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3/5

脈拍とガラクタ


 その場所へ通うことが、いつしかミラの密かな日課になっていた。


 午後のプログラムの合間、あるいは夕食後の自由時間。監視カメラの死角を縫い、フェンスの穴をくぐり抜ける。


 清潔なパステルカラーのルームウェアが土埃で汚れることを、ミラはもう気にしなくなっていた。むしろ、膝や袖口についた灰色の染みを見ると自分がまだ「生きた人間」であるという証拠を見つけたような気がして、胸の奥が少しだけ軽くなった。


 旧資材置き場は今日も薄暗く、埃っぽかった。

 排気ファンの低い駆動音が、巨大な獣の寝息のように響いている。

 あの「掃除係」の少女は、決まってそこにいた。

 ある時はパイプ椅子で眠り、ある時は壁に向かって石を投げて遊んでいる。

 ミラが姿を見せても彼女は眉ひとつ動かさない。

 「また来たのか」という視線すら向けない。ただ、そこに空間の一部として存在しているだけだ。


 二人の間に会話らしい会話はなかった。

 名前も知らない。年齢も知らない。

 その徹底的な無関心がミラにとっては心地よかった。


 ここでは「今日の気分はどうですか?」と聞かれない。

 「明日の目標」を立てる必要もない。

 ただ座って息をしていても、誰にも怒られない場所。


 ある日、ミラは資材置き場の様子が少し変わっていることに気づいた。

 彼女が定位置にしているパイプ椅子の周りや、錆びたドラム缶の上に奇妙な物体が並べられていたのだ。


 最初はただのゴミの吹き溜まりだと思ったが、よく見るとそれらは意図を持って配置されていた。

 ドラム缶のふちに沿って、等間隔に置かれた歪んだゼムクリップ。

 ブルーシートの上に広げられた、色の褪せたリボン。

 そしてコンクリートの床に直置きされた、枯れて茶色くなった花。


 どれもこれも、このセンターの基準に照らせば「不衛生」であり「無価値」な廃棄物だ。

 センター内では、花は枯れる前に植え替えられる。備品は壊れる前に交換される。

 「終わり」や「劣化」を目にすることは入居者の精神衛生上好ましくないという配慮からだ。

 だから、これらはすべて焼却炉行きになるはずのものだった。


 ミラはしゃがみ込み、その奇妙なコレクションを覗き込んだ。


「⋯⋯これ」


 思わず声が出た。

 掃除係の少女がゆっくりとこちらを向く。彼女の手には薄汚れた軍手が嵌められていた。


「どうして、こんなものを並べているの?」


 ミラはドラム缶の上に置かれた、鋭利なガラス片を指差した。

 実験室か、あるいは食堂で割れたコップの破片だろうか。縁はギザギザとしていて、うっかり触れば指を切りそうだ。危険物だ。


「ゴミだよ。捨てないとスタッフに見つかったら怒られるよ」


 それは親切心からの言葉だった。

 この完璧なエデンにおいて、ゴミを溜め込む行為は精神の乱れとして報告されかねない。


 しかし、少女は動じなかった。

 彼女は無造作にガラス片をつまみ上げると、西日が差し込む高窓の方へと掲げた。


「⋯⋯見て」


 短く言われ、ミラはガラス片を見上げた。

 汚れたガラスの破片。

 本来の「コップ」としての機能を失い、誰の役にも立たなくなった哀れな残骸。


 だが、次の瞬間。

 西日がガラスの断面を通過し、資材置き場の灰色の壁に小さな虹を投影した。


「あ⋯⋯」


 ミラは息を呑んだ。

 不規則に割れた断面がプリズムの役割を果たし、光を複雑に乱反射させているのだ。

 完全な形のコップでは、光はただ透過するだけだろう。

 壊れて、砕けて、歪な形になったからこそ、光は屈折し七色のスペクトルとなって世界に現れた。


 少女は眩しそうに目を細め、その小さな虹を見つめていた。

 彼女の瞳に七色の光が映り込んでいる。


「⋯⋯綺麗だから」


 ぽつりと、彼女が言った。


 綺麗。

 その言葉は、ミラの思考を停止させた。


 役に立つかどうかではない。

 正しい形をしているかどうかでもない。

 ただ、光を受けた時に綺麗かどうか。


 ミラは、壁に揺れる小さな虹から目が離せなかった。

 それは、センターの中に飾られているどんな高価な美術品よりも、今のミラの心に深く突き刺さった。


(壊れていても、いいの?)


