第9話 深淵との境界
耳鳴りとも、悲鳴ともつかないノイズが、広間全体を満たしていました。
池の黒は渦を巻き、その中心で、ハイネの姿がぼやけていく。
そして、黒い渦が、広間の中心でゆっくりと形を変えていきます。
水でも炎でもない、情報の濁流。
無数の手と顔の輪郭が、泡のように浮かび上がっては溶け、また別の何かに変わる。
その中心に、まだ「ハイネ」という形が辛うじて残っていました。
人の輪郭と、集合意識の塊と、深淵のノイズが、ひとつの像を取り合いながら、それは、ゆっくりとこちらへと振り向きます。
「……ああ、見える。触れられる……」
幾つもの声が、ハイネの口を借りて溢れ出します。
『こわい』『もっと』『足りない』『終わらせて』『続けたい』
言葉になりきらない断片たちが、ざらざらと意識の縁を擦り続ける。
(なるほど。これが、あなたの見出した《《答え》》の形ですか)
私の霊核にも、冷たくて焼けつくようなノイズが、そっと触れました。
視界の隅で、大輝の顔が、一瞬だけフラッシュバックする。
けれど、胸の奥は、以前ほどは揺れませんでした。
――なるほど、私もそこそこ進んでいると。ふふっ……その変化を、自分で確認しているあたり、本当に研究者として手遅れですね、私は。
「白夢さん……!」
隣から、絞り出すような声がしました。
カミルさんです。
顔面は蒼白で、額には汗が浮かび、膝が震えている。
ミレーユさんも、聖印を握りしめながら必死に祈りの言葉を紡いでいましたが、その声はかすかに震えていました。
「こいつは……っ」
ガレスさんが歯を食いしばり、剣の柄を強く握りしめます。
額に浮かんだ血管が、ぎり、と軋んだ。
――そろそろ、ですね。
「――切断用術式、起動」
私は小さく呟き、足元に展開していた魔術式に魔力を流し込みました。
広間の片隅。ガレスさんたちがいる位置を中心に、空間がわずかに歪む。
床に刻んでおいた術式の線が浮かび上がり、直径五メートルほどの円形領域が、世界から薄く切り離されていきました。
空気の密度が変わる。
外界のノイズが、膜一枚隔てた向こう側へと押し出される。
「なっ……!」
ガレスさんが、驚いたようにこちらを振り向こうとした瞬間――
波のように押し寄せたノイズに、膝を折りました。
「ガレスさん!」
ミレーユさんが慌てて支えようとしますが、その彼女自身も、額を押さえてよろめきます。
「……すみません、少しだけ我慢してくださいね」
私が軽く指を鳴らすと、結界の内側に、柔らかな光が降り注ぎました。
防御と、簡易的な治癒。
そして、霊核の波を一定値に保つための、静かな補正。
ノイズに晒されていた意識が、ゆっくりと沈んでいく。
三人の身体から力が抜け、広間の片隅に横たわりました。
――これで、しばらくは大丈夫ですね。
外界から隔絶された小さな空間。
そこにはノイズは届かず、代わりに、私の術式だけが静かに巡っている。
切断用術式――と説明しましたが、あながち嘘ではありません。
外界と切り離す、という意味においては。
ただ、その優先対象が「敵」ではなく「味方」であるというだけの話です。
「さて」
私は結界の縁から一歩、外へ出ました。
膜を抜けた瞬間、再びノイズが押し寄せる。
意識の縁を、細かな砂利で削られているような、不快な感覚。
(ここから先は――私一人、ですね)
池の中央。
黒い液体の上に浮かぶ石壇の上で、ハイネの輪郭が、完全に人であることをやめかけていました。
皮膚は、池と同じ色に濁り、ところどころが液状化している。
その表面からは、無数の手や顔の形が、泡のように浮かんでは溶けていきました。
「……見事ですね、白夢そら」
いくつもの声が重なったような響きが、広間に満ちる。
「仲間だけを安全圏に押し込み、自分はわざわざこちらへ残るとは。教会らしからぬ、実に非合理的な判断だ」
「合理的ですよ」
私は淡々と返しました。
「こうして、直接観測できる対象が、目の前にいるのですから」
次の瞬間、視界が揺れました。
ハイネ――いや、《《それ》》の右腕が、黒い水を飛沫のように散らしながら伸びてくる。
腕、と表現していいのかも怪しい。
液体と影と人の形の中間のようなそれが、空間ごと抉り取る勢いで迫ってきました。
――肩から、胸にかけての攻撃。
正直、避けること自体は難しくありません。
ですが、それはあまりにも――――勿体ない。
鈍い衝撃のあと、遅れて焼けつくような痛みが走る。
視界の端で、自分の身体が、ありえない角度に折れ曲がっているのが見えました。
骨が砕け、肉が裂け、血と黒い液体が混ざり合って床に散る。
「……っ」
肺から空気が漏れ、膝が地面に落ちました。
ノイズが一気に近づく。
意識の内側へと、冷たい指先が滑り込んでくる。
『おそれ……いら……なイ』
『たす……け……』
『深ク、深ク、オチていケ』
