中学1年・4月(中)
真子先輩は出身小学校が同じ2年生だ。主張の強い部員が多いなか、群を抜いて穏やかな性格をしているのもあって現状では一番話しかけやすい先輩だった。
さらに真子先輩は菜月のことをあの高瀬結衣のお友達として以前から知っていたらしく、仮入部の時には「真夏のブリザード、大変だったねー」と冗談半分で労われた。
菜月個人としては真夏のブリザード——結衣と春樹vs小学校関係者の大乱闘よりも、その直後に勃発した結衣vs成見の仁義なき戦いのほうが遥かに神経をすり減らすイベントだったのだが……。詳しい事情を知らない先輩にそんなこといえるはずもなく、真夏のブリザードの話題は愛想笑いで受け流すしかなかった。
そんな真子先輩に菜月が「実は入部以前から交際している男子がいます」と相談したのは、キャプテンから恋愛禁止の部則を伝えられたその日の練習後だった。
片付けを終えて3年生が部室で着替えているとき、2年生は外で部室が空くのを待っている。そのタイミングで真子先輩がひとり手洗い場に向かったから、これ幸いにと菜月は後を追いかけた。
結論から言うと、真子先輩は菜月の相談に難しい顔をした。
それでも恋愛なんてもってのほかだと有無を言わさず突き放したりはせず「自分ではどうにもできないから」と言って菜月がキャプテンと話せる場を作ると約束してくれた。
「ひとまずこのことは、わたしの胸にとどめておくから」
彼女の気遣いの裏には、恋人の存在がバレたら菜月のバレー部員としての立場が危ぶまれる懸念が隠れている。
それほどまでにこの中学の女子バレー部にとって恋愛がタブーであると、部員たちは認識しているのだ。
もしかして、この共通認識こそが、女子バレー部の団結力の正体なのか。
——先輩たちみんな真剣に練習に打ち込んでて、顧問の先生も厳しいけど理不尽なこと言わないし、良い雰囲気の部活だと思ったんだけど……。
部員みんなが同じルールを遵守していることで部全体の仲間意識が生まれているならば、自分ほど場違いな人間はいない。
入部早々漂いはじめた不穏な気配に、帰り道、菜月は自転車に乗りながら何度も溜め息を吐き出した。
*
翌日、朝のショートホームルームが終わって1時間目の授業が始まるまでの間の休み時間に、昇降口で真子先輩とキャプテンと落ち合った。
「わたしには、入部以前から付き合ってる人がいます」
そう菜月が打ち明けるとキャプテンは昨日の真子先輩以上に険しい顔をした。
新入生から見た2コ上の先輩はどこか遠い存在だ。あと1年で中学を卒業する彼女たちは、一ヶ月前まで小学生だった菜月には大人に近い存在に見えている。
そんな人が難色を示している時点で、悪いことをしているのは菜月のほうだと錯覚してしまう。
油断をしたら圧に押されて流されてしまう。それだけはダメだと両手をきつく握りしめた。
「別れられないの? そのままバレー部続けるのは厳しいよ?」
キャプテンはあたかもそれが当然とする口調だった。
3年生の圧に一瞬うっと怯むも、持ち前の反骨精神ですぐに気持ちを奮い立たせる。
「それは、難しいというか…………わたしが、別れたくない……です」
成見を言い訳にしなかったのは菜月にとっての意地である。
わたしが部活を続けたいから別れてくれなんて言ったら、アイツは周囲やバレー部に何をやらかすかわかったもんじゃない。
でも……そこの心配を抜きにしても……、わたしは、今の成見と別れたくない。
「そっか。とりあえずわかったから、このことはまた今度話そう。真子もありがとうね」
キャプテンは何ひとつ納得していない様子だったが、授業が始まるからとその場は解散となった。
*
これで終わるはずがないとは、とっくにわかっていた。
昼休みになって弁当を食べ終えた直後、今度はキャプテンが菜月を呼びにきた。
成見にひとこと断りを入れてキャプテンについていくと、向かった先は校舎の外、部室練の女子バレー部の部室。
促されて入室したそこには、3年の先輩全員が揃っていた。
「とりあえず座ろっか」ということで、菜月を混ぜた合計7人は小さな円になってコンクリートの床に座る。
3年生に囲まれた菜月は三角座りで小さくなるしかなかった。
狭い密室に、1年生は自分だけ。圧が、とにかくすごい。
しばらく重い空気の中で沈黙が続いたが、やがて先輩が言いにくそうに話しかけてきた。
「菜月に付き合ってる人がいるってキャプテンに聞いたんだけど、本当?」
この場でその質問に答えるのには勇気が必要だった。
「……はい」
それでも菜月は首を縦に振るしかできなかった。
「マジで? いつから付き合ってるの?」
「小4……くらいからです」
「えっ、そっからずっと同じ人と続いてる感じ?」
「まあ……」
「へえ〜けっこう長いんだ」
感嘆の声にはどこか馬鹿にしするような気配があった。
中学3年の彼女たちからしたら、小学生の恋愛なんてオママゴトみたいなものだろう。
菜月の成見に対する想いを先輩たちはただの遊びだと思っている。
それでも身近な人間の恋バナは気になるらしく、根掘り葉掘り菜月から成見の情報を聞き出そうとしてくる。
相手は年上? 同級生?
