呼吸の仕方
翌日、エデンの空は憎らしいほど晴れ渡っていた。
昨夜の豪雨が嘘のように、ドームの天蓋は一点の曇りもない完璧な青色を投影している。
太陽光のスペクトルは「爽快感」を演出する設定に調整され、中庭の木々は濡れた緑をキラキラと輝かせていた。
世界は何事もなかったかのように「正常」に戻っていた。
狂っていたのは昨夜の嵐と、そこにいた二人だけだったかのように。
ミラは重い身体を引きずって廊下を歩いていた。
微熱があった。昨夜、ずぶ濡れのまま長時間過ごしたせいだろう。関節の節々が痛み、頭の芯がぼんやりと霞んでいる。
端末は【体調不良を検知:安静にしてください】としつこく警告を出しているが、ミラはそれを無視した。
行かなければならない。
あの場所へ。
あの灰色の少女に会わなければならない。
何かを話したいわけではなかった。礼を言いたいわけでもない。
ただ、確かめたかった。
昨夜の出来事が、高熱が見せた幻覚ではなかったことを。
「痛くても、重くても、生きていていい」というあの感覚が、夢ではなかったことを彼女の存在によって証明したかった。
いつものように監視カメラの死角を縫い、中庭の裏手へと回る。
植え込みを抜け、錆びついたフェンスの前に立つ。
ミラは息を整え、フェンスの下の綻びをくぐり抜けた。
「⋯⋯あ」
顔を上げた瞬間、ミラの思考が停止した。
そこは知らない場所だった。
いや、位置座標は同じだ。コンクリートの壁も建物の配置も変わっていない。
しかし、そこにあった「空気」が決定的に変質していた。
薄暗い影は消え失せていた。
代わりに工事用の強力なLED投光器が数台設置され、暴力的なまでの光量で隅々まで照らし出している。
影が死滅した白い空間。
鼻をつくのは、あの懐かしい鉄錆やカビの匂いではない。
ツンと鼻腔を刺激する、強烈な化学薬品の臭い――次亜塩素酸ナトリウムだ。徹底的な消毒と漂白の臭い。
乱雑に積み上げられていたパイプや、錆びたドラム缶の山は、跡形もなく消えていた。
床のコンクリートのひび割れさえも、真新しい補修材で埋められ、平滑に均されている。雑草の一本に至るまで引き抜かれ、除草剤が散布された地面は乾いた灰色を晒していた。
綺麗だった。
清潔で、明るくて、安全で、管理されていた。
つまり――このセンターの「表側」と同じ景色になっていた。
ミラは呆然と立ち尽くした。
息が詰まる。
ここは私の避難場所だった。世界で唯一、呼吸が許された「死角」だった。
それが今、システムによって暴かれ、洗浄され、無菌室へと書き換えられてしまった。
空間の中央で、数人の人影が動いていた。
白い防護服に身を包んだ、清掃業者のスタッフたちだ。彼らは手に高圧洗浄機や測定器を持ち、残った汚れがないかを確認している。
あの灰色の作業つなぎを着た少女の姿は、どこにもない。
ミラはよろめきながら、彼らの方へと歩み寄った。
防護服の男がミラに気づいて顔を上げた。ゴーグル越しの目は無機質で事務的だ。
「おや、君。ここは立ち入り禁止だよ」
男は迷い込んだ子猫を追いやるような軽い口調で言った。
「セキュリティホールが見つかってね。今、システムの穴を塞いでいるところなんだ。危ないから戻りなさい」
セキュリティホール――穴。
私たちが大切にしていたこの場所は、彼らにとってはただの「修繕すべき欠陥」でしかなかったのだ。
「あの⋯⋯」
ミラは乾いた唇を開いた。
「あの子は⋯⋯ここにいた、掃除係の子は、どこですか?」
男は怪訝そうに首を傾げ、手元の端末を操作した。
「掃除係? ああ、ここに常駐していたスタッフのことかな」
彼は画面をスクロールし、興味なさそうに答えた。
「彼女なら、契約解除(解雇)だよ」
心臓が凍りついた。
「⋯⋯え?」
「作業効率が著しく悪かったらしいね。それに許可なく廃棄物を溜め込んでいたことが発覚したと。衛生管理上の重大な違反だ」
男は部屋の隅に積まれた黒いゴミ袋の山を顎でしゃくった。
「勤務時間中にガラクタを並べて遊んでいたらしい。まったく、システムの管理が行き届いていないエリアがあると、こういう『バグ』が発生するから困る」
バグ。
彼は彼女のことをそう呼んだ。
人間ではなく、システムに発生した不具合。処理落ちの原因。
だから修正したのだと。
「彼女は⋯⋯どこへ行ったんですか」
「さあね。登録抹消された後のことは管轄外だ。まあ、次の仕事が見つかるといいね」
