかはわからない。蒼馬の記憶の影響を完全に排除できたのかもわからない。もしかしたら、蒼馬の紅茶好きと前代の嫌悪の間を取っただけの、中途半端な妥協かもしれない。
——だが、それでいい。
生まれて五日目。完全にオリジナルな「自分」を持つことは不可能だ。誰だってそうだ。蒼馬だって——蒼馬の紅茶の好みは、蒼馬の母親の影響だろう。母の淹れた紅茶を飲んで育った。借り物の上に借り物を重ねて、それを「自分の好み」と呼ぶ。人間は全員そうだ。
なら——レインも同じことをしていい。
借り物の記憶の上に、レインの選択を重ねる。それが「レインの好み」になる。
ヴェルデが紅茶を持ってきた。白い陶器のカップ。湯気が立ち上る。暗い琥珀色の液体。
口をつけた。
苦い。渋い。砂糖がない分、茶葉の味がそのまま舌を打つ。蒼馬の記憶が「砂糖が欲しい」と叫んだ。
——黙れ。これが、レインの紅茶だ。
もう一口飲んだ。苦かった。だが——嫌ではなかった。嫌ではないという判断が、体の奥から湧いてきた。蒼馬の記憶ではない。歴代魔王の記憶でもない。今、この舌で、この苦味を受け取って——「嫌ではない」と判断した。
それはレインのものだった。
五日目にして、初めて。
「……味は、いかがですか」
ヴェルデの声がした。静かな声。だが——その静けさの奥に、何かが揺れていた。
レインはカップを置いた。ヴェルデを見なかった。見たら——あの赤い瞳に映る感情を読んでしまう。前代との差異を確認した動揺。新しい主人が前代と違う人間だという事実を突きつけられた痛み。それを見たくなかった。
「悪くない」
それだけ言った。
ヴェルデは3秒、沈黙した。長い3秒だった。
「……かしこまりました。次回もご用意いたします」
足音が遠ざかった。廊下の角を曲がる音。——そして、音が止まった。
レインの聴覚は闇の中で鋭い。廊下の先で、ヴェルデが立ち止まっている。3秒。5秒。10秒。
再び足音が動いた。遠ざかっていく。
——あの10秒間、ヴェルデは何をしていた。
角のヒビを撫でていたのだろうか。目を閉じていたのだろうか。それとも——前代の紋章バッジを、左胸の上から指で触れていたのだろうか。
レインには見えなかった。見に行かなかった。
カップの中の紅茶が、少しだけ冷めていた。
もう一口飲んだ。砂糖のない苦い紅茶。蒼馬なら顔をしかめる味。前代なら手もつけない飲み物。
レインは——飲んだ。最後の一口まで。
玉座に一人。
紅茶の余韻が舌に残っている。苦味と渋味。だが不快ではない。この味を「不快ではない」と判断した自分がいる。その自分は蒼馬でも前代でもない。
レインは右手を見た。
蒼馬の手ではない。歴代魔王の手でもない。——ヒカルの手でもある。
同じ手で、昼間のあいつは剣を振った。誰かにフォームを直してもらったらしい。肩の動きが変わっている。あいつにも——あいつの世界にも、何かが少しずつ増えている。
首の後ろを掻いた。蒼馬の癖。
——チッ。
舌打ち。レインの癖。
借り物の癖への苛立ち。その苛立ちだけが、レインのもの。
そして今日——紅茶の味が加わった。
小さい。五日間で手に入れた「自分だけのもの」は、舌打ちと紅茶の好みだけだ。
だが——ゼロではない。
レインは目を閉じた。闇の中に、茶葉の苦い香りだけが残っていた。
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