猫と、裏路地の午後
少年の声は、屋台通りのざわめきを軽々と越えて、ミリアの耳に飛び込んできた。
振り返ると、小柄な男の子が顔を真っ赤にして駆け寄ってくる。足元には埃がついていて、どうやらそこそこ広い範囲を探し回っていたらしい。
「猫って、どんな子?」
「白くて、ふわふわで、しっぽがすごく長いんです! “ルーヴェル”って名前で……!」
「……え?」
思わず耳を疑う。
「名前、なんて言った?」
「ルーヴェル。僕がつけたんです。かっこいいし、強そうでしょ?」
……うちの屋敷の名前なんだけど。
ミリアは思わず吹き出しそうになったのをぐっとこらえる。
「うん、すごく強そう。わかった、ちょっと手伝おうか?」
「ほんとに!? ありがとう、お姉ちゃん!」
猫探し。休暇でなければ断ったかもしれない――いや、結局断れなかっただろう。
働かないと決めた今日でさえ、彼女は気づけばもう、少年と並んで走り出していた。
◇
猫を最後に見たのは、パン屋の前だったという。
荷車の音に驚いて飛び出し、そのまま人混みに紛れてしまったらしい。少年いわく、逃げ足がとんでもなく早いとのこと。
「ほんとに猫? 山羊じゃないよね?」
「ちゃんと猫ですよ!あんなに小さいのが山羊な訳ないですよ!」
そんな軽口を交わしつつ、ミリアは勘を働かせる。
音に驚いて逃げたなら、静かな場所に向かうはず。市場の中心から離れ、人気の少ない路地を順にあたっていく。
彼女はこういうとき、やけに観察力が働く。
植木鉢が倒れていないか。足跡が残っていないか。干し網が動いた形跡は? 鼻を利かせ、目を配り、注意深く角を曲がる。
「お姉ちゃん、もしかして探偵?」
「エディンほどではないけどね!」
そう答えた瞬間、自分でも思わずふふっと笑ってしまう。
屋敷の書記官であるエディンは、情報整理と論理構築の天才で、推論となれば右に出る者はいない。けれど――
「現場勘だけなら、ちょっとは張り合えるかも?」
「すごいや! もう本当に探偵チームみたい!」
「チームって……猫探し隊、かな?」
少年のきらきらした目に、なんとなく背筋が伸びる。
誰かの期待に応えるのは、嫌いじゃない――むしろ、それがあってこその自分だ。
そんなことを思いながら、ミリアはさらに歩を進めた。
地面の埃の溜まり方、軒先の細かな毛の痕、風にそよぐ洗濯物の隙間。些細な変化を見逃さずに、目と足と、ほんの少しの勘を頼りに、猫の気配をたどっていく。
やがて、とある木箱の奥にふわりと白いものが見えたとき――それが、彼女にとってこの日一番の“手応え”だった。
「……いた」
ミリアはひそやかに言った。
ふわりと風に揺れた布の向こう、箱と箱の隙間に、白くてふわふわしたものが縮こまっていた。長い尻尾が小さく揺れている。
間違いない。あれが“ルーヴェル”だ。
「ルーヴェル……!」
少年が声をあげかけたが、ミリアはそっと指を立てて制した。
「しーっ。驚かせちゃだめ。ちょっとだけ、静かにしてて」
「……うん!」
ミリアは膝をつき、そっと手を伸ばす。
猫は、こちらを警戒するようにじっと見つめていた。だが逃げようとはせず、むしろその場にじっと座り込んだまま、耳をぴくぴくと動かしている。
「大丈夫。こわくないよ。……ね、ルーヴェル」
その名を口にすると、猫の瞳がわずかに和らいだように見えた。
そっと手を伸ばし、毛並みに指を触れる――逃げない。
それなら、と静かに体を支え、両手で抱き上げる。
ふわふわで、あたたかくて、思っていたより軽い。小さな猫が腕の中にすっと収まった。
「……はい、捕獲完了」
振り返れば、少年が口をぱくぱくとさせていた。
「お姉ちゃん……すごい……!」
「ふふ。たまたま、得意分野だっただけだよ」
猫の頭をそっと撫でると、小さな喉がくぐもった音でゴロゴロと鳴り始めた。
それを聞いた少年の目に、じんわりと涙がにじむ。
「ありがとう……! ルーヴェル、無事でよかった……!」
「うん、びっくりしてただけだよ。帰ったら、しっかり抱きしめてあげてね」
「うんっ!」
ミリアは猫をそっと少年の腕に渡す。
猫は、彼の手の中で安心したように丸くなった。少年の肩から背中へと、ふわりと白い毛が絡むように寄り添う。
「……気をつけてね。今度からは、逃げ道も覚えておかないと」
「うん、次は絶対、話しかける前にドア閉める!」
「それが一番だね」
二人は笑った。
◇
猫と少年を見送り、ミリアは通りの石段に腰を下ろした。
ふう、とひとつ深く息を吐く。
肩がすっと軽くなる。まるで猫の体温が、まだ腕の中に残っているような気がしていた。
頭上には夕暮れの空。あたたかい色が市場の屋根を照らしている。
「……仕事じゃなかったのに、思ったより働いたなあ」
そうつぶやいて、少し笑う。
でも、不思議と嫌じゃなかった。むしろ、気持ちのどこかがきれいに整ったような、そんな感覚だった。
──あの猫は、名前こそ“ルーヴェル”だったけれど、今日だけはまるで“休暇を教えてくれた先生”みたいな顔をしていた気がした。