愛という名の圧殺
その日の朝、担当医はいつになく上機嫌だった。
輝くような笑顔で診察室に入ってくるなり、彼はミラの端末に特別なアクセス権限を付与した。
「ミラ、今日は素晴らしいサプライズがあるよ」
医師は、まるで誕生日の子供にプレゼントを渡す父親のような顔をしていた。
「君がプログラムに真面目に取り組んできたご褒美だ。⋯⋯ご両親が、面会に来てくれたんだよ」
ドクン、とミラの心臓が嫌な音を立てた。
胃が急激に収縮し、朝食に食べた栄養ゼリーが食道を逆流しそうになる。
面会。
それはミラが入所してから頑なに拒否し続けてきたイベントだった。
「まだ会える状態じゃない」「家族に心配をかけたくない」と、もっともらしい理由をつけて逃げ続けてきた。
だが、この完璧な管理社会において個人の「会いたくない」という感情は尊重されない。それは病状による一時的な判断力の低下とみなされ、専門家と家族による「愛ある介入」によって修正されるべきエラーとして扱われる。
ミラの左手首が振動した。
【イベント発生:家族との絆】
【予測効果:精神安定(大)・帰属意識の向上】
端末の画面には温かなオレンジ色のアイコンが点滅している。システムは家族との再会がミラを幸福にすると確信しているのだ。
「⋯⋯え」
拒否の言葉が出なかった。
目の前の医師が、あまりにも無邪気に「君は喜ぶはずだ」と信じ込んでいるからだ。ここで顔を曇らせれば彼の善意を裏切ることになる。
ミラは反射的に頬の筋肉を引き攣らせ、訓練された笑顔を貼り付けた。
「⋯⋯ありがとうございます。嬉しい、です」
「そうだろう、そうだろう。さあ、準備をして。一番いい服に着替えよう」
ミラは看護師たちによって準備室へ連れて行かれた。
普段の簡素なルームウェアではなく、外出用の清潔な白いワンピースに着替えさせられる。髪は丁寧に梳かされ、顔色の悪さを隠すために薄く化粧まで施された。
鏡の中に映っているのは健康で、幸福そうで、どこにでもいる愛らしい少女だった。
中身が空っぽの、精巧な人形。
「行ってらっしゃい。楽しんでね」
看護師に背中を押され、ミラは面会室のドアノブに手をかけた。
金属の冷たさが掌に伝わる。
逃げたい。今すぐに回れ右をして、あの埃っぽい資材置き場へ駆け込みたい。
だって、このドアの向こうには「愛」が待っている。
世界で一番正しくて重たい愛が。
* * *
面会室は、あざといほどに温かな空間だった。
病院特有の無機質さは排除され、一般家庭のリビングを模した内装になっている。照明は柔らかいオレンジ色で、テーブルには花が生けられていた。
ソファには二人の男女が座っていた。
父親と母親だ。
彼らはミラが入ってきた音に気づくと、弾かれたように立ち上がった。
「ああ、ミラ!」
「ミラ⋯⋯!」
二人は駆け寄り、ミラをきつく抱きしめた。
懐かしい匂いがした。実家の洗剤の匂いと父の整髪料、母の香水。
彼らは美しかった。
肌は艶やかで衣服は上質で、腕の端末は健康的な緑色に輝いている。この社会に適応し、幸福を享受している「成功した市民」の姿そのものだった。
そんな彼らが今は涙を流している。
できそこないの娘のために。
「ごめんね、ミラ。⋯⋯ごめんね」
母親が、ミラの背中をさすりながら嗚咽を漏らした。
「もっと早く来てあげられなくて、ごめんね。ママが悪かったのよ」
「お母さん⋯⋯?」
「私があなたを甘やかして育ててしまったから。もっと小さい頃にストレス耐性をつけるプログラムを受けさせていれば⋯⋯もっと厳しく躾けていれば、あなたがこんなに苦しむことはなかったのに」
母親の涙がミラの肩を濡らす。
ミラは息を止めた。
怒られると思っていた。
「なんで頑張れないんだ」と叱責されると思っていた。
でも違った、彼らが選んだ武器は「自責」だった。
「違うんだ、ママのせいじゃない」
父親が母親の肩を抱きながら沈痛な面持ちで首を振った。