 無意識のうちに自分自身を重ねていた。

 社会の役に立てなくなった自分。

 正しい形を保てなくなった自分。

 廃棄処分を待つだけの、ガラクタのような私。


 でも、この少女はガラクタを拾い集めて「綺麗だ」と言った。

 その視線には評価も同情もない。ただの審美眼だけがあった。


 ミラは震える指で隣に置かれていた枯れた花に触れた。

 水分を失い、カサカサとした感触。色はあせて、茶色く縮んでいる。

 生き生きとした造花のような庭園の花よりも、その死にかけた花の方が、なぜか温かいと感じた。


 少女は満足したようにガラス片を元の場所に戻すと、また虚空を見つめる作業に戻った。

 ミラはその横で、しばらく動けずにいた。

 夕暮れの光の中で、ガラクタたちが静かに呼吸しているように見えた。



     * * *



 数日後の午後。

 いつものように資材置き場に向かおうとしていたミラの左手首が、ブルリと震えた。

 通知だ。

 ミラは足を止め、袖をまくって端末を確認した。


 【定期レポート:週間サマリー】

 精神状態:停滞(C-)

 回復進捗:目標値を下回っています

 アドバイス:治療プランの大幅な見直しが必要です。担当医に相談してください


 無機質な文字の羅列が冷や水を浴びせられたようにミラの体温を奪った。


「⋯⋯あ」


 停滞。

 目標値を下回っている。

 見直しが必要。


 その言葉の意味するところを、ミラは知っていた。

 このままでは社会復帰は不可能だと判断される。そうなればこの開放的なセンターから、もっと厳重に管理された閉鎖病棟へ移送されるかもしれない。あるいは「修正不可能」のレッテルを貼られ、市民権を制限されるかもしれない。


(ダメだ。ダメだった。やっぱり私は治らない)


 頑張って笑顔を作ったのに。

 言われた通りに散歩をしたのに。

 それでも機械は私の内側の腐敗を見抜いている。

 お前は社会の欠陥だ。お前は不良品だ。お前は変わっていない。


 思考が急速に回転し、熱を帯びていく。

 焦燥感が胸を焼く。

 呼吸が浅くなる。吸っても吸っても、空気が足りない。


 ヒュー、ヒュー。

 喉が狭窄したような音が鳴る。

 視界が明滅し、廊下の白い壁が歪んで見えた。

 

 逃げなきゃ。

 誰かに見つかる前に。こんな無様な姿を記録される前に。


 ミラはよろめきながら走り出した。

 向かう先は、あの薄暗い資材置き場しかなかった。あそこなら誰も私を評価しない。あそこなら壊れていても許される。


 フェンスをくぐり、コンクリートの壁に背中を預けて座り込む。

 心臓が早鐘を打っていた。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 肋骨を折って飛び出しそうなほどの激しい鼓動。


 その時、端末が赤く発光した。


 ピピピピピピピッ!

 ピピピピピピピッ!


 けたたましいアラート音が、静寂な資材置き場に響き渡った。


 【警告:異常検知!】

 【警告:心拍数140超。過呼吸の恐れあり】

 【警告:直ちに深呼吸してください。落ち着いてください】


 うるさい。

 やめて。

 鳴らないで。


 ミラは右手で端末を押さえつけたが、音は止まない。

 機械的な音声ガイダンスが追い打ちをかける。

 『呼吸を整えてください。吸って、吐いて。吸って、吐いて』


 できない。

 言われた通りにできない。

 「落ち着け」と言われるたびに焦りが募る。「深呼吸しろ」と命じられるたびに喉が詰まる。

 誰かに聞かれる。スタッフが来る。見つかる。怒られる。失望される。


(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)


 頭の中で謝罪の言葉が渦巻く。

 アラート音はどんどん大きくなり、ミラのパニックを加速させる。

 これは罰だ。

 治らない私への、システムからの罰だ。


 ミラは膝を抱え、耳を塞いだ。

 視界が涙で滲み、赤く点滅する端末の光だけが悪夢のように網膜に焼き付いていた。

 死んでしまいたい。

 この音が止まるなら、心臓ごと止まってしまえばいい。


 その時。

 ミラの視界に影が落ちた。


 涙で滲んだ視界の向こうに灰色の作業つなぎが見えた。

 掃除係の少女だ。

 彼女は、けたたましく鳴り響くアラート音にも、赤く明滅する警告灯にも、眉ひとつ動かしていなかった。まるでそれらが最初から存在しないかのように。


 彼女がしゃがみ込む。

 ミラは身を竦めた。怒られる。通報される。スタッフを呼ばれる。

 

 しかし、彼女は何も言わなかった。

 無造作に手を伸ばし、ミラの左手首を――端末が巻きついている場所ではなく、そのすぐ横の露出した生身の皮膚を――強く掴んだ。


「っ⋯⋯!」


 冷たい感触だった。

 彼女の手は少しザラザラしていて、鉄錆と土の匂いがした。

 その冷たさが、熱を持ったミラの肌に痛いほど鮮烈に突き刺さる。


 彼女は狂ったように点滅する端末の画面を一瞥もしなかった。

 システムが弾き出した「異常検知」の文字も「直ちに深呼吸せよ」という命令も無視して、ただミラの手首の動脈に、人差し指と中指を押し当てた。


 トク、トク、トク、トク。

 指先を通して、暴れ回るミラの脈動が彼女へと伝わる。

 彼女は目を細め、指先の感覚だけに意識を集中させていた。


 アラート音はまだ鳴り止まない。

 ピピピピピピ⋯⋯!

