第7話 願いの残滓
洞窟の中の空気は、外よりも冷たいのに、妙な湿り気を含んでいました。
石の壁に触れれば、指先にざらつきと、わずかな粘り気がまとわりつく。
灯した魔術灯の光が、その表面で鈍く反射していました。
「……思ったより、整っていますね」
思わずそんな感想が口をつきました。
私たちが進む通路は、自然洞窟のそれにしては、あまりにも歩きやすい。
傾斜は緩やかに均され、ところどころには簡易的な階段まで刻まれています。
「元々は、自然の洞窟だったのでしょうが……かなり手が入っていますね」
後ろから、ミレーユさんが小声で言いました。
「祠か、古い地下礼拝堂か。いずれにせよ、何かを祈るための場所として使われていた歴史があるのでしょう」
私は壁に刻まれた古い紋様を指先でなぞりました。
太陽。雨。穀物。
ごくありふれた、生活に根ざした祈りの印。
その上から、もっと新しい線が、乱雑に書き足されていました。
骨ばった指先で、何度も何度もなぞられたような、歪な線。
「……追加の術式、ですね?」
「はい。祈りを支える『地脈』への接続点を、そのまま転用しています」
霊核に魔力を巡らせ、軽く壁に触れる。
星の魔力回路――地脈から上がってくる、ゆるやかな揺らぎ。
その流れに、別方向から差し込まれるように、細く鋭い線が混じっていました。
「教会は、聖痕で『器』を整え、門と鍵でダアトを目指しています。
一方、こちらは――器を燃やして、直接深淵に線を繋ごうとしているようですね」
「器を、燃やす……?」
カミルさんの声が、わずかに震えました。
「恐怖や痛みといった負の感情は、人の霊核にとっては負荷ですが、深淵と繋がりたい者たちにとっては、ご馳走同然です。……もちろん、深淵そのものに意思があるわけではありません。こうした歪んだ感情ほど、あの《《ノイズの海》》はよく反応してくれる。その反応の仕方が、人から見ると『ご馳走』に群がるように見えてしまう――ただそれだけの話です」
私は淡々と続けます。
「強い感情ほど、深淵への『座標』と『圧力』になる。だから彼らは、痛みと恐怖をひたすら集めているのでしょう。自分たちごと、深淵に叩きつけるために」
「それを救済と呼ぶのは、やはり歪んでいますね」
ミレーユさんの声には、静かな怒りが滲んでいました。
「深淵に飛び込んで、そこから生還することが目的なのだとすれば――手段としては、一理ある発想ですが」
「一理ある、で済ませていい話でもないだろう」
先頭を行くガレスさんが、少しだけ振り返りました。
「器は、人間だ」
「もちろんです。ただ、彼らの価値基準では、まず自分が『深淵から何かを持ち帰る』ことが優先されているのでしょう」
犠牲は、必要経費。
そう考える人間は、この教会にも少なからずいました。
それが、ただ別の方向に転んだだけの話です。
◇ ◇ ◇
しばらく進むと、通路の片側が広く削られた、小部屋のような空間に出ました。
中央には石造りの台。
その周囲に、円を描くように並ぶ数本の柱。
柱の一本一本には、縄の擦れた跡がくっきり残っていました。
「……ここで、誰かを拘束していたのですね」
ミレーユさんが、眉をひそめます。
床には、複数の魔術陣が重ね書きされていました。
神聖術の術式に、死霊術の術式を書き加えたであろう混合陣。
そして、見慣れた聖痕の節を雑に切り貼りしたような線。
それぞれが、地脈から上がる魔力の流れに接続され、一点へと集束していました。
私は、その終点にそっと指先を置きます。
「ここが、『抜き取ったもの』の通り道……いえ、圧縮装置でしょうか」
「圧縮?」
「恐怖と痛みは、ばらばらの状態では扱いづらい。だから、こうして地脈の上で潰して、ひとつの塊にしているのでしょう」
霊核に意識を沈めると、皮膚の内側をざわざわと蠢くような感覚が走りました。
怯え。絶望。痛み。
あらゆる負の感情が、濃度を高められ、ひとつの方向へ押し流されている。
「……やはり、気持ち悪いですね」