「僕の責任だ。仕事にかまけてミラのSOSに気づいてやれなかった。あんなになるまで追い詰められていたなんて⋯⋯親失格だ」
父親はミラの手を取り、その手の甲に額を押し当てた。
「すまない、ミラ。お前は被害者なんだ。私たちの教育の失敗のせいで、お前という人格に傷をつけてしまった」
その言葉は、どんな罵倒よりも残酷にミラの心を抉った。
彼らは自分たちを責めているようでいてその実、ミラの存在そのものを否定していた。
今のミラは「失敗作」であり「教育のミスによって生じたバグ」だと定義しているのだ。
もし「お前が弱いからダメなんだ」と言ってくれれば、反発できたかもしれない。
「私は苦しいんだ」と叫び返すことができたかもしれない。
なのに彼らは「私たちが悪い」と言う。
その論理の前では、ミラが何を言っても無駄だった。
ミラが苦しめば苦しむほど、この完璧で優しい両親を傷つけることになる。ミラが存在すること自体が彼らの人生における汚点となり、彼らを不幸にしている。
「⋯⋯ううん。違うの、パパ、ママ」
ミラは引きつった笑顔で首を横に振った。
必死に彼らを慰める言葉を探した。
「二人は悪くないよ。ここはすごく良いところだし、先生も優しいし⋯⋯私は、だいぶ良くなってるの。本当だよ」
嘘だった。
良くなってなどいない。むしろ、ここに来てから自分が異物であることを突きつけられ続け、窒息寸前だ。
でも、そう言うしかなかった。
「本当か?」
父親が顔を上げ、すがるような目でミラを見た。
その目を見てミラは悟った。
彼らが求めているのは「ありのままのミラ」ではない。
「回復したミラ」「元通りになったミラ」――「社会に順応したミラ」だ。
彼らの愛に応えるためにはミラは自分自身を殺して、彼らの望む「正常な娘」を演じ続けなければならない。
「本当だよ。数値も安定してるって、先生が言ってたし」
「そうか⋯⋯よかった。本当によかった」
両親は安堵のため息をつき、互いに見つめ合って微笑んだ。
その様子を見てミラの胸の奥で、何かが冷たくひび割れた。
ああ、届かない。
この人たちには、一生届かない。
私が感じている「息苦しさ」も、あの資材置き場の「静けさ」も、彼らの辞書には載っていない。
彼らの愛は完璧で強固で、そして逃げ場がない。
「だけどな、ミラ」
父親が表情を引き締め、懐から新しいパンフレットを取り出した。
そこには最新鋭の医療機器の写真が載っていた。
「先生とも相談したんだが、ここのプログラムはミラには少し『優しすぎる』のかもしれない」
ミラの背筋が凍った。
「隣の地区に最新の脳波調整設備を備えた集中治療センターができたんだ。そこなら今の倍の速度で社会復帰できるらしい。ナノマシンを使った直接的な神経伝達物質の調整も可能だ」
父親の瞳が希望に輝いている。
「費用は心配するな。パパが頑張るから。⋯⋯だから、な? 早く、元の自慢の娘に戻ってくれ」
元の、自慢の娘。
それは無理をして笑い、数値を偽装し、彼らの期待に応え続けていた頃のミラのことだ。
彼らが取り戻したいのは、その幻影なのだ。
今ここにいて息をするだけで精一杯の「私」ではない。
ミラはパンフレットを見つめた。
脳波調整。
それはつまり、私の脳をいじくって強制的に「幸福」を感じるように作り変えるということだ。
それは修理だ。
壊れた家電製品をメーカーに送って、部品を交換するのと同じだ。
拒否しなければ。
嫌だと言わなければ。
私の心は私のものだ。たとえ壊れていても勝手に書き換えられたくない。
でも、目の前には涙ぐみながら期待に満ちた顔をする母親と、頼もしげに頷く父親がいる。
「嫌だ」と言えば、彼らはまた泣くだろう。
「どうして分かってくれないの」「あなたのためなのに」と嘆くだろう。
その愛の重圧にミラは押し潰された。
喉の奥の鉛が、今までになく重くのしかかる。