 うるさい。消して。誰か止めて。

 ミラの内心の叫びなど意に介さず少女は数秒間、じっと脈を測り続けた。

 そして、ふっと息を吐き、独り言のように呟いた。


「⋯⋯速い」


 短い一言だった。

 だが、その言葉にはシステムが下したような「異常(Abnormal)」という審判の色はなかった。

 ただ「速い(Fast)」という物理的な速度を確認しただけ。


 「悪い」とも「直せ」とも言わない。

 「今、あなたの心臓は速く動いている」。その事実だけを提示された。


 そのことがパニックの渦中にいたミラに、奇妙な隙間を与えた。

 ジャッジされていない。

 否定されていない。

 ただ、速いだけ。


 少女はミラの手首を掴んだまま、もう片方の手を自分の胸に当てた。

 薄い作業つなぎの下にある、彼女自身の心臓の位置へ。

 彼女はミラをじっと見据えた。その薄茶色の瞳は相変わらず感情を映していない。それでも、そこには確かな意志があった。


「⋯⋯深呼吸する」


 それは命令ではなかった。

 「私がするから、お前も合わせろ」という、無言の同調要求だった。


 少女が、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 スゥー⋯⋯という、深く、長い吸気音。

 彼女の胸郭が膨らむのが見て取れる。

 彼女の心拍は、驚くほど一定で、遅かった。ミラの手首を掴んでいる指先から、その穏やかなリズムが逆流してくるようだった。


 ミラは、縋るようにそのリズムを追った。

 吸って。

 吸って。

 喉が引きつり、うまく空気が入ってこない、それでも目の前の少女は根気強く息を吸い続けている。

 その姿に引きずられるように、ミラも細く息を吸い込んだ。


 ハァー⋯⋯。

 少女が息を吐く。

 長く、細く、体の中の澱をすべて出し切るように。


 ミラも吐く。

 肺の中で暴れていた熱い塊が、少しずつ外へと押し出されていく。


 一度。二度。三度。

 単純な反復運動。

 デジタルの音声ガイダンスに従うことはできなかったのに、彼女の生身の呼吸音には自然と身体が反応した。

 

 それは共鳴だった。

 異なる速さで動いていた二つのメトロノームが、やがて一つのリズムに揃っていくように。

 彼女の冷たい指先が、アンカー(錨)となって、嵐の中にいたミラを現実へと繋ぎ止めてくれる。


 いつしか、端末のアラート音が止まっていた。

 【状態:安定】

 画面の文字が緑色に戻っていたが、二人は誰も端末を見ていなかった。


 ミラの肩から力が抜けた。

 額に冷や汗が滲み、そこに排気ファンからの風が当たって涼しい。

 心臓はまだ少し早いが、もう肋骨を折るような勢いではなかった。


「⋯⋯はあ⋯⋯っ」


 ミラは深く息を吐き出し、へなへなと座り込んだ。

 助かった。

 システムに救われたのではない。目の前の、名も知らぬ少女の「生体リズム」に救われたのだ。


 少女はミラの脈が落ち着いたことを指先で確認すると、あっさりと手を離した。

 温もりが消え、手首に冷たさが残る。

 彼女は立ち上がろうとしたミラを見下ろし、何かを考えるように少し首を傾げた。


 そして。

 おもむろに手を伸ばすとミラの頭にポン、と掌を置いた。


 ぎこちない手つきだった。

 人を慰め慣れていない、不器用な動作。

 彼女はそのまま、くしゃり、とミラの髪を無造作に撫でた。

 まるで雨に濡れた野良犬の頭を拭くような、あるいは拾ってきたガラクタの泥を払うような手つきで。


「⋯⋯よく出来ました」


 低く、抑揚のない声。

 それは医師が言うような「治療の成功」への称賛ではなかった。

 子ども扱いでもない。

 ただ嵐をやり過ごし、壊れずにここに残ったことへの労い。

 「死ななかったね」という、事実の確認。


 ミラは目を見開いたまま、されるがままになっていた。

 頭に乗せられた手の重み。

 少し土臭い、軍手の匂い。

 

 涙が出そうだった。

 「頑張れ」と言われた時はあんなに苦しかったのに。

 「よく出来ました」という、ただの結果に対する承認が、こんなにも腑に落ちるなんて。

 私は何も成し遂げていない。ただ呼吸を整えただけだ。

 けれど彼女は、その「ただの呼吸」を、ひとつの成果として認めてくれた。


 少女はすぐに手を引込めると、また自分のパイプ椅子に戻り、何事もなかったかのように座り込んだ。

 西日が傾き、資材置き場に長い影が伸びている。

 ドラム缶の上に並べられたガラス片や枯れた花が、夕陽を浴びて、やはり綺麗に輝いていた。


 ミラは自分の手首を――彼女が触れていた場所を、右手でそっと握りしめた。

 そこにはまだ、彼女の指の感触が残っているような気がした。

 端末が示す数値よりも確かな、生きた人間の痕跡。


 私はガラクタだ。

 でも、脈はある。

 その事実だけで今日の夜は眠れるかもしれないと、ミラは初めて思った。

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