男は肩をすくめ、作業に戻ろうとした。
彼の背中からは「非効率な人員」が排除されたことへの微かな安堵と、システムが正常化したことへの満足感が漂っていた。
ミラは黒いゴミ袋の山を見た。
搬出用トラックの荷台に無造作に放り込まれようとしている袋たち。
あの中に入っているものをミラは知っていた。
西日を受けて虹色に輝いていたガラス片。
カサカサと乾いた音を立てる枯れた花。
歪んだゼムクリップ。
彼女が「綺麗だから」と言って集めていた、世界の欠片たち。
それらは今「不衛生な廃棄物」というラベルを貼られ、焼却炉へと運ばれようとしている。
彼女の存在ごと。彼女が生きていた痕跡ごと。
「待って⋯⋯」
ミラは声を上げようとしたが、喉が引きつって音にならなかった。
トラックのエンジンがかかる。
排気ガスが消毒液の臭いと混ざり合う。
彼女はいなくなった。
挨拶もなく。別れの言葉もなく。
ただ、システムの自浄作用によって「整理」されたのだ。
埃が掃除機に吸い込まれるように、あまりにもあっけなく。
ミラはその場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
膝が震える。
喪失感が巨大な穴となって胸に開く。
でも、泣くことはできなかった。
ここで泣けば、私もまた「精神不安定なエラー」として処理される。
彼女のことを覚えているのは、世界で私一人だけだ。
私が消去されたら、彼女がここにいた事実も、昨夜の雨の記憶も、すべてなかったことになってしまう。
トラックが走り去っていく。
防護服のスタッフたちが、片付けを終えて撤収の準備を始める。
残されたのは白く漂白され、LEDに照らされた、何もなくなってしまった空間と、一人の少女だけ。
かつてあんなに心地よかった場所は、今や手術室のように冷たく、ミラの心を拒絶していた。
やがてスタッフたちが去り、辺りが静寂に包まれるとミラは動いた。
漂白された空間の隅に、回収しきれなかったゴミを入れたコンテナが一つだけ残されていたからだ。
ミラはコンテナの縁に手をかけ、中を覗き込んだ。
そこには、かつて彼女が「綺麗だ」と言って慈しんでいたガラクタたちが、泥や塵芥にまみれて詰め込まれていた。
枯れた花は無惨に折れ、ガラス片は泥に汚れて光を失っている。それらはもはや「コレクション」ではなく、ただの汚物だった。
ミラは迷わず、コンテナの中に手を突っ込んだ。
ぬるりとした不快な感触。腐敗臭。
清潔な白い袖が汚れるのも構わず、ミラはゴミの山を掘り返した。
昨夜、豪雨の中で排水溝を掃除していた彼女のように。
なりふり構わず、泥の中にある「何か」を探した。
ない。ない。どこにもない。
彼女の存在証明。彼女がここにいた証。
システムが「無価値」と判断して消去した、あの日々の残滓。
指先が何かに触れた。
硬くて、丸くて、冷たいもの。
ミラはそれを掴み出し、服の裾で泥を拭った。
LEDの暴力的な白い光の下で、それは鈍く輝いた。
ビー玉だった。
彼女が時々、ポケットから取り出しては転がし、光に透かして遊んでいた、安物のガラス玉。
中には気泡が入っていて、形も少し歪んでいる。
完璧な球体ではない、出来損ないのガラス玉。
「⋯⋯あった」
ミラはそれを祈るように両手で包み込んだ。
冷たかった。
まるで彼女の指先のような温度。
その冷たさに触れた瞬間、ミラの脳裏に、ある推論が稲妻のように走った。
なぜ、彼女には端末がなかったのか。
なぜ、あれほど目立つ火傷の跡を放置していたのか。
なぜ、あんなにも「世界」に対して無関心でいられたのか。
(⋯⋯そうか)
彼女は、ただの労働者ではなかったのだ。
彼女はきっと、かつてこのシステムの住民だった。
だけど適合できなかった。治療に失敗し、更生プログラムからもドロップアウトし、市民としてのID(端末)を剥奪された人間。
「人間」としての権利を失い、システムの底辺で、汚れ仕事を請け負うことでしか生きる場所を与えられなかった存在。
それは、いわば「成れの果て」だ。
ミラが最も恐れ、周囲の大人が「ああなってはいけない」と忌避する、人生のバッドエンド。
敗北者。落伍者。エラーコードの掃き溜め。
けれど。
ミラは、昨夜の彼女の姿を思い出した。
彼女は、不幸だっただろうか?
世界を呪い、自分を卑下し、泣いていただろうか?
