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この身体には二人いる——昼は勇者、夜は魔王  作者: 歩人


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第4話: 繰り返す朝と夜

 繰り返しが始まった。




 闇の中で目が覚めた。


 二度目だった。


 ヒカルは叫びそうになった。叫ばなかった。なぜだろう。初めて——昨日ここで目覚めた時は、何が起きているかわからないまま本能で走った。今日は違う。体が覚えている。ここが「あの場所」だということを。冷たい石の床。窓のない部屋。空気ごと体を押し潰すような、黒く重い魔力の圧。


 昨日と、同じだ。


 同じ場所。同じ闇。同じ息苦しさ。

 違うのは——今日のヒカルには、昨日の記憶があるということだった。


 昨日はパニックだった。目覚めて、走って、何もわからないまま北へ向かった。光の都市の城壁にたどり着いた時、膝から崩れた。光が体を包んで、力が戻って——安堵した。

 だがその安堵は嘘だった。安堵したということは、また来ると知っていたということだ。体のどこかが予感していた。今夜も眠る。眠ったら——また、ここで目覚める。


 予感は正しかった。


 起き上がった。足元が冷たい。裸足だ。昨日も裸足だった。寝巻きのまま。白い薄手の寝巻きが、この場所ではひどく目立つ。闇の中に浮く白い布。灯台のように。

 ——逃げなければ。


 足が動いた。昨日と同じルートを辿る。右に曲がる。階段を下りる。骨のような柱の並ぶ廊下を抜ける。昨日は暗闇の中で壁に何度もぶつかった。今日は一度もぶつからなかった。

 足が覚えている。体が覚えている。たった一度走っただけなのに。


 ——これは、慣れだ。

 昨日は恐怖しかなかった。今日は恐怖の中に、微かな手順が生まれている。右に曲がる手順。階段を数える手順。扉を押す手順。

 慣れるということは——明日も来ると、体が認めたということだ。


 外に出た。冷たい空気が頬を打つ。空は闇。完全な闇。星もない。

 だが北の地平線に、白い光の帯が見える。昨日も見えた。あの光を目指して走った。今日も同じだ。同じ光。同じ距離。同じ裸足の足。


 走った。


 光走——と体が囁いた。足裏から光の力を噴き出し、地を蹴る技術。だが体が応えない。闇の魔力が全身を押さえつけている。出力三割。普通の人間の駆け足と変わらない。時速十数キロ。この速度では光都まで何時間かかるかわからない。


 石畳が足裏を削る。砂利に足を取られる。草原に入ると少し楽になる。だが草の下の小石が刺さる。昨日と同じ痛みが、同じ場所に来る。左足の親指の付け根。右足のかかと。

 昨日と同じ傷が、同じ場所にできていく。


 ——明日も。明後日も。こうやって走るのか。


 その考えが脳裏を過ぎった瞬間、足が止まりかけた。


 止めなかった。止まったら考えてしまう。走っている間は走ることだけに集中できる。足の痛み。呼吸のリズム。北の光。それだけを見ていれば、「なぜ」を考えなくて済む。

 なぜ毎朝、闇の中で目覚めるのか。なぜ体に覚えのない傷があるのか。なぜ光の力が三分の一まで落ちた状態で、敵の領土の真ん中にいるのか。


 考えたら壊れる。だから走る。


 どれくらい走っただろう。空が少しずつ変わっている。真っ黒だった闇に、灰色が混ざり始めた。

 ——黄昏帯。光と闇が混在する中間地帯。足裏の感触が変わった。石畳が荒れた砂利道に、砂利道が草原に、草原が瓦礫混じりの荒野に。

 だが体も変わっていた。闇の魔力が薄れるにつれて、光走の出力が戻っていく。五割。六割。足が軽くなる。一歩の距離が伸びる。呼吸が楽になる。時速二十キロ。三十キロ。さっきまでの駆け足が嘘のように、地面が後ろに流れていく。


