中学2年・5月(上)
夏の気配が色濃くなり始めた5月最後の週末。
夕方までを予定していたバレー部の練習が、顧問の事情により午前中で終了したため、咲田 菜月は昼過ぎには家に帰ることができた。
久しぶりにできた日曜日の自由な時間に心が弾む。
帰宅した際、裏庭に親友が遊びに来ていると母親に告げられ、さらに気分は上昇した。
この嬉しさを電話で彼に告げる。ついでに自分の時間が空いたことも報告した。すると電話の相手は今から自分の家に来ると言ってきた。
午後はにぎやかになりそうだ。
しかしそこでふと、我に返って冷静になる。
菜月は自分で連絡を入れておきながら、浮かれた末の行動に早くも不安が込み上げてきた。
親友と、電話をした彼が顔を合わせたら何が起こるか。現場が容易に想像できてしまい、午後が楽しみだと思うかたわら、これは面倒なことになるなと少し遠い目をしてしまった。
そして、そこから数十分後。
菜月の予想通り、咲田家の裏庭で戦いの火ぶたが切って落とされた。
住宅地の外れに建つ年季の入った木造建築の家屋が、菜月の暮らす家である。
家の内装は菜月が生まれる直前にリフォームされて近代的な様式となっているが、外観はほぼ建築された当初のままだ。
田んぼを埋めて近年新たに建てられたメーカーの注文住宅が多いこの辺りでは、菜月の家は近所に住む住民の目印になるくらいに浮いていた。古くからある家だから、敷地も広い。
そんな家の、裏庭が一望できる縁側に座る菜月は、うなだれて額に手を当てた。
「まったく、菜月とふたりきりで久しぶりに楽しいデートができるはずだったのに、とんだ邪魔者がいたものだね。こういうとき、普通は空気読んでちょっとは気を遣ったりするもんじゃないのか」
菜月と肩を並べ彼女の右側に座るのは、一宇 成見。
現在は訳があって「恋人」と公言することはできないが、菜月と互いに思いを通わせる、相思相愛の相手だ。
癖のない短い黒髪に、男性にしては華奢な体つき。穏やかな口調と物腰から一見人が良さそうに思われがちな男だが、見た目に騙されてはいけない。
こいつは腹の中に猛毒を隠している。
「あとから来ておきながらわたしを邪魔者呼ばわりとは、ずいぶんと身勝手な主張だね。わたしは今コムギと遊んでいるんだ。そんなに嫌ならさっさと帰ればいいだろう。あんたひとりでね」
対して菜月の左側に座っているのは親友の、高瀬 結衣。
漆黒という表現が似合うほど黒々とした髪をポニーテールに結いあげた結衣は、同年代女子の平均身長をはるかに下回る小柄な少女だ。
現在成長期の真っ只中につきここ数カ月で一気に身長が伸びた菜月とは、最近さらに目線の位置がずれてきた。
結衣の膝の上には、咲田家の飼い猫が丸くなっていた。猫の名前はコムギ。毛足は短く、色は名前の通り小麦色の毛をしている。
この家には他にもゲンマイとアズキという2匹の猫がいるのだが、こちらは外に出たら即座に逃走を企てるため縁側に出すのを許されていない。
咲田家の猫はみな、例外なく結衣と仲がいい。
今まさに頭をなでられてご満悦なコムギは言うまでもないが、他の2匹も構ってほしそうに縁側と屋内を隔てる窓のところでカーテンから顔を覗かせて、こちらをじっと凝視してアピールしている。
結衣が遊びに来た時はいつもそうだ。
菜月が不在の時に結衣がひとり裏庭でくつろいでいるのは、今にはじまったことではない。裏庭は家の北側にあるので、夏場は特に結衣の出現率が高かった。
幼いころからこの家に出入りしている親友を、菜月の両親も可愛がっていた。結衣も咲田家の者に対しては他で見られないぐらい素直になる。
そして菜月の母親は結衣が来ると必ずと言っていいほど、家の中で暇を持て余して家事を邪魔するコムギの相手を彼女に押し付けた。
結衣も毎回嬉しそうにして快く引き受けてくれるから、母も頼みやすいのだろう。
