第8話 深淵の指先
影との応酬は、単調で、だからこそ分かりやすいものでした。
池の縁から立ち上がる影は、一体、二体、三体と数を増やしていく。
ガレスさんが身体を斬り、ミレーユさんが足元の黒い糸を焼き切る。
糸を断たれた影は、糸の張りを失った操り人形のように崩れ落ちていく。
そのたびに、影の通ったあとに滲んでいた、池の液体と同じ黒い水が、池へと引きずり戻されていきます。
途中で、少しだけ試しに「身体だけ」を破壊してみましたが、結果は予想通り。
肉体の形がどれだけ崩れようと、黒い糸さえ繋がっていれば、影は何度でも立ち上がろうとする。
逆に、糸の方を焼き切ったときには、池の表面のざわめきそのものが、わずかに弱まっていきました。
(やはり、本体は池の向こう側……こちらに伸びているのは、集合体の『指先』に過ぎない、ということですね)
どれほど時間が経ったのか、正確な感覚はあまりありません。
十数体ほどの影を捌いた頃には、池の縁は、切り落とされた黒い糸の残骸で覆われていました。
池の表面は、先ほどよりもずっと静かです。
(……指のストックが一時的に尽きた、といったところでしょうか)
それでも、完全に沈黙したわけではない。
濁った液体の向こう側からは、相変わらず、ざわざわとしたノイズが伝わってきます。
「白夢殿」
ガレスさんが、息を整えながら私を見ました。
「ここまでの感触で、『どのくらい』いると見ている?」
「素体としては、数十から百前後でしょうか。ただ、それをどう数えるかの問題です」
「数え方?」
「今ここで斬った影たちも、厳密には『一体』に含めるべきかもしれません。まとまり方次第では、全部まとめてひと塊になった方が、よほど厄介でしょうね」
その未来を、彼ら自身が選ぶかどうかは、まだ分かりませんが。
◇ ◇ ◇
そのときでした。
ぱち、ぱち、と乾いた音が、広間に響きました。
拍手、でした。
「見事な手際ですね」
穏やかな声が、池の向こう側から歩いてきます。
黒い液体の中央。浮島のように突き出した石壇の上に、一人の男が立っていました。
年の頃は、三十代半ばといったところでしょうか。
細身の体に、儀礼服とも法衣ともつかない黒い衣をまとい、顔の上半分を仮面で覆っています。
露出した口元には、妙に整った笑み。
胸元の肌には、他の信徒たちのものよりも深く、複雑に刻まれた刻印が見えました。
教会の聖痕と、教団の術式が、無理やり重ねられたような痕跡。
「あなたが、聖始天教会が誇る《《深淵の研究者》》、白夢そら様でしょうか」
男は、仮面の奥からこちらを見据えたまま、恭しく頭を下げました。
「初めまして。私はハイネ。この愚かな者たちにとっては、教祖と呼ばれている存在です」
教祖――ハイネ。
私は軽く息を吐きました。
「わざわざ、名乗っていただけるとは思いませんでした」
「折角ですからね。あなた方は、いずれこの場の記録を教会に持ち帰るつもりなのでしょう? ならば、私の名前も、正しく残していただきたい」
「自信家なのですね。自分の名前が、後の資料に残ると確信なさっている」
「ええ、勿論。深淵に身を投げた愚者として、あるいは、最初に何かを持ち帰った者として」
ハイネと名乗った男は、楽しそうに肩をすくめました。
「どちらであっても、歴史に残るのであれば、悪くありません」
「……教会の者としては、前者を推させていただこう」
ガレスさんが、低く唸るように言いました。
その肩ごしに、ハイネの胸元の刻印がちらりと見えます。
あの線の重なり方――。
「あなたは、かつて教会側にいらした方ですね」
私が言うと、ハイネの笑みが、ほんのわずかに深まりました。
「やはり見抜かれますか。さすがは聖痕研究所の第一人者だ」
