表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この身体には二人いる——昼は勇者、夜は魔王  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/5

第1話: 黄昏の廃塔

 廃塔の石段に座り、ヒカルは自分の手を見つめていた。


 右手の甲に、文字の痕跡が残っている。黒いインク。闇属性の魔力で書かれた、角張った筆跡。もう読めないほど薄くなっている。それでも指が覚えていた——五日前の朝、この手の甲に浮かんでいた文字を見た時の恐怖を。


 『この体は俺のものだ。出て行け。——R』


 自分の手に、自分ではない誰かの字がある。

 その意味を理解するのに、数秒かかった。理解した後、手が震えた。自分が眠っている間に、この手を誰かが動かした。この指で文字を書き、この目で何かを見て、この足でどこかを歩いた。

 自分の体なのに、自分のものではない時間がある——その事実が、何よりも怖かった。


 震える手で返事を書いた。


 『俺が先にいた。お前こそ出て行け。——H』


 今思えば、馬鹿な返事だ。「先にいた」? 本当にそうなのか? どちらが先で、どちらが後なのか——今でもわからない。


 そこから始まった。手の甲。腕。三日前に買った手帳。五日間で、文字だけの戦争は敵意から情報交換になり、情報交換から——何か別のものが混じり始めた。


 最初は命令と罵倒だけだった。

 それが座標の共有になり、食料の報告になり、互いの傷の治療報告になった。ある朝、左肩の痛みが消えていた。手帳に一行——『治療した。光属性の傷には闇が効く。感謝は不要。合理的判断だ。——R』。

 合理的判断。あいつはいつもそう言う。合理的。論理的。感情とは無関係。——なのに追伸は本文の三倍ある。


 ポケットの手帳を開いた。昨日の書き置きが残っている。箇条書きの報告は二行。追伸は半ページを埋めていた。

 追伸の最後に、こう書いてあった。


 『追伸4: 虹は見たことがある。蒼馬の記憶の中で。綺麗だった。——ここに虹は出るのか? 出たら教えろ。昼間しか見えないものは、お前に頼むしかない。』


 この一文を読んだ時、胸の奥が——きゅっと締まった。

 「R」は、昼を知らない。俺が夜を知らないように。同じ体にいるのに、同じ空を見ることができない。


 「R」。

 俺の中にいる、もう一人。




 空を見上げた。


 西の赤が濃くなっている。もうすぐだ。もうすぐ——あいつの時間が来る。


 昨夜の書き置きが手帳に残っている。


 『明日の夕暮れ、黄昏帯の廃塔に来い。話がある。——R』


 たった一行。いつもは箇条書きと追伸で手帳の半分を埋めてくるくせに。


 話がある——話って、何だ。

 そもそも「話す」とはどういう意味だ。同じ体にいる相手と、どうやって。


 怖い。

 怖いのに——会いたい。


 考えてみれば、おかしな話だ。世界で一番近い相手。同じ体を共有している。心臓の鼓動も、呼吸も、腹の減り具合も、全部同じ。

 なのに一度も会ったことがない。声を聞いたことがない。顔を知らない。手帳の文字だけが、あいつが存在する証拠だ。


 文字だけの相手に、「会いたい」と思っている。

 文字だけしか知らないのに、あいつがどんな顔で書いているか想像できる。追伸を書いている時、たぶん——ちょっと悔しそうな顔をしている。消そうか迷って、3分くらい考えて、結局消さない。そういう奴だ。

 会ったことがないのに、知っている。文字が、全部教えてくれた。


 この十五日間。全てが「初めて」だった。

 初めての朝。初めてのパン。初めての名前。初めての仲間。初めての敵。初めての剣。初めての——「自分ではない誰か」の存在。


 全部が初めてで、全部が怖くて、全部が眩しかった。記憶のない俺にとって、この十五日間が人生の全てだ。たった十五日。だが——その全ての日に、あいつの痕跡があった。朝起きれば手帳に書き置き。体に覚えのない傷。口の中に残る、食べた覚えのないパンの味。


 俺の人生に、最初から「R」がいる。


 そして今日もまた、初めてだ。

 初めて、もう一人の自分と会う。




 風が渡った。乾いた草が揺れる。


 黄昏帯。世界の境界線。北に光都ソレイユの白い輝き。南に夜城ノクターンの黒い影。どちらにも属さない土地の、崩れかけた廃塔。

 この場所だけが、昼でも夜でもない。光にも闇にも染まりきらない、中間の色をした空。


 俺たちに似ている、と思った。

 勇者でもなく魔王でもなく、一つの体の中で宙ぶらりんになっている二人。ここが待ち合わせ場所なのは——たぶん、偶然じゃない。


 西の空が、赤から紫に変わり始めた。光と闇が混じる色。

 もうすぐだ。


 手帳を閉じた。ポケットに戻した。立ち上がった。


 ここに来るまでの十五日間——。


 全ては、あの荒野で始まった。

下にある☆☆☆☆☆をクリックして★★★★★にしてくれたら作者が喜びます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