 黄昏帯を抜けた。光の領域に入った瞬間、体が跳んだ。八割。出力が一気に跳ね上がる。時速三十五キロ。風が耳元で鳴る。


 走り始めてもう二時間近い。足の裏は血が滲んでいる。太ももが焼けるように熱い。だが止まれない。光が近い。あと少し。




 光都ソレイユの城壁が見えた。


 白い壁が朝の光を反射している。永遠の昼の結界。あの壁の内側に入れば、光の魔力が120%に戻る。呼吸が楽になる。力が満ちる。

 昨日もそうだった。壁を越えた瞬間、体が喜んだ。光が肌に染み込んで、沈んでいた力が一気に湧き上がって——「帰ってきた」と、体が告げた。


 今日も同じだ。壁を越えた。光が包む。力が戻る。

 だが二時間走り続けた足は言うことを聞かない。光の力が満ちても、筋肉の疲労は消えない。膝が笑っている。裸足の足裏がひりつく。


 ——帰ってきた。


 だがその安堵の直後に、冷たい疑問が差し込んだ。昨日と同じ疑問。この安堵は「俺の」安堵なのか。召喚魔法に刻印された「光の勇者」としての反応が、体に「帰ってきた」と感じさせているだけではないのか。

 光が心地良い。それは本当だ。でもそれは「ヒカル」が心地良いのか、「光の勇者という器」が心地良いのか——その区別が、つかない。


 自分の感情なのか。体の反応なのか。

 二度目の帰還で、その問いが少しだけ重くなっていた。


 門が見えた。


「ヒカル様!」


 セレナが立っていた。昨日と同じ場所に。白いローブ。胸に手帳。目の下に隈。

 ——昨日もこうだった。門の前で待っていた。朝になっても部屋にいないヒカルを探して、ここまで来ていた。

 今日もそうだ。二日連続で朝帰りする勇者を、門の前で待っている。


「どこに——」


 セレナの目がヒカルの足元に落ちた。裸足。傷だらけ。昨日と同じ傷が、同じ足に。


「その足……また裸足ですか。昨日と同じ——」


「朝練だ」


 言葉が、勝手に出た。


 昨日と同じ嘘が。


「朝練。走り込み。勇者だからな。鍛えないと」


 昨日はこの嘘に自分で驚いた。嘘がこんなに簡単に出る自分に驚いた。だが今日は驚かなかった。昨日と同じ嘘を、同じ口調で、同じ相手に繰り返している。

 ——もうこの嘘に慣れている。たった一日で。


 嘘に慣れることの速さが、怖かった。

 記憶がないから、比較対象がない。「普通はこんなに簡単に嘘をつけないはずだ」という常識すらない。だからこそ——嘘が自然に出る。嘘を嘘と認識する重力すらない空っぽな器の中で、嘘と真実の区別が溶けていく。


 セレナの紫の瞳が、ヒカルの足元からゆっくりと上がった。顔を見た。目を見た。


「……そうですか」


 手帳にペンを走らせた。


「朝練、ですか」


 声のトーンが昨日より、さらに半音低かった。


 信じていない。わかる。昨日も信じていなかった。今日はもっと信じていない。だが聞かない。それ以上聞かない。

 ——なぜ聞かないのだろう。


 ヒカルにはわからなかった。セレナが聞かない理由が。ヒカルの嘘を知っていて、それでも真実を追及しない理由が。


 優しさだろうか。配慮だろうか。

 それとも——記録しているからだろうか。聞かなくても、見ていれば全部わかるから。手帳に書けば、嘘も含めて全てが記録されるから。


 セレナの手帳の中身が見たかった。そこに何が書いてあるのか。ヒカルの嘘の履歴が、一行ずつ並んでいるのだろうか。


「朝食をご用意してあります。お部屋にお持ちしますか?」


「いや。食堂で食う」


 一人になりたくなかった。部屋に戻ったら考えてしまう。なぜ闇の中で目覚めたのか。明日もそうなのか。毎日そうなのか。——この先ずっと。

 食堂に行けば人がいる。人の声がする。話しかけられる。何か新しいことが起きて、「なぜ」を考える暇がなくなる。


 走っている間は考えなくていい。人といる時も考えなくていい。

 一人になった時だけ——考えが追いつく。


 だから一人になれない。




 食堂でパンを食べた。スープを飲んだ。うまかった。

 うまいと感じた。その感覚に、少しだけ安心した。闇の中で過ごした恐怖の残滓が、まだ体の奥に澱のように沈んでいる。だがパンの味は本物だった。小麦の香ばしさ。バターの塩気。「うまい」という判断が体の芯から湧いてきて、恐怖を少しだけ押し退けた。