「第一人者かどうかはさておき。あなたの発言から察するに、一度、深淵の縁から『戻ってきた』ことがある――と見て間違いありませんか?」
「ええ、お察しの通りです。ですが、あのときはまだ、器が未熟だったのです」
ハイネは、胸の刻印にそっと手を当てました。
「教会の聖痕術式は、実に美しい。人から不必要な感情などを少しずつ削ぎ落とし、深淵の向こう側へと至るため器として、時間を掛けて作り変えていく……あなた方の目指すダアトへの道筋は、よく出来ている」
「光栄ですね」
「ただ、私にとっては、あまりにも遠回りに思えました」
仮面の奥の視線が、こちらを射抜きます。
「門を整え、鍵を探し、いつか辿り着けるかもしれない《《可能性》》に、人生を賭ける。――それは、それで一つの信仰でしょう」
ハイネは、ゆっくりと両手を広げました。
「ですが、私は待てなかった。だから、もっと直接的な道を選んだのです。ただ、深淵に飛び込み、そこで何を持ち帰れるかを試すだけの、単純な方法を」
「そのために、村人たちを『器』として消費し続けている、と」
私の言葉に、ハイネは肩を竦めました。
「仰りたいことは理解できます。我ながら、倫理観の欠如が目立ちますね」
自嘲混じりの声でした。
「それでも、私は見たいのです。あの《《ノイズの海》》の向こう側にある、何かを」
「教会は、聖痕で器を整え、門と鍵でダアトを目指しています。一方で、あなた方は――霊核そのものから、直接深淵に線を繋ごうとしている」
「ええ。あなたの言う通りです」
ハイネは、池へと視線を落としました。
「彼らの恐怖と痛みは、確かに彼らにとっては苦しみでした。しかし、深淵と繋がりたい者たちにとっては、これ以上ない燃料でもある」
「恐怖や痛みは、人の霊核にとっては負荷です。ですが、考え方を変えれば、その負荷を用いることで霊核を変容させ、深淵までのアクセスポイントとすることは、理論上は可能」
私もまた、池の黒を見つめます。
「強く歪んだ感情ほど、霊核に影響を与えやすい。そして、強い意志がなければ深淵は超えられない。だからこそ、あなた方はそれをひたすら集めている。目的は……深淵を超えるためですね」
「そこまでお見通しとは。流石は、教会が強引にスカウトしただけの事はあります。仰る通りです」
ハイネの声には、一片の迷いもありませんでした。
「私は何度も縁まで行き、追い返された。だから今度は、彼らの願いと共に行く。私一人では届かなかった場所へ」
懐かしむような口調でした。
(……なるほど)
教会の聖痕研究から弾かれた「落とし子」。
自分を切り捨てた研究を、別の形で完遂させようとしている、というわけですか。
やはり、人間の執着は、観測するに値しますね。
◇ ◇ ◇
ハイネの言葉に呼応するように、広間の壁が、じわりと光を帯び始めました。
刻まれた術式の線が、ひとつ、またひとつと浮かび上がる。
それらが、地脈から上がってくる魔力の流れと結びつき、池の黒へと注ぎ込まれていきます。
「……始めるつもりですね」
ミレーユさんが、聖印を握りしめながら呟きました。
池の表面が、ゆっくりと渦を巻き始める。
その渦に合わせて、ノイズが強まっていくのが、霊核を通じて伝わってきました。
耳で聞こえるのではなく、意識の縁を、細かい砂利で削られているような感覚。
「白夢さん……っ」
カミルさんが、思わず耳を塞ぎかけて、それが無意味だと気づいたように、苦い表情を浮かべます。
「大丈夫です。まだ、臨界ではありません」
私は霊核に意識を沈め、ノイズを薄く遮断しました。
「とはいえ、長居はしたくない種類の音ですね」
「今ならまだ、術式を乱せば止められます」
ミレーユさんが、必死に言葉を絞り出しました。
「池を浄化するのは難しいかもしれませんが、少なくとも、これ以上の犠牲者は――」