自覚があるだけ、まだマシでしょうか。
「白夢さん?」
「いえ。ここは後ほど、きちんと解析しましょう。今は先に進んでしまった方が効率的です」
私は指先を離し、小部屋全体を一瞥しました。
縄。血痕。擦り切れた石。
そこに横たわっていたであろう人々の姿は、もうありません。
恐怖と痛みだけを削り取られたのか。
あるいは、最後まで燃料として使い切られたのか。
どちらにせよ、ろくでもない未来ばかりですね。
◇ ◇ ◇
小部屋を後にし、さらに奥へ進みます。
通路の天井は、徐々に低くなり、空気は重く、濃く、粘度を増していく。
灯りに照らされた魔術陣の線が、壁や床のあちこちからこちらを覗いているようでした。
「……なにか、聞こえませんか?」
不意に、カミルさんが足を止めました。
「聞こえる?」
「声、のような……でも、はっきりとは……」
私は耳ではなく、霊核の方に意識を向けます。
人の声とも、魔物の咆哮ともつかない、粒の細かいノイズ。
個々の言葉としては聞き取れないのに、感情だけがざりざりと擦り寄ってくる。
(例えるなら、集合意識の欠片――といったところでしょうか)
祈りの場で感じた線が、ここでは太く束ねられ、洞窟の奥へと流れ込んでいる。
恐怖と痛み、その持ち主たちの意識の名残が、微弱な反響を生んでいるのでしょう。
やがて、通路がふいに開けました。
広間です。
天井は高く、中央部は一段低くなっており、そこに黒ずんだ液体がたまった浅い池が広がっていました。
「……水、でしょうか?」
「水と、血と、魔力と……いろいろ混ざっているようですね」
池の中央には、小さな石壇が浮島のように突き出していました。
周囲の壁一面には、無数の術式が刻まれており、その一部は今もわずかに光を帯びています。
そして――。
「白夢さん」
ミレーユさんが、小さく息を呑みました。
「見えますか……?」
池の表面。
濁った液体の下で、何かがゆっくりと蠢いています。
手の形。
顔の輪郭。
泡のように浮かび上がっては、すぐに溶け、また別の何かが形をとる。
人の意識が、身体を失ってなお、絡まり合っている。
「……なるほど。これが、あなた方の言う『救済』の一端ですか」
胸の奥が、ほんの少しだけ、冷えた気がしました。
そこにいるのは、ひとりひとりの名前を失った、「痛み」と「恐怖」と「願い」の集合体。
深淵に投げ込まれる前の《《前処理》》としては、たしかに効率的かもしれません。
「来訪者ヲ……確認……」
耳のすぐそばで、誰かが囁いた気がしました。
反射的に振り返りましたが、背後には、ガレスさんたちがいるだけです。
「白夢さん?」
「いえ。少し、小うるさいだけです」
霊核を軽く揺らし、内側からノイズを遮断します。
――その瞬間。
池の縁から、ぬるりと何かが立ち上がりました。
人間の形をしている。
けれど、皮膚は液体と同じ色に濁り、目の位置には空洞だけがぽっかりと空いている。
その胸元には、例の『粗悪な聖痕もどき』が、焼き印のように刻まれていました。
「……ガレスさん」
「ああ、見えている」
剣が、静かに抜かれる音が響きました。
池から立ち上がる影は、一体、二体、三体と数を増やしていきます。
その足元からは、細い黒い糸のようなものが、池の中へと続いていました。
(本体は、池の向こう側……あるいは、その下、ですか)
今目の前にいるこれは、集合体の指に過ぎない。
ここで、どこまで削り取るべきか。
どこから先を、「本体への挨拶」として残しておくべきか。
私は、ほんの少しだけ考えてから、口を開きました。
「ここから先は、少し忙しくなりそうです。記録の準備は、大丈夫ですか?」
「は、はい!」
カミルさんが、慌ててメモ用紙と魔術記録具を構えました。
――深淵教団。
深淵から何かを持ち帰ろうとした者たちの、途中経過。
では、その先にいる《《何か》》が、どんな答えを提示してくれるのか。
まずは、この道標から、順番に紐解いて、確かめていくとしましょうか。