ミラは乾いた唇を開いた。
「⋯⋯ありがとう。パパ、ママ」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「私のために、そこまで考えてくれて⋯⋯嬉しい」
端末が軽快な電子音を鳴らした。
【親愛度上昇:家族との絆が深まりました】
その音がミラの心臓にトドメを刺す銃声のように響いた。
* * *
夜九時。消灯時間を過ぎた個室は、深い静寂に包まれていた。
ミラはベッドの上に座り、膝の上に広げた「愛の残骸」を見つめていた。
両親が置いていった差し入れだ。
可愛らしいリボンでラッピングされた箱の中には、高級な有機クッキーが入っている。
パッケージには『オメガ3脂肪酸配合・脳機能サポート』『ストレスケアのためのハーブ入り』と書かれていた。
ただのお菓子ではない。これもまた、「ミラを治すための道具」なのだ。一口食べるごとに健康になれ、正常になれ、と強要されているような気がした。
その横には便箋が置かれている。
母親の丸い文字で、便箋三枚にわたって書き連ねられた手紙。
『ミラへ。今日は元気な顔が見られて本当によかった』
『パパもママも、あなたのことを一番に考えているわ』
『焦らなくていいの。私たちはいつまでも待っているから』
『愛しているわ、私たちの宝物』
美しい言葉の羅列だった。
一文字一文字が、純度一〇〇パーセントの善意で構成されている。そこには嘘も、欺瞞もない。
だからこそ、それは鎖だった。
「愛している」と言われるたびに「愛される資格のない自分」が浮き彫りになる。「待っている」と言われるたびに「期待に応えられない未来」が首を絞める。
ミラは震える指で、自分の腕を抱いた。
皮膚の下で血が脈打っているのが気持ち悪かった。
この心臓が動いている限り、私は彼らを裏切り続ける。彼らを悲しませ、彼らの完璧な人生に「精神疾患の娘」という泥を塗り続ける。
ふと、脳裏にあの灰色の少女の姿が浮かんだ。
薄暗い資材置き場で、ただ埃を眺めていた掃除係。
彼女は決して何も言わなかった。
「良くなれ」とも「頑張れ」とも言わなかった。
自分の腕にある醜い火傷の跡を指でなぞり「ここにあるだけ」と言った。
あの時、ミラは衝撃を受けた。
傷を治さなくてもいい。エラーを抱えたままでも、ただそこに在っていい。
そんな価値観が、この世界の隙間に存在していることに救われた気がした。
けれど――。
手元の手紙を見つめ直す。
両親は違う。世界は違う。
彼らにとって傷は「治すべきもの」であり、エラーは「削除すべきもの」だ。
それがこの世界の正義だ。彼らが間違っているわけではない。彼らは正しく、優しく、健全な市民だ。
間違っているのは、私だ。
あの少女の「無意味さ」に安らぎを感じてしまう私の方が、狂っているのだ。
正常になれない私は、やはりバグなのだ。
涙が、便箋の上に落ちた。
インクが滲んで『愛している』の文字が歪む。
「⋯⋯ごめんなさい」
誰もいない部屋で、ミラは呟いた。
「産まれて、ごめんなさい」
この苦しみは、私が存在している限り終わらない。
私が「治る」ことはない。それはもう、魂のレベルで決定づけられた欠陥だ。
ならば、解決策は一つしかない。
愛する両親をこれ以上苦しめないために。
この完璧な世界から修復不可能なエラーコードを削除すること。
ミラは立ち上がった。
端末が【睡眠推奨時間です。照明を落としてください】と通知してくるのを、指で弾いて消した。
もう、指示には従わない。
これが、私に残された最後の自由意志だ。
* * *
廊下に出ると非常灯の緑色の光だけが足元を照らしていた。
静かだった。
このセンターにいる人々は皆、正しい時間に眠り、正しい夢を見ているのだろう。
ミラは音を立てないように、裸足で歩き出した。
足は、無意識のうちにいつもの場所――中庭の裏手にある「旧資材置き場」へと向かいかけていた。
