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雨の重さ


 彼女は、屋上の隅にある巨大な円筒形の貯水タンクの陰にしゃがみ込んでいた。

 この暴風雨の中、雨合羽ひとつ着ていない。薄汚れたつなぎは水を吸って黒く変色し、身体に張り付いている。濡れた髪が額にへばりつき、顔を滴る水が顎から絶え間なく落ちている。


 誰が見ても異常な光景だった。

 警報が鳴り響く深夜の屋上に生身の人間がいるはずがない。ましてや、こんな嵐の中に。


 ミラはフェンスにかけた指を凍りつかせたまま、呆然とその姿を見つめた。

 彼女はミラの方を見ていなかった。

 ミラが今まさにフェンスを乗り越え、虚空へ身を投げようとしていることなど彼女の関心の範疇にはないようだった。


 彼女は地面を見ていた。

 両手を泥水の中に突っ込み、何かを必死に掻き出している。


(⋯⋯何をしてるの?)


 死の淵に立っていたはずのミラの思考が、あまりの不可解さに停止する。

 轟音のような雨音に混じって、ボコッ、ボコッという低い音が聞こえた。

 排水溝だ。

 屋上の隅に設置された排水口が飛来した枯れ葉やゴミで詰まり、雨水を飲み込めずに逆流させていたのだ。床面にはくるぶしまで浸かるほどの水が溜まり、小さな湖のようになっている。