『どう……シテ……』
『なにも、かも、捨ててコイ』
――ああ。
これが、深淵に引きずり込まれる感覚ですか。
自我の輪郭が、溶けていく。
「私」と「それ以外」とを分けていた境界線が、ざりざりと削られていく。
視界の隅に、大輝の横顔が浮かびました。
笑っている顔。
泣きそうな顔。
約束を交わした、あの日の顔。
以前であれば、そのどれか一つに、簡単に心を持っていかれていたでしょう。
けれど――。
(……思ったより、揺れませんね)
薄く笑いがこぼれました。
私の感情の振れ幅は、確かに、聖痕研究に身を投じる前よりも狭まっている。
それでも、完全には消えてはいない。
彼の姿は、私を深淵に落とす鎖ではなく――
ぎりぎりのところで、こちら側につなぎ留める、最後の錨として働いてくれている。
「ありがとうございます、ハイネさん。なかなか貴重な体験でした」
これほどの怪我を負ったのは初めてですが、想像していたよりも、身体とは動かないものなのですね。
私は、軋む身体を無理やり立たせました。
口内に溜まった血を吐き捨て、少し息を整える。
そして、既に構築し終えている術式を、静かに起動させた。
――制御系統魔術-復元。
霊核に刻んだ、自身の肉体情報を、参照する。
聖痕を刻まれる前と、刻まれた後の両方。
そこから導き出した「基準値」に、現在の肉体を、強制的に近づけていく。
骨が、逆再生のように組み上がっていく。
裂けた肉が、焼けた皮膚が、繊維ごと繋ぎ合わされていく。
痛みは、ある。
ただ、それさえも、「データ」として、どこか冷静に測っている自分がいました。
「くくっ……」
池の黒が、くぐもった笑い声を立てました。
「自ら傷を負い、なお、それを観測の材料にするとは。やはり、あなたもこちら側の人間だ、白夢そら」
「そうですね。否定はしません」
私は肩を軽く回し、復元具合を確かめました。
「ただ、私はあなたほど、急いではいません。それだけの違いですよ」
再び、黒い腕が伸びてくる。
今度は、空間そのものが歪んだ。
視界が引き裂かれ、上下左右の感覚が一瞬混乱する。
霊核に、直接、ノイズの杭が打ち込まれたかのような衝撃。
――面白い。
空間が歪んでいるのは、魔術的な影響ではないようですね。
ノイズの波の出力が、一段階上がったとみるべきでしょうか。
何はともあれ、不快な感覚に変わりありません。
まるで、皮膚ではなく、《《わたし》》の輪郭が掴まれるような感覚。
ふふっ……気持ち悪い。
(とりあえず、分かったことは――今の負荷が、戻ってこられるかどうかの境界線だということですね)
あと一歩、踏み込めば、戻ってこられない。
そう直感できるだけの、「死」の感覚。
――分かっています。これ以上は、危険です。ですが、もう少し、もう一歩だけ。
自我が薄くなった状態で、霊核の感覚だけを研ぎ澄ませる。
ノイズの密度。
深淵からこちらへ伸びている「線」の太さ。
ハイネの霊核と、集合意識と、深淵そのものの関係性。
――ッ……限界、ですね。
そう判断したところで、私は霊核を軽く捻り、迫っていた黒い腕を弾き飛ばしました。
「ふふっ」
推察通りですね。
伸ばした腕や、池の水など、それらは常に霊核へ干渉しようとしている。
つまり、霊核に触れていると定義できます。
今みたいに、霊核の位相や向きを変化させることで、触れることなく対処する事も可能。
「充分です」
短く呟くと同時に、私は自分の霊核に、今度は逆方向の命令を流し込みました。
「制御系統魔術-復元。霊核波形、第零基準値まで再調整」
自我の輪郭が、はっきりと戻ってくる。
内側に入り込んでいたノイズが、じりじりと押し出されていく。
同時に、私は足元に展開していた別の術式に、魔力を叩き込んでいました。
空間系統魔術――隔絶領域。
私と、池と、その中央にいるハイネの周囲だけを、別の「箱」に押し込める。
直径五メートルにも満たない、小さな閉鎖空間。
先ほど仲間を守るために使った術式を、攻性応用版。
「なっ……!」
黒い液体が、目に見えて暴れ始めました。
壁に刻まれた術式の線が、次々と明滅する。
地脈から上がってくる魔力の流れが、一瞬だけ乱れ――すぐに、私の結界に遮られました。
「あなたの線は、もう外には繋がっていませんよ、ハイネさん」
私は、淡々と言いました。
「この箱の中であれば、好きなだけ暴れてください。観測しやすいように、範囲を狭めておきましたから」
「白夢そら……!」
幾つもの声が、重なり合って唸りを上げる。
ハイネから飛び出た無数の黒い腕が、結界を破ろうと暴れ出す。
空間が軋み、視界が波打つ。
「何故、破れない!?」
「楽しんでいただけて、何よりです」
「黙れ!」
足掻いたところで、無駄ですよ。
あなたの持つ能力を踏まえた上で、構築したのですから。
