第1話: 黄昏の廃塔
廃塔の石段に座り、ヒカルは自分の手を見つめていた。
右手の甲に、文字の痕跡が残っている。黒いインク。闇属性の魔力で書かれた、角張った筆跡。もう読めないほど薄くなっている。それでも指が覚えていた——五日前の朝、この手の甲に浮かんでいた文字を見た時の恐怖を。
『この体は俺のものだ。出て行け。——R』
自分の手に、自分ではない誰かの字がある。
その意味を理解するのに、数秒かかった。理解した後、手が震えた。自分が眠っている間に、この手を誰かが動かした。この指で文字を書き、この目で何かを見て、この足でどこかを歩いた。
自分の体なのに、自分のものではない時間がある——その事実が、何よりも怖かった。
震える手で返事を書いた。
『俺が先にいた。お前こそ出て行け。——H』
今思えば、馬鹿な返事だ。「先にいた」? 本当にそうなのか? どちらが先で、どちらが後なのか——今でもわからない。
そこから始まった。手の甲。腕。三日前に買った手帳。五日間で、文字だけの戦争は敵意から情報交換になり、情報交換から——何か別のものが混じり始めた。
最初は命令と罵倒だけだった。
それが座標の共有になり、食料の報告になり、互いの傷の治療報告になった。ある朝、左肩の痛みが消えていた。手帳に一行——『治療した。光属性の傷には闇が効く。感謝は不要。合理的判断だ。——R』。
合理的判断。あいつはいつもそう言う。合理的。論理的。感情とは無関係。——なのに追伸は本文の三倍ある。
ポケットの手帳を開いた。昨日の書き置きが残っている。箇条書きの報告は二行。追伸は半ページを埋めていた。
追伸の最後に、こう書いてあった。
『追伸4: 虹は見たことがある。蒼馬の記憶の中で。綺麗だった。——ここに虹は出るのか? 出たら教えろ。昼間しか見えないものは、お前に頼むしかない。』
この一文を読んだ時、胸の奥が——きゅっと締まった。
「R」は、昼を知らない。俺が夜を知らないように。同じ体にいるのに、同じ空を見ることができない。
「R」。
俺の中にいる、もう一人。
空を見上げた。
西の赤が濃くなっている。もうすぐだ。もうすぐ——あいつの時間が来る。
昨夜の書き置きが手帳に残っている。
『明日の夕暮れ、黄昏帯の廃塔に来い。話がある。——R』
たった一行。いつもは箇条書きと追伸で手帳の半分を埋めてくるくせに。
話がある——話って、何だ。
そもそも「話す」とはどういう意味だ。同じ体にいる相手と、どうやって。
怖い。
怖いのに——会いたい。
考えてみれば、おかしな話だ。世界で一番近い相手。同じ体を共有している。心臓の鼓動も、呼吸も、腹の減り具合も、全部同じ。
なのに一度も会ったことがない。声を聞いたことがない。顔を知らない。手帳の文字だけが、あいつが存在する証拠だ。
文字だけの相手に、「会いたい」と思っている。
文字だけしか知らないのに、あいつがどんな顔で書いているか想像できる。追伸を書いている時、たぶん——ちょっと悔しそうな顔をしている。消そうか迷って、3分くらい考えて、結局消さない。そういう奴だ。
会ったことがないのに、知っている。文字が、全部教えてくれた。
この十五日間。全てが「初めて」だった。
初めての朝。初めてのパン。初めての名前。初めての仲間。初めての敵。初めての剣。初めての——「自分ではない誰か」の存在。
全部が初めてで、全部が怖くて、全部が眩しかった。記憶のない俺にとって、この十五日間が人生の全てだ。たった十五日。だが——その全ての日に、あいつの痕跡があった。朝起きれば手帳に書き置き。体に覚えのない傷。口の中に残る、食べた覚えのないパンの味。
俺の人生に、最初から「R」がいる。
そして今日もまた、初めてだ。
初めて、もう一人の自分と会う。
風が渡った。乾いた草が揺れる。
黄昏帯。世界の境界線。北に光都ソレイユの白い輝き。南に夜城ノクターンの黒い影。どちらにも属さない土地の、崩れかけた廃塔。
この場所だけが、昼でも夜でもない。光にも闇にも染まりきらない、中間の色をした空。
俺たちに似ている、と思った。
勇者でもなく魔王でもなく、一つの体の中で宙ぶらりんになっている二人。ここが待ち合わせ場所なのは——たぶん、偶然じゃない。
西の空が、赤から紫に変わり始めた。光と闇が混じる色。
もうすぐだ。
手帳を閉じた。ポケットに戻した。立ち上がった。
ここに来るまでの十五日間——。
全ては、あの荒野で始まった。
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