夕暮れと紅茶の約束
番外編 最終話です。
門が見えたとき、ミリアは小さく息を吐いた。
慌ただしくも楽しかった一日が、ゆっくりと背中から離れていく。空には赤みが差し、屋敷の屋根が柔らかな光に包まれていた。
久しぶりに長く歩いたせいか、足が少しだけ重い。けれどその疲れは、どこか心地よく、ちゃんと“楽しめた”という感覚があった。
正門をくぐる前に、ひと息つこうと門柱の影に腰かけようとした――そのとき。
「猫、見つけたって聞いたぞ」
声がした。
顔を上げると、石垣にもたれていたのはカイルだった。軍靴の爪先で砂を蹴りながら、こちらをちらりと見ている。
「街の情報網、なめるなよ。あと、サルムがうれしそうに言ってた。“あの子、また巻き込まれてたよ”ってな」
「――サルムのこと、知ってたの!?」
ミリアは目を見開いて声を上げる。
それにカイルは眉をひとつ上げ、薄く笑った。
「知らないふりしてたほうが、都合がいいときもある」
「うわ、ずるい。ずっと話してくれてなかったくせに……!」
「お前、いちいち正面から信じすぎなんだよ」
「そういうこと言う人が、一番曲者なの。知ってた?」
「まあ、否定はしない」
ミリアは肩をすくめ、ため息まじりに笑った。
「でも、サルムが話してくれてよかった。おかげで、ちゃんと猫は見つかったし」
「……信用されてるんだな、お前」
「うん、たぶん。ああいう人ほど、見てるんだと思うよ。言わなくても、ちゃんとね」
ミリアの言葉に、カイルはふっと視線をそらすように空を仰いだ。
「……それは、お前も同じだろ」
「え?」
「誰にも言わなくても、やるべきことはちゃんとやる。そういうとこ、あいつと似てる」
「……あ、今ちょっと褒めた?」
「いや?」
「え、今のは褒めでしょ。ほめてくれたでしょ」
「気のせいだな」
ミリアは口を尖らせながらも、どこかうれしそうにしていた。
「まあいいけど。今日の私は、ちょっとだけ調子いいからね。素直に受け取っとく」
「そうかい」
「……あのね」
ミリアはふと、少し真面目な声になる。
「今日の街、前より少し騒がしくて、人も増えてて。昔だったら、私こんな風に歩き回るの、絶対落ち着かなかったと思うの」
「でも今日は、違った?」
「うん。たぶん、“自由にしていい”って言われたから。……それだけで、こんなに違うんだって思った」
カイルはしばらく何も言わず、夕焼けに染まる空を見つめていた。
「……休みってのは、そういうもんかもな。自分で自分を許せる時間、みたいな」
「……それ、レティシア様に言ったら、褒めてもらえるかも」
「お前が言うな」
「ふふっ、じゃあ、覚えておくといいよ」
ふたりは小さく笑い合い、石段から腰を上げた。
門の向こうには、見慣れた邸宅の輪郭。
けれど今は、それがほんの少しやさしく見える。
「行こっか。紅茶、飲もう」
「ああ」
その時、ミリアが飲む最後のニ杯が、休暇という一日を締めくくるのにふさわしい味になることを、まだ知らなかった。
◇
靴を脱ぎ、部屋着に着替えて、三つ編みに結わないままの髪をそのまま下ろして。
ミリアは久々に“誰でもない時間”を味わっていた。
何かを考えるでもなく、ただ湯気の立つカップを両手で包み込んで座っている。屋敷の壁越しに聞こえる音は、食器の片付けや足音ばかりで、慌ただしさはもうなかった。
そんな時間が、しばらく続いた。
そして、ふと――
廊下の方から、軽やかな足音が近づいてきた。
ノックの音はない。ただ、そっと扉が開く。
「……ミリア、起きているかしら?」
レティシア様だった。
「はい。お戻りでしたか?」
ミリアはすぐに立ち上がろうとして――けれど、それを制された。
「いいの。今日はあなたが“主役”なんだから」
「……主役って、そんな」
「本当よ。それに今日はまだ終わってないわ」
レティシアはゆっくりと部屋に入ってくると、テーブルの向かいに腰を下ろした。
その手には、もうひとつのカップ。
「今夜だけは、私が用意する番。……どうかしら、これくらいの役割交代」
「……贅沢すぎて、ばちが当たりそうです」
「いいえ。あなたが積み重ねてきた日々があったからこそ、今日がある。だから堂々と飲んで」
そっと手渡されたカップには、ミントの香りにラベンダーがわずかに混ざっていた。
今朝、彼女が選ぼうとしていたものと、少し似ている――
けれど、同じではない。
ミリアの選ぶミントは、しゃんと気持ちを引き締めるためのものだった。
しかしこの香りは、芯を和らげ、ふっと肩の力を抜かせてくれる。
これはきっと“レティシア様なりの休憩”なのであるとミリアは理解した。
言葉にされなくても、差し出されたこの一杯には、“よくがんばりました”と、“少しは力を抜いてもいいのですよ”が、両方とも込められている気がした。
ミリアは、カップを両手で包み込みながら、湯気の向こうでそっと目を細めた。
ミリアは一口、口をつける。
湯気が喉を通り、胸の奥までじんわりと染み込んでいく。
「……おいしいです」
「それはよかった。……明日からは、またいつも通りでお願いね」
「もちろんです!今日の分まで、がんばりますから!」
ふたりの間に、静かな笑みが交わされる。
言葉はなくても、それだけで十分だった。
テーブルの上には、まだあたたかい紅茶と、優しい静けさが漂っていた。
ミリアはそっとカップを見つめながら思う。
――この一杯が、今日という“特別な一日”を締めくくってくれている、と。
ほんの一時、ただそれを味わうだけでいい。それが、ちゃんと“意味のある休み”だったことの証のように思えた。
番外編をお読み頂きありがとうございました。
本編は、【連載版】「真実の愛に気付いたと言われてしまったのですが」にて投稿しています。
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