第3話: 闇の中で目を開けた夜
最初の記憶は、闇だった。
——違う。
最初の記憶は、夕焼けだった。
交差点。信号が変わる直前。左からトラック。イヤホンから流れていた曲の——タイトルが思い出せない。思い出せないのに、メロディだけが頭の中でループしている。
衝撃。視界が回転する。アスファルトの匂い。誰かの叫び声。そして——夕焼けの色が、瞼の裏に焼きついて——
……何の話だ。
これは俺の記憶ではない。
——では、誰の?
答えは知っていた。知っているのに認めたくなかった。他人の死の記憶を「最初の記憶」として持っている——その意味を考えると、頭の芯が冷たくなる。
レインは目を開けた。
天井が高い。金の装飾。絹の天蓋。柔らかいベッド。
窓の外は白く光っている。街全体が光っている。夜のはずなのに——いや、これは夜ではないのか?
体の内側で、何かが叫んだ。
——ここは光都ソレイユ。人間の王城。敵地だ。逃げろ。
歴代魔王の記憶。第三代の戦術知識。第七代の脱出経験。第九代の隠密技術。それらが一斉に目覚め、レインの頭の中で情報が渦を巻いた。
知っている。この場所を。この光を。この敵意に満ちた白さを。
——違う。レインは知らない。知っているのは歴代の記憶であって、レイン自身ではない。
奇妙な感覚だった。頭の中に二つの本棚がある。一つは蒼馬の20年分——大学の講義ノート、母の手料理の味、交差点の記憶。もう一つは歴代魔王の数百年分——戦争、統治、裏切り、孤独な玉座。どちらもレインの記憶ではない。だがどちらもレインの頭の中にある。
自分自身の記憶は——今、この瞬間から始まったばかりだ。
だが今は区別している場合ではない。
ベッドから音を立てずに降りた。寝巻きを着ている。自分のものではない。白い生地に金糸の刺繍——人間の、それも高位の者の寝衣。
なぜ自分がこれを着ているのか。なぜここにいるのか。
わからない。だが分析は後だ。まず、脱出する。
窓を開けた。
光核の残光が街を照らしている。夜のはずなのに、白い建物が一つ一つ淡く輝いている。永遠の昼結界。闇の魔力が30%まで圧縮されるのを、肌で感じた。
息苦しい。水中にいるようだ。この街全体が、闇にとっての毒だった。
第九代魔王の隠密術を起動する。体から闇を絞り出し、影に溶ける。——出力が足りない。30%では影が薄い。透けている。だが人間の夜警をやり過ごすには充分だ。
城壁の石組みに足をかけた。哨兵の巡回間隔を歴代の記憶が推測する。35分周期。今は間の時間。
中庭を横切り、噴水の影に身を潜めた。——噴水の水が白い光を反射して、闇の身体に刺さるように痛い。歯を食いしばった。
城門。哨兵二人。松明の光。
第九代の技術で影を二重に重ねる。視界の隅、壁の暗がりを選んで滑るように通過した。
城壁を越えた。
光都の白い街並みが背後に遠ざかる。一歩離れるごとに、胸の圧迫が薄くなる。呼吸が楽になる。
闇の魔力が少しずつ回復していく。40%。50%。
南へ走った。
走りながら、分析した。レインはそうする以外の方法を知らなかった。
身体の情報を整理する。
①右手に微かな剣ダコ。レインは剣を握っていない。②光属性の魔力残留が全身に残っている。特に掌と足の裏。③体の動かし方に違和感がある。歩幅が合わない。重心の置き方が——自分のものではない。
誰かが、この体を使った。昼間に。
仮説。まだ確定ではない。サンプル数が——
……サンプル数? 何だ、その言葉は。
頭の奥で、別の記憶が明滅した。
白い部屋。蛍光灯。スクリーンに映る数字の羅列。教授の声。「データは嘘をつかない。だが解釈は嘘をつく」。