 食事は嘘をつかない。食べて、うまいと感じる。それだけが確かだった。


 食べ終わった後、窓の外を見た。


 光都の空は高く、青く、どこまでも明るい。永遠の昼。太陽が移動しない。影の角度が変わらない。


 ——だが時間は流れている。


 朝が来る。昼が来る。午後が来る。そして——夕方が来る。


 夕方。


 あの赤い空。EP002の記憶。夕暮れの赤を見た時、胸の奥がざわりと揺れた。理由のわからない不安。何かの記憶が眠っているような——交差点。衝撃。誰かの叫び。

 あれは何だったのか。まだわからない。わからないが——夕暮れの赤は、ヒカルにとって「終わり」の色だった。

 日が暮れる。意識が沈む。目を閉じる。——そして、闇の中で目覚める。


 夕暮れが怖かった。


 今日の残り時間を計算した。光都に戻ったのが8時前。日が暮れるのが17時半頃。あと9時間半。

 9時間半。

 9時間半だけ、光の中にいられる。9時間半だけ、自分でいられる。その後は——闇だ。


 9時間半を、できるだけ長く感じたかった。一秒一秒を味わいたかった。光の中にいる時間を、一瞬も無駄にしたくなかった。


 だが体は正直だった。朝の走行で疲弊している。光都に戻ってからも、体のどこかが重い。昨夜の——昨夜の「誰か」が、この体を酷使した痕跡。右腕に覚えのない打撲痕。闇属性の、暗い色の痣。

 セレナが気づいた。


「ヒカル様、その右腕——」


「朝練で転んだ」


 また嘘が出た。三度目。嘘の数を数えている自分がいた。


 セレナは手帳に何かを書いた。何も言わなかった。




 午後。中庭で剣の素振りをした。


 聖光剣。光属性の刃が手の中で輝く。振り方がわからない。誰にも教わっていない。だが振ってみると——体が、微かに覚えている。覚えているはずがないのに。

 昨日初めて剣を握った。その時は何もできなかった。なのに今日は、足の運びが少しだけ滑らかになっている。


 なぜだ。


 ——昨夜、この体を使った「誰か」が、何か別のことをしたからだろうか。体の使い方が変わっている。重心のかけ方。肩甲骨の可動域。何かを「振る」動作に、微妙な馴染みがある。