 彼女はその詰まりを取り除いていた。

 素手で。

 ヘドロのように絡みついた腐葉土や正体不明のゴミの塊を泥だらけの指で掴み出し、横へと放り投げている。


 汚い。冷たい。

 対して彼女の動作には躊躇いがなかった。まるで散らかった積み木を片付ける子供のように、淡々と機械的に手を動かし続けている。


 やがて、ゴゴゴゴゴ⋯⋯という音がして、黒い水が渦を巻いて排水溝へと吸い込まれていった。

 水位が下がっていく。

 あふれそうになっていた水が、あるべき場所へと流れていく。


 彼女はふぅ、と息を吐き、泥だらけの手を雨にかざして洗った。

 そして、信じられない行動に出た。


 彼女は天を仰ぎ、両手のひらを器にして差し出した。

 叩きつけるような雨が、彼女の掌に溜まっていく。

 数秒後、彼女はその手に口を近づけ――啜った。


 ごくり。

 喉が動くのが見えた。

 彼女は雨水を飲んでいた。

 浄水されたウォーターサーバーの水ではない。大気中の塵を含んだ、生ぬるく、あるいは冷たい、ただの雨水を。

 動物が水たまりの水を飲むように。

 植物が根から水分を吸い上げるように。

 そこには「衛生」や「常識」といった概念は存在せず、ただ渇きを潤すという「生存」だけがあった。


 ミラは戦慄した。

 自分は今、この完璧な管理社会から「ログアウト(死)」しようとしている。

 なのに、目の前にいるこの少女は最も原始的な方法で「ログイン(生)」し続けている。

 嵐の中で、泥にまみれ、雨水を啜ってまで。


 なぜ。

 どうして。

 ミラの胸の中で得体の知れない感情が爆発した。

 それは恐怖であり、羨望であり、そして激しい怒りでもあった。


 私の端末は、こんなにもけたたましく警報を鳴らしているのに。

 世界中が私を「異常だ」と判定し、治そうと躍起になっているのに。

 どうして、この人だけは。

 同じ空間にいるのに、私を見ようともしないのか。


「ねえ!!」


 ミラは叫んでいた。

 喉が裂けそうなほどの絶叫だった。

 雷鳴よりも鋭く、雨音を切り裂いて響く声。


「ねえ、どうして止めないの!!」


 ミラはフェンスから手を離し、屋上の床に降り立った。

 足元の水たまりがバシャリと跳ねる。

 彼女に向かって、ふらふらと歩き出す。


「見えてるんでしょう!? 私がそこにいたこと、知ってるんでしょう!? どうして無視するのよ!」

「世界中が私を治そうとしているのに! パパもママも先生も、みんな私を見ているのに! どうしてあなたは何も言わないの!」


 叫びながら、涙が溢れて止まらなかった。

 雨と混ざり合い、顔中がぐしゃぐしゃになる。


「私が死んでも、平気なの!? ⋯⋯私が消えても、あなたはそうやって、排水溝の掃除を続けるの!?」


 問いかけは、悲痛な懇願だった。

 止めてほしいわけではなかった。

 助けてほしいわけでもなかった。

 ただ、この圧倒的な「生」の塊である彼女に、私の「死」を認識してほしかった。

 私の命の重さをゴミ掃除の手を止める程度の価値があるものとして、証明してほしかった。


 少女が、ゆっくりと顔を向けた。


 濡れた前髪の隙間から、色の薄い瞳がミラを捉える。

 その視線は、ミラの涙に濡れた顔には向かわなかった。

 彼女が見ていたのは、ミラの身体――いや、その全身を覆う「白いワンピース」だった。


 外出用の上等な木綿のワンピース。

 それは今や大量の雨水を吸い込み、本来の数倍の重量を持って、ミラの身体に重くのしかかっていた。

 スカートの裾が、重力に従ってだらりと垂れ下がり、地面の水たまりに浸っている。

 肩の縫い目が、重さに耐えかねて肌に食い込んでいる。


 少女はその垂れ下がった布地をじっと観察し、それからミラの手首で狂ったように点滅する端末を一瞥した。

 そして視線をミラの顔に戻すことなく、ただ口を開いた。


 風の音に消されそうな、けれど不思議と耳に残る、低い声。


「⋯⋯濡れると、重くなるね」


 時が、止まった。


 ミラは立ち尽くした。

 雨粒が顔を打つ感覚さえ、遠のいていく。


 彼女は、何も言わなかった。

 「重いから脱げ」とは言わなかった。

 「そんなに濡れて可哀想に」とも言わなかった。

 「死ぬのはやめろ」とも「生きていればいいことがある」とも言わなかった。


 ただ物理的な事実ファクトだけを口にした。

 布は水を吸う。

 水を吸えば、質量が増す。

 質量が増せば、重力に引かれて重くなる。


 それはこの宇宙のどこにいても変わらない、絶対的な法則だ。

 誰のせいでもない。ミラの心が弱いからでも、努力が足りないからでもない。

 ただ、雨が降ったから。

 ただ、そこにいたから。

 だから、重くなった。それだけのこと。


 カシャン、と。

 ミラの心の中で、何かが外れる音がした。


 ずっと呪われていた。

 「心が重いのは病気だ」という呪い。

 「軽くならなきゃいけない」「明るくならなきゃいけない」「前を向かなきゃいけない」という、正しさの呪い。

 重いことは罪であり、それを克服できない自分は欠陥品なのだと、自分自身を責め続けてきた。


 でも。

 濡れたら、重くなるのだ。

 こんな土砂降りの中にいれば、誰だって重くなるのだ。


 その単純すぎる事実が、どんな精神分析よりも、どんな愛の言葉よりも深く、ミラの芯に届いた。

 許された気がした。

 この重たい身体を。鉛の詰まった喉を。動かない足を。

 重くていいんだ。

 だって、今は雨が降っているんだから。


「⋯⋯うん」


 ミラの口から、力が抜けたような声が漏れた。


「重い」


 膝から力が失われる。

 もう、立っていられなかった。

 重力に逆らって、背筋を伸ばして「正しい人間」のふりをすることに、限界が来ていた。


「すごく⋯⋯重いよ」


 ミラは、その場に崩れ落ちた。

 膝がコンクリートにぶつかる。お尻が冷たい水たまりに落ちる。

 白いワンピースが泥水に染まっていくが、もうどうでもよかった。

 むしろ、地面にへばりつくことで、ようやく地球と一体になれたような気がした。


 少女もまた、ミラの近くの水たまりに、無造作に腰を下ろした。

 あぐらをかくような姿勢で、濡れたコンクリートの上に座り込む。

 彼女はミラを慰めるでもなく、助け起こすでもなく、ただ同じ雨の中に座っていた。


 二人は、豪雨に打たれ続けた。

 端末はまだ【危険! 即時避難を!】と叫び続けているが、その光は雨に滲んで遠い星の瞬きのように頼りなかった。

 