大学の講義室。木の匂い。ペンを走らせる手。左手首のデジタル時計。——父の形見。
蒼馬の記憶だ。
レインはそれを理解していた。自分が「蒼馬」という人間の魂から生まれたことを。歴代魔王の記憶がその経緯を教えてくれた。召喚の衝突。魂の分裂。光と闇。
だが理解と納得は別だ。
他人の人生の記憶で走っている。他人の20年分の笑い声と涙と、最後の夕焼けの色を抱えて、見知らぬ荒野を走っている。
蒼馬の母親の顔を知っている。白い花が好きだった女性。優しい声。夕飯の匂い。——レインの母親ではない。なのに「母さん」という言葉が浮かぶと、胸の奥が痛む。痛む理由がわからない。いや、わかっている。蒼馬の感情がまだ記憶に張り付いているのだ。
蒼馬の記憶が告げる。——交差点。トラック。衝撃。暗転。最後に見たのは夕焼けの色。最後に思ったのは——「母さんの夕飯、何だっけ」。
蒼馬はあそこで死んだ。あの夕焼けの中で終わった。そしてレインがここにいる。蒼馬の記憶を持ったまま。蒼馬ではないまま。
夕焼けを見るたびに、足が止まりそうになるのは——たぶん、そのせいだ。蒼馬の最後の景色。レインにとっての最初の景色。同じ夕焼けが、二人にとって全く違う意味を持っている。
——帰りたい。
不意に、そう思った。どこに? 帰る場所など、ない。蒼馬の家はこの世界にはない。レインの家はまだどこにもない。なのに「帰りたい」と思う。この感情は蒼馬のものか、レインのものか。区別がつかない。
……チッ。邪魔だ。感情は後だ。
黄昏帯に入った。闇の魔力が回復し始める。60%。70%。
走りやすくなった。体が軽い。——だが頭の中は重い。
黄昏帯の南縁。枯れ草が風に揺れる荒野。崩れかけた監視塔の影に——赤い瞳が光った。
「——魔王級の魔力反応。あなたは、誰ですか」
女だった。
黒髪。右側だけ耳の上で短く切り揃えた横顔。軍服。額の角は小ぶりだが、右の角に微かなヒビが入っている。赤い瞳は鋭く、だがその奥に——疲労が見えた。300年分の疲労が。
レインは歴代魔王の記憶を検索した。一致する顔はない。だが「参謀」「筆頭」「ノクス」という断片が浮かぶ。前代魔王の側近。
「……レインだ」
名前は自然に出た。蒼馬でも、歴代魔王の名でもない。自分の名前。——この世界で初めて、自分自身のものだと思えたもの。
「新たなる魔王だ」
女が跪いた。
剣を地面に置き、頭を垂れた。声を——震えさせなかった。震えさせないことに全力を注いでいるのが見えた。こちらを見上げる赤い瞳に、複雑な色が渦巻いている。期待。落胆。検分。祈り。
「ヴェルデ・ノクス。前代魔王に仕えし参謀です」
一拍。長い一拍だった。
その間にヴェルデの瞳が揺れた。レインの顔を見て、何かを探して、見つからなくて——それでも目を逸らさなかった。
「……お仕えいたします」
声は震えなかった。だがレインには見えた。震えさせないために、どれほどの力を喉に込めているか。この女は「お仕えいたします」を言い慣れている。300年間言い続けてきた言葉だ。だが今、その同じ言葉を別の相手に向けることが——どれほど痛いのか。
左胸の紋章バッジが月光に光った。それが前代魔王のものだとレインが気づくのは、もう少し後のことだ。
だがこの時、一つだけわかったことがある。
この女は——レインに仕えるのではない。レインの中に前代の影を探しているのだ。
レインはそれを指摘しなかった。
指摘できる立場にない。レイン自身が、借り物で出来ているのだから。蒼馬の記憶を借り、歴代魔王の力を借り、今また前代の側近を借りる。借り物の主従関係。借り物の名乗り。借り物の威厳。
——今は、それでいい。借り物でも、動ける。