あそこなら。
あの薄暗くてカビ臭い場所なら、最期を迎えるのにふさわしいかもしれない。
あの少女がいるかもしれない。彼女なら、私が消えることを止めることもなく、ただ「いなくなった」とだけ認識してくれるかもしれない。
だが、ミラは廊下の角で足を止めた。
首を横に振る。
(あそこは、ダメ)
資材置き場は、今のミラにとって「救い」の場所すぎた。
あそこに行けば、また呼吸ができてしまう。
あの少女の脈拍に触れれば、また「生きていてもいいのかもしれない」という甘い勘違いにすがってしまう。
生きてはいけないのだ。
決意を鈍らせてはいけない。
私は、自分が廃棄物であることを証明しなければならない。
ミラは踵を返し、反対方向へと歩き出した。
向かったのは、スタッフ用の業務用階段だ。
鍵は掛かっていないことを知っていた。この完璧なセキュリティ社会では「入居者が自殺のために屋上へ行く」などという非合理的な行動は想定されていないからだ。よしんば自殺者が出たとしても、それは単なるバグとして処理される。
階段を上る。
一段、また一段。
足の裏に冷たいコンクリートの感触が伝わる。
心拍数が上がっていくが端末のアラートは鳴らない。おそらく就寝モードに入っていて、緊急時の閾値が上がっているのだろう。
皮肉なことだ。システムに見放された今が、一番自由だった。
最上階の踊り場に辿り着く。
重厚な鉄の扉がある。その向こうから激しい音が聞こえてきた。
ドーッ、という低い轟音。
雨だ。
それもただの雨ではない。バケツをひっくり返したような豪雨。
この都市の天候はドームによって管理されているはずだが、時折、洗浄のためにこうした人工降雨が行われることがある。あるいはシステムのエラーか。
ミラは鉄のハンドルに手をかけ、体重を乗せて押し開けた。
途端に、冷たい風と水しぶきが顔を叩いた。
「っ⋯⋯」
屋上は、嵐の海に浮かぶ孤島のようだった。
漆黒の空から、無数の水の槍が降り注いでいる。
床を叩く雨音が、世界中のあらゆるノイズを掻き消していた。
ここには「森のせせらぎ」のBGMもない。アロマの香りもない。
あるのは圧倒的な水の質量と、寒さだけ。
ミラは雨の中へと踏み出した。
瞬く間に白いワンピースが濡れて肌に張り付く。髪から滴る水が目に入り、視界が滲む。
寒い。
でも今は、その寒さが心地よかった。
体温という「生」の証拠が、雨によって奪われていく感覚。
屋上の縁には高さ二メートルほどの転落防止フェンスが設置されている。
ミラはメンテナンス用の梯子が掛かっている場所へ迷わず進んでいく、以前中庭から見上げた時に確認していたのだ。
フェンスに近づく。
下を覗き込むと遥か眼下に中庭の常夜灯が小さく滲んで見えた。
高い。
あそこまで落ちれば、きっと一瞬で終わる。
ナノマシン治療が追いつかないほどの速度で、肉体を壊すことができる。
「⋯⋯ログアウトしよう」
ミラは震える唇で呟いた。
この息苦しいゲームから降りるのだ。
アカウントを削除して、最初から存在しなかったことになるのだ。
ミラはフェンスの網目に指をかけた。
冷たい金属が指に食い込む。
梯子に足をかける。身体を持ち上げる。
端末がようやく異変に気づいたのか、振動を始めた。
【警告:危険エリアです】
【警告:直ちに戻ってください】
遅いよ。
ミラは心の中で笑った。
もう、あなたの声は聞こえない。雨の音がすべてを消してくれるから。
ミラはフェンスの頂上に手をかけた。
その時だった。
視界の端。
フェンスの隅にある巨大な貯水タンクの陰に、何かが動くのが見えた。
(⋯⋯え?)
こんな嵐の夜に、屋上に人がいるはずがない。
見間違いかと目を凝らす――雷光が走り、一瞬だけ世界が白く照らされた時、その姿が鮮明に浮かび上がった。
灰色の作業つなぎ。
ずぶ濡れの髪。
あの掃除係の少女が、そこにいた。