 剣ではない。この体で、昨夜、誰かが別の何かを振った——あるいは振られた。格闘の痕跡。右腕の打撲は、その証拠だろうか。


 考えるな。考えるな。


 剣を振った。もう一度。もう一度。

 体を動かしていれば、考えなくて済む。走っている時と同じだ。


 だが剣を振るたびに、右腕の痣が痛んだ。覚えのない傷が、覚えのない記憶を突きつけてくる。


 ——お前の体は、お前だけのものじゃない。


 その考えを、必死に振り払った。




 日が傾き始めた。


 光都の空は変わらない。永遠の昼。太陽は動かない。だが体が知っている。夕暮れが近い。17時を過ぎた。あと30分。


 眠気が来た。


 抗えない眠気。昨日もそうだった。夕方になると、体が勝手に沈んでいく。意志の力では止められない。目を開けていようとしても、瞼が鉛のように重くなる。


 部屋に戻った。ベッドに腰を下ろした。

 ——寝たくない。


 眠ったら終わりだ。目を閉じたら、次に目を開けるのは闇の中だ。あの石の床。あの冷たい空気。あの——息もできないほど重い魔力。


 寝たくない。まだ光の中にいたい。もう少しだけ。あと少しだけ——。


 右手を見た。指先が淡い光を放っている。この光がある限り、自分は「ヒカル」だ。光の勇者。この名前を、昨日もらった。たった昨日。まだ二日しか経っていない。


 二日。

 この世界に来て、たった二日で——自分の体が自分のものかどうか、わからなくなっている。


「……まだだ。まだ、起きてる」


 声に出した。自分の声を聞くため。声が聞こえれば、まだ意識がある証拠だから。


 だが声は震えていた。目が重い。体が沈む。光が——薄くなっていく。


 最後に見えたのは、窓の外の空。

 永遠の昼の空は青いはずなのに——その隅が、ほんの少しだけ赤く染まっていた。


 夕暮れの色。終わりの色。


 意識が途切れた。




 予想通りだった。


 レインは光都の王城で目覚め、天井を2秒見つめ、息を吐いた。


 二度目だ。


 昨夜は混乱した。目覚めた場所の分析に7秒、状況把握に15秒かかった。今夜は2秒で完了した。白い天井。木製のベッド。窓から差し込む暖かい光。永遠の昼の結界内。光属性の魔力が空気に満ちている。闇魔力30%。体が重い。息が詰まる。


 ——光都ソレイユ。王城。勇者の部屋。


 全部知っている。昨夜ここを走り抜けた。建物の構造。哨兵の配置。城壁の弱点。全てデータとして記録してある。


 起き上がった。寝巻き。白い。光属性の残留魔力が繊維に染み込んでいる。昼間の「あいつ」の服だ。

 ——着替えるか迷った。0.3秒で却下。時間がない。脱出が先だ。


 窓を開けた。夕暮れの空。昨夜はこの窓から中庭に降りて、北壁の排水路を使った。47分。遅すぎた。


 昨夜のデータを参照した。ボトルネックは三箇所。

 ①中庭の噴水裏で3分ロス。哨兵の巡回が17分周期だったが、想定は15分だった。誤差2分。

 ②城壁東面で5分ロス。足場の石材が一部崩落していた。事前情報にない劣化。

 ③北壁の排水路。狭すぎて肩が引っかかった。この体の肩幅——蒼馬のデータでは41cm。排水路の内径は推定45cm。余裕があるはずだったが、横向きでの通過時に鎧部分が——鎧は着ていない。寝巻きだ。それでも引っかかった。

 結論: 排水路ルートは不採用。


 修正ルートを構築した。

 中庭は西側の死角を使う。哨兵の巡回は17分周期——次の巡回は……今から12分後。猶予は充分。

 城壁は南東の角。古い石積みが残っている。ここなら足場が安定する。

 上部に出たら、見張り塔間を跳躍して越える。闇魔力30%でも影に溶ける程度の隠密は可能——完全不可視は無理だが、視認性を70%低下させられる。夜間。人間の視力は暗所で大幅に低下する。充分だ。


 立ち上がった。


 ——一つだけ、不要なことを考えた。


 昼間の「あいつ」。この部屋で、何をしていた。ベッドの皺の形。枕の位置。机の上に置かれた剣——聖光剣。光属性の残留魔力が染み込んだ白い刃。触れたら手が焼ける。

 部屋の隅に水差しがある。水面が揺れている。最近注がれた証拠。誰かが——昼間の「あいつ」のために水を用意した。侍女か、世話係か。名前は知らない。


 ……くだらない。分析すべきはこの部屋ではなく、脱出ルートだ。


 窓から中庭に降りた。




 28分。


 城壁を越え、北壁の見張り塔を跳び越え、外壁をよじ登って城門を回避した。修正ルートは想定通り機能した。哨兵には一度も見つからなかった。

 昨夜の47分から19分短縮。改善率40%。


 だが数字を見ても、達成感はなかった。


 城壁の外に出た。南へ走る。

 影走——闇の魔力で体を強化し、影に溶けるようにして駆ける技術。だが光都の結界の余波がまだ体を圧している。出力三割。時速十数キロ。夜城まで40キロ。この速度では三時間以上かかる。

 歯を食いしばった。走るしかない。


 光都の結界を抜けると、空気が変わった。光の魔力が薄れ、闇の魔力が少しずつ濃くなる。黄昏帯。足の運びが軽くなる。五割。六割。時速二十キロ。二十五キロ。体が喜んでいる。自分の力が戻ってくる感覚。