夜城ノクターン。
永遠の夜結界の中に足を踏み入れた瞬間、闇の魔力が120%に跳ね上がった。
体が軽い。呼吸が深い。指先まで闇が満ちる。視界が広がる。暗闇の中の全てが見える——石壁の亀裂、柱の節理、空気中を漂う魔力の粒子。ここが自分の場所だと、魂が告げていた。
城は巨大だった。黒い石造り。骨のような柱。禍々しい装飾。
——だがレインの頭の中で、場違いな感想が浮かんだ。
(……インテリアの趣味が悪い)
蒼馬の感想だ。邪魔だ。黙れ。
ヴェルデが前を歩く。振り返らない。だが背中に緊張が張り付いているのが見える。
「レイン様。玉座の間へご案内いたします」
玉座。黒い石で出来た、巨大な椅子。
レインはそこに座った。歴代魔王の記憶が「座り方」を教えてくれた。背筋を伸ばし、右手を肘掛けに置き、顎を引く。威厳。冷徹。支配者の姿勢。
借り物だ。全部。座り方も、視線の角度も、声の低さも。
だが——借り物でも、今はこの椅子に座っている。それだけが事実だ。
「ガルム!」
ヴェルデの声に応じて、巨体が現れた。身長2メートル超。上半身裸。全身に古傷。湾曲した巨大な角。左目に眼帯。
「おう。こいつが新しい魔王か」
跪かない。品定めするように、残った右目だけでレインを見ている。
歴代魔王の記憶が警告する。——この男は強い。前代魔王に左目を潰されてなお仕えた男。忠義ではなく、強さへの渇望で動く。
「模擬戦をしましょう、レイン様」
「ガルム。今は——」
「冗談だ、ヴェルデ」
冗談ではないことは、レインにもわかった。だが今は相手にする余裕がない。体が重い。覚えのない疲労が蓄積している。昼間に——「誰か」がこの体を酷使したのだ。
「……ガルム。模擬戦は明日だ」
レインは言った。歴代魔王の声色を借りて。
「楽しみにしておけ」
ガルムが笑った。犬歯が光った。左目の眼帯を指先で撫でながら——「期待してるぜ」と言い、消えた。
夜城の一室を与えられた。
広い。暗い。窓の外は永遠の夜。星もない闇。
——だがこの闇が心地良い。光都の毒のような白さに比べれば、この暗闇は水のようだ。体が闇を吸い込み、回復していく。
ベッドには座らなかった。代わりに窓際に立ち、外を見た。
黒い城下町。魔族たちの灯り——光ではなく、闇の中で燃える紫と赤の炎。静かだ。だが生きている。人の営みがある。闇の中にも暮らしがあり、笑い声があり、子供の泣き声がある。
光都の白い街を思い出した。あそこにも笑い声があった。どちらの街も、人が生きている。
——だがどちらの街も、レインのものではない。
レインは窓枠に手を置いた。右手の指先を見た。
闇が纏わりついている。自分の闇。光都で30%に圧縮されていた力が、ここでは溢れている。指を動かすだけで闇の粒子が舞う。呼吸するたびに力が満ちる。
ヒカルが光都で「ここが自分の場所だ」と感じたように——レインもまた、この闇に包まれて「ここが自分の場所だ」と感じていた。ただし、レインはその感情を信じなかった。魂が告げている? それは歴代魔王の残滓が反応しているだけだ。自分自身の感覚なのか、借り物の感覚なのか、区別がつかない。
力がある。記憶がある。名前がある。玉座がある。側近がいる。
——だが、自分のものは何一つない。
名前はたった今作った。記憶は蒼馬のものだ。力は歴代魔王の遺産だ。玉座は前代の残した椅子だ。ヴェルデは前代の影を追っている。ガルムは強さしか見ていない。
誰一人、「レイン」を見ていない。存在しないものは見えない。レインという人格は、たった数時間前に生まれたばかりの、中身のない——
……ヒカルと同じだ、と思った。