その腕が持つ、物理的質量、そして重さ、それらは最初の一撃を受けた時に計測済み。加えて、洞窟内という限定空間では、加速できる速度は限られています。
特殊な能力といえば、周囲の霊核へ干渉してくるというものだけ。
暴れまわるハイネを冷めた様子で観察していると、振り回された黒腕が、再び私を強襲した。
――もう受ける必要もないですね。
私は、先程と同じく霊核を捻り、迫りくる黒い腕達を弾き飛ばす。
「なっ!? 貴様……まさか、霊核そのものを意図的に動かして――――」
「流石は元研究職員、お詳しいですね?」
「白夢そら……私が想っていたよりも、君はずっとイカれているようだ」
「誉め言葉として受け取っておきましょう」
――そろそろ、この実験も終わりにしましょうか。
ハイネさん、あなたは研究者としては優秀だったようですが、所詮は元研究員。
あなたとの戦闘データは、これ以上、必要なさそうです。
「教会の落とし子ハイネ。これにて、終幕としましょう」
私は右手を軽く掲げました。
――空間系統合成魔術-領域支配。
「深淵との接続を、すべて切る必要はありません。教会に持ち帰るサンプルとして、ある程度の名残は残しておきたいですからね」
術式発動と同時に、空間の内側に、幾本もの光の糸が走る。
ハイネの胸元へ、池の底へ、集合意識の塊へ。
それらを一本一本、丁寧に撫でるように、私は指先でなぞっていきました。
「霊核接続、一次線――切断。二次線――固定。深淵リンク、主幹――消去。補助線――封印保留」
光の糸が、黒い糸を上書きしていく。
互いに干渉し合い、火花のようなノイズが散った。
『やめろ……ッ』
『まだ、見ていなイ……!』
『おれは、あそこヘ――』
「その続きは、教会の観測室でお願い致します」
私は、最後の一本にそっと触れました。
瞬間。
池の渦が、ぴたりと止まりました。
黒い液体が、ただの粘度の高い水のように、その場に沈む。
そこから立ち上がっていた影も、《何か》も、すべて形を失っていく。
残ったのは――石壇の上に、崩れ落ちた一人の男だけでした。
皮膚はまだところどころ黒ずんでいる。
胸元の刻印は、焼け焦げたようにひび割れていましたが、霊核の灯は、辛うじて残っている。
「……ひどい顔ですね」
私は石壇に近づき、ハイネの呼吸を確認しました。
浅く、弱い。
けれど、まだ生きている。
「今は、これで満足しておくとしましょう」
最低限の生命活動と、深淵接続の名残。
解析用のサンプルとしては、これ以上ない素材と言っていいでしょう。
「白夢さん!」
結界の向こう側から、微かな声がしました。
振り向けば、空間の膜がゆっくりと薄れていくところでした。
ノイズが収まり、壁の術式が静まり返ったことで、保護結界の負担も減ったのでしょう。
ガレスさんが、まだ少しふらつきながらも立ち上がり、こちらへ駆け寄ってきます。
「大丈夫か……!? さっき、何度か――」
「はい。特に問題はありません。少し手荒い実験をしていただいただけですよ」
私は、胸元に残っていた血を、指先で払い落としました。
すでに、傷はひとつも残っていない。
骨も、肉も、外見上は、洞窟に入る前と何ひとつ変わりません。
「ご心配には及びません。私は回復系統の魔術を応用した、復元という魔術を覚えています。なので、肉体に関する異常は、基準値さえ記録しておけば、ある程度までは戻すことが可能ですので」
「……あなたという人は」
ミレーユさんが、呆れと安堵とを混ぜたようなため息を漏らしました。
「そこまでして、自分で体感する必要がありましたか?」
「はい。紙の上の理論だけでは分からないことも、多いですからね」
深淵のノイズが、自我の輪郭をどこまで削るのか。
どのあたりで戻れるのか。
どこから先が、本当に「帰ってこられない」領域なのか。
それを、一度だけでも実感しておく価値は、充分にありました。
「それに――」
私は、石壇の上で眠るハイネを見下ろしました。
「彼の選んだ答えを、きちんと観測しておきたかったのです。私と同じ方向を見ていた人間が、どこまで行って、どこで折れたのか」
ガレスさんが、苦い表情を浮かべました。
「……あれを『同じ』と言うのは、さすがに心外だな」
「そうですか?」
私は、小さく笑いました。
「違いがあるとすれば、きっと、私をこちら側に繋ぎ止めている錨の有無だけですよ」
彼の顔が、ふと脳裏をよぎる。
それを、そっと胸の奥に押し込んでから、私は言いました。
「ともあれ、深淵教団に関する任務は、これで終わりです。あとは、教祖と術式の残骸を教会に持ち帰り、ゆっくり解体していくだけですね」
――深淵の指先に触れた感覚は、まだ、霊核の縁に微かに残っていました。
決して、忘れないでしょう。
忘れてはいけない、とも思います。
それはきっと、私が今後、どこまで深淵に踏み込むのかを測るための――ひとつの目盛りになるのでしょう。