 黄昏帯を抜けた。夜の領域。出力が一気に跳ね上がる。時速三十五キロ。四十キロ近い。影に溶けるように地面を蹴った。


 走りながら考えた。


 昨夜は「分析」で頭がいっぱいだった。この体の仕組み。昼夜の切替。魔力の変動。脱出ルートの最適化。全てをデータとして処理した。恐怖を感じる暇がなかった——いや、恐怖を感じないために分析していた。


 今夜は違った。


 脱出は成功した。ルートは最適化された。データは充分に揃っている。分析する対象が減った分だけ——考えが、別の方向に向かった。


 これが、毎日続くのか。


 毎晩、光都の王城で目覚める。毎晩、28分で脱出する。毎晩、黄昏帯を走って夜城に帰る。

 明日も。明後日も。来週も。来月も。


 繰り返し。


 蒼馬の記憶が囁いた。大学の教養課程。社会学の講義。——日常とは、繰り返しによって構成される。繰り返しが安定を生み、安定が安心を生み、安心が惰性を生む。

 蒼馬は日常を持っていた。朝起きて、大学に行って、講義を受けて、図書館で勉強して、安い紅茶を飲んで、夜は部屋でゲームをして眠る。その繰り返しの中に、蒼馬の人生があった。

 あの日——交差点で、トラックが来るまで。


 レインは舌打ちした。


 蒼馬の記憶は不要だ。今必要なのは「この状況をどう処理するか」の判断であって、死んだ男の大学生活の追憶ではない。


 だが——考えてしまう。


 蒼馬の日常は「繰り返し」だった。レインのこれも「繰り返し」になるのだろうか。毎晩の脱出。毎晩の疾走。毎晩の帰還。それが日常になった時——レインは何になる。

 効率的な脱出者。最適化された逃亡者。パターンを繰り返す機械。


 「日常」を受け入れるということは、この異常を「普通」にするということだ。


 受け入れたくなかった。


 受け入れたら——この状況を「おかしい」と感じる感覚が摩耗する。疑問を持たなくなる。「なぜ同じ体に二つの人格がいるのか」「誰がこの状況を作ったのか」「どうすれば終わらせられるのか」——そういう根本的な問いを、「まあいつものことだ」で片付けるようになる。


 それは思考の死だ。


 蒼馬は理系だった。仮説を立て、検証し、改善する。その循環が蒼馬の思考の核だった。繰り返しを受け入れるのではなく、繰り返しの構造を分析し、改善する——それがレインのやるべきことだ。


 だが。


 今夜の脱出は28分だった。昨夜は47分。改善した。

 明日は? 25分か。20分か。最終的には15分まで縮められるかもしれない。

 ——それで、どうなる。


 脱出時間を何分縮めても、毎晩光都で目覚める事実は変わらない。効率化は手段であって目的ではない。目的は——この状況の原因を突き止め、解決すること。

 だが原因の手がかりは、まだ何もない。


 黄昏帯を抜けた。夜の領域に入った。


 体が軽くなった。闇魔力が120%に回復する。光都で押し潰されていた力が、一気に解放される。肺に入る空気が変わる。冷たく、澄んでいて、闇の粒子が血管を巡る。


 ——この解放感。


 二度目なのに、慣れない。慣れたくない。


 快感を覚えている自分に気づいた。光都の圧迫感からの解放。闇の魔力の充填。自分の力が戻る感覚。昨夜もこれを感じた。今夜はもっとはっきり感じた。

 つまり——体が、この「パターン」を学習し始めている。

 圧迫→脱出→解放。苦しみの後の快感。この循環が繰り返されるたびに、体が「これが普通だ」と覚えていく。


 麻痺が、もう始まっている。




 夜城ノクターン。永遠の夜の結界。


 城門を抜けると、ヴェルデが待っていた。黒い軍服。赤い瞳。左胸に前代魔王の紋章バッジ。


「おかえりなさいませ、レイン様」


 昨夜と同じ挨拶。同じ場所。同じ佇まい。ヴェルデもまた「繰り返し」の一部になっている。


「……散歩だ」


「さようですか」


 ヴェルデは昨夜と同じ返答をした。表情は変わらない。だが——右の角のヒビを、指先で撫でた。昨夜はこの仕草をしなかった。


 レインはそれを見逃さなかった。ヴェルデの癖。角のヒビを撫でるのは——歴代魔王の知識によれば——動揺している時。

 昨夜は動揺していなかった。今夜は動揺している。


 何に?


