第2話: 光の中で目を開けた日
最初の記憶は、光だった。
白い光が視界を満たしている。地面が背中に固い。風が吹いている。草の匂い。土の匂い。そして——体の内側を巡る、温かくて眩しい何かの脈動。
目を開けた。
空が見えた。高い。どこまでも高い。見たことのない空だ。
——見たことがない? そもそも、空を見たことがあるのか?
わからない。
起き上がった。体が軋む。裸だった。荒野の真ん中に、何も纏わずに立っている。
北に白い街が霞んで見える。南に黒い影が蹲っている。どちらが何なのか、わからない。
自分が何なのかも、わからない。
名前がない。記憶がない。ただ体だけがある。
右手を見た。指先が淡い光を放っていた。
光。温かい。体の奥から湧いてくるもの。怖くはなかった。むしろ——これだけが自分のものだと、体が教えていた。
光を握った。指の間から白い粒子が零れた。きれいだと思った。きれいだという感覚があることに気づいて、少しだけ安心した。
何も知らない。何もわからない。だが「きれいだ」と感じることはできる。
それは不思議な発見だった。記憶がない。名前がない。自分が何者で、どこから来て、なぜここにいるのか、何一つわからない。なのに——「きれいだ」という判断だけは、体の奥底から湧いてきた。
記憶がなくても、感覚はある。世界は美しいと感じる自分がいる。
それだけで——立っていられた。
空っぽだ。だが空っぽの器にも、形はある。
自分がどんな形をした器なのか、まだわからない。でも今、光を「きれいだ」と思った。それが、この器の最初の中身だ。
どれくらい経ったか。
荒野に風が止まった。太陽が高い。肌が焼ける。裸のまま立ち尽くしていたことに、今さら気づいた。
声が聞こえた。
「——魔力反応、確認! 黄昏帯中央! 生体反応あり!」
武装した人間が四人、荒野を駆けてきた。鎧。剣。紋章入りの外套。先頭の男が足を止め、目を見開いた。
「金髪碧眼……光の魔力……まさか」
膝をついた。四人全員が。
「勇者様——でございますか」
勇者。
その言葉が、空っぽな頭の中で反響した。知らない言葉のはずなのに——体の奥が、ざわりと応えた。何かが目覚めようとしている。使命感。義務感。戦わなければならない——何と? 誰のために?
わからない。わからないのに、膝が勝手に力を込めた。立て、と。
「……俺は」
声が出た。自分の声を聞くのも、これが初めてだった。低くもなく高くもない。誰の声でもない——いや、自分の声だ。たぶん。
声が出るということは、舌がある。喉がある。言葉を知っている。記憶はないのに言語は残っている。不思議だった。自分という存在の輪郭が、一つずつ、ぼんやりと見えてくる。
「俺は……誰だ」
四人が顔を見合わせた。ヒカルの問いに、答えられる者はいなかった。当然だ。自分すら知らないことを、他人が知っているはずがない。
先頭の男が立ち上がり、外套を脱いで差し出した。
「お名前は王がお付けになります。まずはこれを——」
外套を受け取った。肌に触れる布の感覚。温かい。風を遮る。
こんな些細なことが嬉しいのは、自分が何も持っていないからだ。何も持っていないから、与えられるもの全てが宝物になる。布一枚の重みが、世界の重みだった。
光都ソレイユ。
城壁を越えた瞬間、光が体を包んだ。
温かい。心地良い。体の中を流れる何かが、喜んでいるように脈打った。肌が光を吸い込んでいる。息を吸うたびに力が湧く。ここが自分の場所だと——体が、そう告げていた。
街は白い石造りだった。大通り。噴水。花壇。行き交う人々。みんなこちらを指さしている。
「勇者様だ」「ついに召喚が」「お姿が眩しい」
斥候隊が用意した外套を羽織っているが、金髪がはみ出している。風が吹くたびに光の粒子が散る。隠せない光。
見られている。大勢に。
嫌ではなかった。見られるということは、自分がここに存在している証拠だから。記憶がない。名前がない。でも、こうして誰かの目に映っている——それだけで、消えてしまいそうな自分が、この世界に繋ぎとめられている気がした。
——だが同時に、胸の奥で何かが軋んだ。
見られているのは「勇者」であって、「自分」ではない。
自分は、まだ何者でもないのに。彼らが見ている「勇者」は、何百年も前から語り継がれた伝説の存在だ。自分はたった今生まれたばかりの、中身のない器にすぎない。
歓声が、少しだけ痛かった。
王城。大きな扉が開く。赤い絨毯。高い天井。壁に並ぶ肖像画。
そして、玉座。
痩せた長身の男が立ち上がった。銀灰色の髪。額に薄いサークレット。微笑んでいる。穏やかな笑顔——だが目が笑っていないことに、ヒカルは気づかなかった。この時は、まだ。
「よく来た、勇者殿。余はオーギュスト三世。この光都の王だ」
王。その言葉も知らないはずなのに、体が勝手に膝をつこうとした。
「長い旅であっただろう。疲れを癒すがよい。——だがまず、名を」
王が一歩、近づいた。
「そなたに名を与えよう」
細い指がヒカルの額に触れた。冷たかった。
「——ヒカル。光の勇者、ヒカル」
ヒカル。
音が体に染み込んでいく。二文字。たった二文字の音が、空っぽだった器の底に落ちて、波紋を広げた。
名前だ。自分の名前。この世界に来て、初めて「自分のもの」になった何か。
記憶がなくても、名前があれば存在できる。