 世界はうるさくて、冷たくて、痛い。

 それが生の実感として伝わりミラは今、初めて本当の「呼吸」をしていると感じていた。

 重たい服を着たまま、重たい身体を引きずったまま、ただ肺を動かすことだけが許される時間。


 嵐の屋上は、奇妙な静寂に包まれていた。

 それは死の静寂ではなく、生が持つ圧倒的な質量の静けさだった。



     * * *



 雨は、世界のすべてを洗い流す勢いで降り続いていた。

 

 ミラの髪を固めていた整髪料も、頬に塗られた健康的な色の化粧も、すべて剥がれ落ちていく。

 後に残ったのは青白く、くまの浮いた、ありのままの十七歳の顔だけだった。

 寒さで歯がカチカチと鳴る。身体の芯まで冷え切っているのに不思議と不快ではなかった。むしろ、自分が熱を持った有機物であることを、寒さが逆説的に証明してくれているようだった。


 隣に座る少女は膝を抱え、ただ雨粒が水たまりに波紋を作るのを眺めていた。

 彼女は何も聞いてこない。


 「大丈夫?」とも「寒くない?」とも、ましてや「なぜ死のうとしたのか」とも尋ねない。

 ただ、隣に質量のある物体として存在してくれている。

 そのことがミラの口を開かせた。


 医師の前では言えなかった言葉。

 両親の前では飲み込んだ言葉。

 自分自身にさえ禁じていた、ドロドロとした本音が、雨水と一緒に喉から溢れ出した。


「⋯⋯本当は」


 雨音に消されそうな、蚊の鳴くような声。

 それでも少女の耳がピクリと動いたのがわかった。


「本当は、死にたくない」


 言ってしまった。

 あんなに決意して、フェンスを登ったのに。

 死ぬことが唯一の救済だと信じて疑わなかったのに。

 身体は、生きたがっていた。心臓は、動き続けたいと叫んでいた。


「⋯⋯ただ、つらいだけ。この重さが、どうしようもなくつらいだけなの」


 少女は、視線を水たまりに向けたまま、短く喉を鳴らした。


「うん」


 肯定でも否定でもない。ただ、音が届いたという合図。

 それが心地よくて、ミラは言葉を継いだ。


「ここには居場所がないの。パパもママも、私を愛してくれているけど⋯⋯彼らが見ているのは『治った私』だけ。今の壊れた私を置いておく場所なんて、あの綺麗な家にはどこにもない」