いいや。
彼女は雨水を美味そうに飲み、傷跡を愛おしげになぞり、ゴミを見て「綺麗だ」と笑った。
誰からも愛されず、システムからも見放され、社会的には死んでいた。
でも彼女の心臓は動き、肺は呼吸し、確かにそこに「生きて」いたのだ。
「⋯⋯なんだ」
ミラの唇から、乾いた笑いが漏れた。
「バッドエンドでも、息はできるんだ」
それは絶望ではなく、天啓のような救いだった。
レールから外れたら即座に死ぬわけじゃない。世界が終わるわけじゃない。
ただ「別の生き方」が始まるだけだ。
誰にも期待されず、何の役にも立たないけれど雨の味を知り、ガラクタを愛でる生き方が。
ミラはビー玉を強く握りしめた。
硬いガラスが掌に食い込み、痛みを生む。
その痛みこそが、彼女から受け継いだ「命の質感」だった。
彼女は世界から追い出されたかもしれない、でも彼女が残した「バグ」は今、ミラのポケットの中に移動した。
ミラは立ち上がった。
もう、この漂白された場所に用はない。
彼女は資材置き場を後にした。
足取りは重かったがふらついてはいなかった。
ポケットの中で、コツン、コツンとビー玉が太腿を叩く。
その微かな重みと痛みが、ミラを支える新たな重心となっていた。
数ヶ月が過ぎた。
季節は巡り、中庭の人工植物も秋の色合いに設定変更されていたが、療養センターの中は相変わらず一定の温度と快適さで満たされていた。
白いカウンセリングルーム。
担当医は以前よりも少し疲れた顔で、ホログラムモニターを見つめていた。
「うーん⋯⋯数値は横ばいだね」
医師は残念そうに眉を下げた。
「悪くはなっていない。パニック発作も起きていない。しかし劇的な回復も見られない。⋯⋯ミラ、君はまだ、ここを出る準備ができていないようだ」
端末が示すグラフは、低空飛行を続けている。
「幸福度」は平均以下。「社会適応度」は停滞中。
両親が提案した転院の話もミラが頑なに拒否したため、保留になったままだ。
ミラは模範的な患者ではなかった。
かといって、手がつけられないほど暴れるわけでもない。ただ、静かに「治らない」まま、ここに留まり続けている。
「何か、悩みがあるなら言ってくれないか? 私たちは君の味方だ」
医師の善意は変わらない。
でも今のミラにとって、それはもう窒息するような圧力ではなかった。
ただの背景音。ガラスの向こう側で誰かが喋っている音。
「⋯⋯いいえ」
ミラは静かに首を振った。
「特にありません。私は大丈夫です」
それは嘘でもあり、真実でもあった。
社会的に見ればちっとも大丈夫じゃない、それでもミラ自身の感覚としては、以前よりずっと「大丈夫」だった。
ミラは、ポケットの中に手を入れた。
指先が、冷たいガラスの球体に触れる。
その硬さと冷たさが、指の神経を通じて脳に伝わる。
――ここに、ある。
意味なんてない。
役にも立たない。
歪んだ気泡が入った、ただのガラクタ。
それは確かにここに存在し、重さを持ち、ミラの指先に触れている。
それだけで、十分だった。
あの掃除係の少女が、自分の傷を「ここにあるだけ」と言ったように。
ミラもまた、自分の苦しみや、治らない現状を「ただここにある状態」として眺めることができるようになっていた。
直さなくていい。
消さなくていい。
ただ、ポケットの中にビー玉があるように、私の中にこの痛みがある。それだけのことだ。
「そうか⋯⋯。焦らずにいこう」
医師は諦めたように微笑み、カルテを消した。
ミラは一礼して部屋を出た。
長い廊下を歩く。
窓の外を見上げるとドームの天蓋には、今日も完璧な青空が投影されていた。
偽ものの空、その向こう側には予測不能な雨を降らせる本物の空があることをミラは知っている。
ミラは足を止め、窓ガラスに額を押し当てた。
水槽の中の魚のように。
自分が幸せになる未来は、想像できない。
立派な大人になって、社会の役に立つ日も、きっと来ないだろう。
私はこれからも、この世界の傷として、バグとして、ひっそりと生きていくのかもしれない。
それでも。
ミラは大きく息を吸い込んだ。
肺が膨らむ。
肋骨が広がる。
酸素が血液に溶け込み、全身を巡っていく。
そして、ゆっくりと吐き出す。
体の中の澱んだ空気が、外へと出て行く。
吸って、吐く。
ただそれだけの繰り返し。
誰の許可もいらない。理由もいらない。
ただ、心臓が動いているから、呼吸をする。
ポケットの中のビー玉を、ぎゅっと握りしめる。
痛みがある。
中身が入っている証拠だ。
ミラは無表情のまま、一つ、深い呼吸をした。
その呼吸音は、以前のようにうるさくはなかった。
ただ静かに、世界の一部として、そこに溶けて消えた。
(完)