 「散歩」を二晩連続で使ったことだ。一度なら偶然。二度は——パターン。300年仕えてきた側近は、パターンを見逃さない。


「ヴェルデ」


「はい」


「明日も遅くなる」


 ヴェルデの指が止まった。角のヒビの上で。


「……かしこまりました」


 それだけだった。問いただすことはしなかった。——だが問いただしたい目をしていた。赤い瞳の奥に、300年分の忠誠と疑念が同居していた。


 レインは背を向けて歩き出した。


 明日も遅くなる。明後日も。来週も。

 「散歩」という嘘がいつまで持つか。持たせる必要があるのか。——いや、今はそれよりも先に考えることがある。




 玉座の間。


 一人になった。闇の中、借り物の玉座に腰を下ろした。冷たい石の肘掛け。高い天井。骨のようなアーチ。壁の燭台が紫の炎で揺れている。


 昨夜もここに座った。今夜も座っている。


 記録をつけた。脳内で。


 Day 1。覚醒位置: 光都王城、勇者の部屋。覚醒時刻: 推定18:00。脱出所要時間: 28分(前日比-19分)。走行時間: 約2時間。帰還時刻: 推定20:30。特記事項——


 特記事項。


 昨夜の特記事項は大量だった。全てが初めてだったから。今夜の特記事項は少ない。ほぼ全てが「昨夜と同じ」だったから。


 繰り返しは、情報量を減らす。初めての夜は全てがデータだった。二度目の夜は、差分だけがデータになる。三度目の夜は、差分すら減る。やがて——記録することがなくなる日が来る。


 その日が来た時、レインは何をする。


 脱出ルートを走り、夜城に帰り、玉座に座り、記録することのない記録をつけ——朝になり、光都で目覚め、また脱出する。永遠に。


 ——いや。永遠ではない。


 この体には寿命がある。そして——レインの分析によれば、この体には「もう一人」がいる。昼間、この体を使っている「誰か」。まだ確信ではない。仮説だ。だが仮説の確度は昨夜の60%から、今夜は78%に上がった。


 証拠。

 右腕の打撲痕——昨日、レインはどこにもぶつけていない。だが今夜目覚めた時、右腕に闇属性の打撲がなかった代わりに、右手に聖光剣の柄の圧痕があった。剣を握った跡。昼間、「あいつ」は剣を握っている。

 左手の剣ダコ——これは昨夜から。光属性の残留魔力が微かに光っている。

 筋肉の疲労パターン——大腿四頭筋と三角筋に軽度の疲労。走行と剣の素振りに一致する。


 昼間の「あいつ」は、走って、剣を振っている。勇者として。


 ……勇者。


 レインは目を閉じた。


 歴代魔王の記憶がある。歴代の勇者と戦い、殺し、殺されてきた記憶。勇者とは「光が選んだ戦士」であり、魔王にとっての天敵だ。

 その勇者が、自分と同じ体にいる——可能性がある。


 まだ仮説だ。確証が欲しい。直接的なコミュニケーション手段が欲しい。


 だが——


 今日はまだいい。今日はまだ、脱出ルートの最適化という「やるべきこと」がある。仮説の検証というタスクがある。分析すべきデータがある。

 問題は——全てが最適化され、仮説が確定し、データが出揃った後だ。

 その後に残るのは「繰り返し」だけだ。毎晩の脱出。毎晩の帰還。毎晩の——日常。


 日常を、受け入れるのか。


 レインは目を開けた。玉座の肘掛けを握った。冷たい石の感触。


 受け入れない。まだ、受け入れない。


 だがレインは知っていた。蒼馬の記憶で。


 人間は——どんな異常にも、いずれ慣れる。

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