不意に浮かんだ連想に、レインは眉を顰めた。昼間に体を使っていた「誰か」。あいつも——もし同じように今日生まれたのだとしたら——同じように空っぽなのだろうか。
同じ体の中に、同じように空っぽな存在が二つ。
……くだらない。考えても仕方がない。
全部、借り物だ。
……いや。一つだけ。
レインは首の後ろを掻いた。
——チッ。蒼馬の癖だ。
だが——待て。蒼馬の癖を「嫌だ」と思うのは、蒼馬の感情ではない。蒼馬は自分の癖を嫌がったりしなかった。この舌打ちは、レインのものだ。
借り物の癖に対する、借り物ではない苛立ち。それがレイン自身の——生まれて数時間しか経っていない人格の、最初の「自分だけの感情」かもしれない。
……くだらない。寝る。
ベッドに横になった。闇の中で、意識が沈んでいく。
眠る前に一つだけ考えた。明日の夕暮れ、また光都で目覚めるのだろうか。また脱出して、また南へ走って、またこの部屋に帰ってくるのだろうか。
それは日常になるのだろうか。借り物の日常が。
借り物の玉座で、借り物の人生を始める。最初の夜が——もう、終わろうとしている。
意識が浮上した。
明るい。
レインは飛び起きた。
白い天井。金の装飾。絹の天蓋。柔らかいベッド。窓の外の——白い光。
光都の王城。さっきまで夜城にいた。闇の部屋で眠っていた。
それが——消えた。代わりに、また、この毒のような白さの中にいる。
寝巻きが変わっている。別の白い寝巻き。汗の匂いが——自分のものではない。
心臓が暴れる。だが恐怖ではなかった。恐怖は感情だ。レインは感情より先に分析を走らせた。——それが蒼馬の思考様式なのか、歴代魔王の危機管理なのか、それともレイン自身の性質なのか。わからない。わからないが、動ける。
分析だ。
①昨夜、夜城で眠った。②目覚めたら光都にいる。③衣服が変わっている。④体に光属性の残留魔力。⑤体の疲労パターンが昨夜と異なる——腕の筋肉痛。何かを振り回した痕跡。剣か。
結論——昼間、別の誰かがこの体を使った。
二日連続。偶然ではない。パターンだ。昼に「誰か」が体を使い、夕暮れにレインが覚醒する。おそらく、夜明けには逆が起きている。
つまり——この体は24時間、休みなく動いている。二人で。
レインは窓を開けた。光都の白い街並み。夕暮れが始まっている。闇の魔力が僅かに回復し始めた。
光都の白さが、昨夜ほど毒々しく感じなかった。——慣れたのではない。「また来てしまった」という諦めに近い感覚だ。
脱出しなければ。また南へ。また夜城へ。
窓枠に手をかけた。
右手の甲に、何かが見えた。
光の痕跡。剣ダコではない。もっと細い——何かを握っていた跡。ペン? 指先に薄いインクの汚れ。
「誰か」が、昼間に何かを書いていた。
レインは手の甲を見つめた。3秒。
この手で、「あいつ」も何かを書いた。レインが闇のインクで記録するように、「あいつ」も光のインクで何かを残している。同じ指で。同じ手で。
奇妙な感覚だった。自分の手なのに、自分だけの手ではない。
——昨夜、ベッドで考えたことを思い出した。同じ体の中に、同じように空っぽな存在が二つ。
……いや。今はいい。
脱出ルートを組み始めた。昨夜の経路から冗長な部分を削りながら。城壁の構造的弱点を思い出す。中庭の噴水裏の死角。哨兵の巡回間隔。
効率化だ。これは毎日のことになる。ならば最適化するしかない。
——だが頭の片隅で、一つの問いが消えなかった。
お前は、誰だ。
そして——お前も、同じことを思っているのか。
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