「教祖をここで終わらせれば、これ以上の被害は出ないはずだ」
ガレスさんも、剣を構えたまま続けます。
「白夢殿。判断を」
二人分の視線が、私に向けられました。
止めるか。
それとも――観測するか。
(……さて)
止めてしまえば、安全な範囲に収まります。
教会としても、村としても、その方が「正しい」選択なのでしょう。
ですが、その瞬間に失われる情報の量を考えると――少し、惜しいですね。
深淵との直接的な接続。
集合意識を燃料に使った深淵への突入。
人間の霊核が、どこまで深淵に耐えうるのか。
教会ですら、まだ手に入れていないデータです。
「……最低限、暴走しないように、『切断用』の術式だけは準備しておきましょう」
私は、ゆっくりと口を開きました。
「そのうえで、どこまで深淵に触れられるのか。観測する価値はあります」
ミレーユさんが、短く息を呑みました。
カミルさんの顔から、血の気が引いていくのが分かります。
ガレスさんだけは、少しだけ目を細めてから、短く頷きました。
「やるからには、確実に戻る。その前提で動くぞ」
「もちろんです」
私は頷き、内心で小さく苦笑しました。
――ハイネさん。実は、私も同じなんです。本当は、倫理観なんてどうでもよくて。ただ、時折、脳裏に過る彼の姿が、私を人として引き留め続けているだけなんです。
◇ ◇ ◇
池の中心で、ハイネが石壇から一歩、前へ進みました。
黒い液体が、その足首にまとわりつく。
それを気にも留めず、彼は胸の刻印の上に右手を置きました。
「さあ、参りましょうか」
仮面の奥で、目が細められます。
「これが、あなた方教会の『落とし子』の、最後の実験です」
刻印が、内側から焼けるように光り始めました。
その光は、やがて全身へと広がり、池の黒と絡み合っていきます。
「白夢そら。これから起きる事、その全てを、その目に焼き付けていくといい」
ハイネの声が、はっきりとこちらを指し示しました。
「あなた方が門を整えている間に、私たちがこじ開けた、もうひとつの裂け目を」
次の瞬間、ハイネの身体が、黒い液体に呑み込まれました。
池の渦が、一段と速さを増す。
壁の術式が、一斉に眩いほどの光を放ち――それが、すぐに、耳鳴りにも似たノイズへと変わっていきました。
「くっ……!」
ガレスさんが、こめかみを押さえながら歯を食いしばります。
ミレーユさんは、聖印に縋るようにして祈りの言葉を重ねていました。
カミルさんは、立っているのがやっとといった様子で、それでも震える手で記録具を離そうとはしません。
(……立派ですね)
少なくとも、「最後まで見届けよう」とする意志の強さは、評価に値します。
池の黒が、渦の中心へと収束していく。
その中央で、何かが形を取り始めていました。
人型とも、塊ともつかない、曖昧なシルエット。
無数の手の形と、顔の輪郭が、泡のように浮かんでは溶け、また別の何かに変わっていく。
そこに、ハイネの声とも、その他大勢の声ともつかない囁きが、幾層にも重なりました。
『たどり着いた……のか……?』
『まだ、足りない』
『怖い、怖い、怖くない』
『痛い、痛くない、もっと』
『見たい、知りたい、終わりたい』
言葉としては成立していない。
それでも、感情だけがずるずるとこちら側へ伸びてくる。
その瞬間――。
私の霊核の縁に、冷たくて、同時に焼けつくようなノイズが、そっと触れました。
視界の隅で、大輝の顔が一瞬だけ、フラッシュバックします。
けれど、胸の奥は、以前ほどは揺れませんでした。
(……ああ、これが)
深淵の縁から、こちら側へ伸ばされる、《《何か》》の指先。
ようやく、こちらにも顔を見せてくれたわけですね。
――深淵教団が求めた答えの形。その一端を、この目で確かめるとしましょう。