 涙がまた溢れる。雨と一緒に頬を伝う。


「どこにも居場所がないなら、消えるしかないじゃない。私が消えれば、みんな悲しむかもしれないけど⋯⋯少なくとも、失望され続けるよりはマシだもの」


「うん」


 少女は相槌を打つ。

 「そんなことないよ」という気休めは言わない。

 ミラに居場所がないこと。消えるしかないと思い詰めたこと。その事実を、ただそのまま受け止めている。


 ミラは、泥水に浸かった自分の手を見つめた。

 白くふやけた指先。

 この指で何度も端末を操作し、偽りの「幸福」を入力してきた。


「ねえ」


 ミラはずっと胸の奥で燻っていた、最後の、そして最悪の願望を口にした。


「こんなに苦しくて、つらくて、誰も分かってくれないなら⋯⋯感情なんて、なくなればいいのかな」


 父親が言っていた、最新の治療法。

 脳波を調整し、神経伝達物質を制御する。

 そうすれば、この鉛のような苦しみは消えるのだろうか。

 悲しみも、絶望も、希死念慮も、きれいさっぱり削除されて、いつもニコニコと笑う「正常な娘」になれるのだろうか。


「脳をいじってもらって、何も感じなくしてもらえば⋯⋯私は楽になれるのかな。パパたちも喜んでくれるのかな」


 それは人間であることをやめるという宣言だった。

 痛みを感じない機械になれば、この窒息するような世界でも生きていける。

 そうすれば重さからも解放されるはずだ。


 その時。

 少女が動いた。


 彼女は抱えていた膝を崩し、濡れた袖をまくり上げた。

 そこにあるのはあの醜く、痛々しい火傷の跡だ。

 雨に濡れて、ケロイドの赤黒さが一層鮮やかに浮き上がっている。


 彼女は右手の指先で、その傷跡を愛おしげになぞった。

 冷たい雨水が、傷の溝を伝って流れていく。

 彼女はその感触を確かめるように、じっと自分の腕を見つめ、そして静かに口を開いた。


「⋯⋯痛いのは」


 独り言のような、けれど確かな響きを持つ声。


「中身が、入っているからだよ」


 ミラは息を呑んだ。

 雨音が遠のく。


 中身が入っているから。


 空き缶は軽い。蹴れば乾いた音がして、痛みもなく転がっていくだけだ。

 水の入った水筒は重い。落とせば凹むし、歪む。

 中身が詰まっているものは重力の影響を強く受ける。

 生きているものは、神経が通っているから触れれば痛い。


 もし、脳をいじって痛みを感じなくさせたら。

 もし、心を殺して軽くなったら。

 それは「救われた」ことになるのだろうか。

 それとも――中身をくり抜かれた、ただのガラクタになるということなのだろうか。


 少女は傷から指を離し、再び空を見上げた。

 雨を全身で受け止めながら。


「⋯⋯空っぽなら、痛くない。でも、風で飛んでいっちゃう」


 彼女の言葉は、単純な物理法則だった。

 重さがなければ、ここには留まれない。

 痛みがなければ、自分がどこにいるのかも分からない。


 ミラは、自分の胸に手を当てた。

 ドクン、ドクン、と心臓が脈打っている。

 痛い。苦しい。重い。

 鉛が詰まっていると思っていたその感覚。

 それは、異物ではなかったのかもしれない。

 それが「私」という中身の質量そのものだったとしたら。


「⋯⋯そっか」


 ミラは震える声で呟いた。


「痛くて、いいんだ」


 この苦しみは、私が壊れている証拠じゃなかった。

 私が空っぽじゃない証拠だった。

 重くて動けないのは、それだけたくさんのものが、私の中に詰まっているからだ。


 端末が最後の力を振り絞るように【バッテリー残量低下】と警告音を鳴らした。

 そして、プツンと画面が消えた。

 黒い沈黙。

 システムが眠りについた後も、二人の心臓は動き続けていた。


 ミラは、隣の少女を見た。

 彼女は相変わらず、無表情で雨に打たれている。

 名前も知らない。何者かも知らない。

 でも彼女は今、世界中の誰よりも「正しいこと」を教えてくれた。


 生きる意味なんていらない。

 誰かの役に立たなくてもいい。

 ただ、重たい身体を引きずって、痛みを抱えたまま、ここに座っていること。

 それだけで中身が入っている証明になるのだと。


 ミラは泥だらけの手で、顔を覆った。

 指の隙間から温かい涙が溢れ出した。それは雨水とは違う、体温を持った雫だった。


 雨はまだ降り止まない。

 二人はずぶ濡れのまま、ただ重力に身を任せて座り続けていた。

 それは傷だらけの魚たちが、水槽の底で静かにエラを動かしているような、穏やかで、痛切な夜だった。

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