うちの中学にいたりするの? クラスは? 名前はなんていうの?
どんな人なの? 優しい? かっこいい?
付き合うきっかけってなんだったの?
興味と揶揄が混ざり合った質問責めに、菜月はだんだん苛立ちを募らせる。
「元は同じクラスの友達だったんですけど、そこから、まあ……いろいあって、彼とは付き合うことになりました」
これが伝えられる精一杯の情報だ。
頭のネジがゆるくて暴走しがちな友人たちの中で、菜月は一応自分が常識人枠だと自負している。
自分に異常に執着してきたストーカー気質の同級生男子を矯正したら意気投合して、流れで付き合うことになったとか、先輩たちには絶対言えない。
ありきたりな答えしか返さない菜月に、先輩たちが徐々に飽きてくるのがわかった。
菜月からしたら3年生に囲まれた状態で、頭が真っ白になりそうなところをどうにか無難な答えをひねり出しているのだが、涙ぐましい努力を上級生たちが推し量ることはなかった。
「っていうか、そんなことどうでもよくない?」
キャプテンの言葉で空気が変わる。
さんざん質問してきたのはそっちなのに、なぜか菜月が悪いような雰囲気になってしまった。
反発心は気概はとっくにねじ伏せられていて、先輩たちの睨むような鋭い視線に菜月はさらに萎縮する。
「……すみません」
このギスギスした空間にどうやって対処したらいいのか。菜月はそのことばかりを考えていた。
「菜月が入部するよりずっと前から、女子バレー部は恋愛禁止がルールだったのよ。それを今さら変えるわけにはいかないし、例外を認めるわけにもいかない。このことはわかるわよね?」
それを言うなら、菜月はバレー部に入る以前からずっと、成見と付き合っていた。今さら彼と別れるなんてできない——とは、たとえ頭の片隅に浮かんでも、考えをまとめて口から出せそうになかった。
「だったら別れてもらうしかないよ。恋愛沙汰を部活に持ち込まれても困るし」
菜月は反論しない。その代わり、先輩たちが言ってきたことにうなずこうともせず、石のごとく固まってぴくりとも動かない。
菜月の恋はオママゴトだと、彼女たちは決めつけている。
対してバレー部の活動は遊びじゃない。チームが一丸となって、本気で大会上位を目指している。そんな彼女たちからしたら、菜月は恋愛にうつつを抜かした甘ちゃんにしか見えないようだ。
自分たちが後輩を正さなければいけない。
話し合いの最中で3年生に芽生えた使命感が、菜月をさらに追い詰めていく。
昼休み終了5分前の予鈴が聞こえても、先輩たちは動こうとしない。同調圧力に屈した菜月も、授業が始まるのを理由にその場から立ち上がることができなかった。
*
とうとう5時間目開始のチャイムがなった。
どうしよう。成見が心配している。
菜月は内心焦るのと同時に、確かに自分は部活よりも成見——恋愛を優先してしまう人間だと気づいてしまった。
これでは先輩たちが怒るのも無理はない。
「……この話はまた後でにして、とりあえず授業に出ようか」
先輩のひとりが言い出したのをきっかけに、3年生は重い腰を上げた。
「ちゃんと考えないとダメよ」
3年生に続いて菜月が部室を出た時、施錠するために待機していた副キャプテンに釘を刺された。
昼休みを乗り切ったからと言って、見逃してもらえるわけじゃない。これで終わらない事実に菜月の気分は泥地に沈む。
「……はい」
わかっている。ちゃんと成見とも相談して、どうするか考えないと。
できれば成見のことを先輩たちに認めてほしいけど……、今日のことからしてあまり期待はできない。
じゃあどうするか。せっかく入った部活を辞める? それも嫌だ。
悶々としながら先輩たちの後ろをとぼとぼ歩く。滅多に使用されない技術室と横長の部室練に挟まれた通路は授業中ということもあってとても静かだった。
そんな静かな場所では、前を行く先輩たち小声で交わされる菜月への不満もよく届いた。
うつむく菜月が彼女たちからさらに距離を取ろうと立ち止まった直後、前方から声が消えた。
異様な空気を察して顔を上げる。
菜月たちの行く先には、技術室の壁にもたれて座り込む女子生徒——結衣がいた。