誰かに呼ばれれば振り返る理由ができる。自分を指す言葉ができる。「あなた」でも「勇者」でもなく——「ヒカル」。それが自分だ。
「……ヒカル」
自分で口にしてみた。舌に馴染む。嫌じゃない。
嫌じゃない——それが「嬉しい」に最も近い感情だと、この時のヒカルにはまだわからなかった。感情に名前をつけることもまた、これから少しずつ覚えていくことの一つだった。
「世話係を付けよう。セレナ」
王の背後から、一人の女性が進み出た。
銀髪。紫の瞳。白いローブの裾と袖口に濃紺の刺繍。左目の下に小さな泣きぼくろ。胸に手帳を抱えている。
「セレナ・リーヴルと申します。ヒカル様のお世話をさせていただきます」
丁寧な声。冷静な目。だがその目が——ヒカルの全身を走査するように動いたことを、ヒカルは見逃さなかった。頭のてっぺんから足先まで。髪の色。目の色。体格。姿勢。指先の光の残滓。全てを読み取ろうとする目。
この人は、自分を見ている。
「見て」いるだけじゃない。「読んで」いる。
それが少しだけ怖くて、少しだけ——安心した。
見てくれる人がいる。読まれているということは、自分が「読むに値する何か」だということだから。
王はヒカルを「勇者」として見ている。街の人々はヒカルを「希望」として見ている。だがこの女は——セレナだけは、ヒカルを「一個の対象」として見ている。善も悪も期待もなく、ただ正確に。
それが嬉しい理由を、ヒカルはうまく言葉にできなかった。ただ、嘘をつかれていない感覚だけがあった。この人の前では、空っぽな自分を隠さなくていい。空っぽだと知った上で、それでも記録してくれる。
「セレナは王宮書記官だ。聡い女だ。何でも頼ると良い」
王がそう言った時、セレナの目が一瞬だけ動いた。王を見て、すぐにヒカルに戻した。——何か言いたそうだった。言わなかった。
「はい。何なりとお申し付けください」
セレナがペンを取り出し、手帳に何かを書いた。ヒカルにはその手帳の中身が見えなかった。
後に知ることになる。あの手帳には、ヒカルの全てが記録されている。行動。表情。発言。矛盾。
七冊目に入った今も、まだ書き続けている。
王城の一室を与えられた。
ベッド。机。窓の外に光の都市。白い壁。清潔な寝具。
広い。一人で使うには広すぎる部屋だ。だが——広いということが、孤独を教えた。
今日一日、ずっと誰かに囲まれていた。斥候隊。街の群衆。王。セレナ。全員がヒカルを見て、話しかけて、何かを期待していた。
それが全部なくなると——静かだ。自分の呼吸と、心臓の音だけが聞こえる。
一人になって初めて、「自分」の輪郭がぼやけ始めた。誰かに見られている時は存在できた。でも一人になると、本当に自分がいるのかどうか、不安になる。
ベッドに腰を下ろした。柔らかい。体が沈む。
疲労が一気に押し寄せてきた。朝から——いや、「朝」などなかった。目が覚めてからずっと、世界は初めてのことだらけで、頭も体も限界だった。
一日で、名前と、場所と、役割をもらった。昨日まで——昨日という概念すらなかったのに。
窓の外を見た。白い街に夕暮れの赤が差し始めている。
——夕暮れ? 赤い空は初めて見る。朝の空は青かった。今は赤い。一日で空の色が変わるのか。
きれいだと思った。今日二度目の「きれいだ」。
だが、きれいなだけではなかった。赤い空を見ていると、胸の奥で何かが——ざわりと揺れた。理由はわからない。赤い光の中に、何かの記憶が眠っているような。交差点。衝撃。誰かの叫び——。
……何の話だ?
頭の中を掠めた映像は、瞬きの間に消えた。後には言葉にならない不安だけが残った。
目が重い。抗えない。
「ヒカル様、夕食をお持ちしました——」
ドアの向こうでセレナの声がした。返事をしようとした。できなかった。
意識が沈んでいく。温かい寝具。光の街。初めての名前。
今日一日で手に入れたもの——名前と、居場所と、自分を読んでくれる人。
明日は何が「初めて」なのだろう。
その問いを抱えたまま、この世界に来て、最初の夜が来る。
目が覚めた。
暗い。
ヒカルは飛び起きた。
石の床。冷たい空気。窓の外は——闇。完全な闇。星もない。
禍々しい装飾の壁。骨のような柱。空気に漂う、胸を圧迫する重い魔力。
ここはどこだ。
さっきまで自分の部屋にいた。白い壁。柔らかいベッド。光の街。セレナの声。温かい寝具の感触。
それが——全部消えた。代わりに、こんな場所に。
心臓が暴れる。呼吸が浅い。手が震える。
光が反射的に体から溢れた。右手が輝き、暗闇の一部を切り裂く。だが——弱い。さっきまで満ちていた光の力の、三分の一もない。体が重い。空気が重い。この場所そのものが、光を押し潰している。
息ができない。さっきまでの心地良さが嘘のように、空気が胸を圧迫する。ここは自分のいるべき場所ではない——体が、そう叫んでいた。
廊下に足音。
異形の影。角のある、赤い目の——。
走った。
理由はわからない。ここがどこかもわからない。ただ体が叫んでいた——北へ。光のある方へ。
走りながら、一つだけ確かなことがあった。
自分は眠った。目を閉じた。——そして、知らない場所で目を開けた。
その間に、何が起きたのか。
わからない。わからないまま、走った。
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