菜月の両親が結衣に抱くイメージはきっと、幼いころの人見知りをする大人しい女の子のまま止まっている。
現在の結衣が毒舌の問題児に育ってしまったことは知る由もないだろうし、知らなくていい。
成見が呆れたと言わんばかりに首を横に振った。
「ここは菜月の家なのに、どうして俺たちが消えないといけないのか、理解に苦しむよ」
「誰がいつ菜月に消えろと言った。わたしが帰れと言ったのは成見だけだ。そんなことも理解できないの?」
結衣が次々と棘のある言葉を吐き出す。
彼女はいつからこうなったのだろうか。。
昔は人見知りが激しく、慣れない人間とは目が合っただけでぴーぴー泣いてたというのに。月日の流れとは無情なものだ。
菜月を挟んで繰り広げられる結衣と成見の戦いは、実は珍しいものではない。
むしろこのふたり、まともに会話しているほうが貴重なほどに、互いに顔を合わせれば罵りあっている。無論、菜月を間に置いて。
これは成見と出会った小学3年の時からまったく変わらない。
成見が菜月に好意を抱き、一方的な愛情を押し付けていた時期も。菜月が成見を受け入れて、ふたりが両想いになってからも——。
結衣はとにかく、成見にだけは容赦がなかった。
成見にしても、普段周囲には気さくな好青年という印象をまき散らし、菜月の両親にも「今時珍しい誠実な子」と高評価を得ているというのに。
この男は毎度毎度、結衣にだけは異常な突っかかりを見せた。
毎日のように、それこそうんざりするぐらい聞かされてきたふたりの言いあいに、菜月は呆れを隠すことなくため息をついた。
そして、口から出るのは毎回決まって同じ言葉だ。
「あんたたち、喧嘩するならわたしを挟まないでふたりでしたらどうなの」
「やだよ、成見とふたりとか。こいつの隣にいるだけで絶対胃に穴が空く」
……わたしはそのポジションが定位置なのだけど。
「俺は別に結衣が隣にいても構わないよ。もう片方に菜月がいてくれるならね。ということで、結衣はさっさと菜月から離れようか」
「そういうのはまず言いだしっぺが率先してやるべきだろう。さあどうぞ、わたしの隣、縁側の端にでもひとり寂しく座ってろ」
「……あんたたちねえ」
菜月が割って入ったところで堂々巡りなのも、もはや定番。もとより口で結衣と成見に勝てるとは思っていない。
時に諦めは肝心だ。自分は普通の人間でいたい。
結衣の膝で丸まっていたコムギが立ち上がった。
甘えた仕草で、よそ見をして自らを撫でる手を止めた結衣の胸元をよじ登る。
首筋に顔をなすりつけ気を引こうとしてくるコムギを、結衣は両手でぎゅっと抱き締めた。
指で口の下をなでられて、コムギは気持ち良さそうに喉を鳴らす。
うっとりと目をつむるコムギに結衣の口元がほころび、殺伐とした空気が霧散した。
親友の関心は一瞬にしてコムギに移り、成見など眼中にないといった様子だ。
あっさりと、気まぐれに戦線を離脱した結衣に成見も毒気を抜かれたようで、彼は脱力してぼんやりと空を見上げる。
「ま、せっかくの菜月といられる日曜日だしね。こんなくだらないことで時間をつぶしてしまうのはもったいないか」
「……同感。だけど……」
大人な幕引きを成見が先に持ちかけたからか。悔しそうに結衣が呟く。しかしその先の文句は口の中に留まったようだった。
ようやく落ち着いた想い人と親友に菜月も安堵して、飼い猫を撫でる結衣の手に自らも加わった。
咲田家の裏庭に、穏やかな風が吹く。
成見と結衣。
口喧嘩の絶えないふたりではあるが、彼らの関係は見た目ほど険悪でないのではと菜月は考察する。
盲目的なまでに菜月を慕う成見は基本、彼女が大切にするものを傷つけようとはしない。
結衣にしても、本気で嫌った人間に対してここまでテンポの良い言葉の応酬はしない。
言葉を武器にする技術は、仲間内でも親友がピカイチだ。
そんな結衣が言い返す余地をあえて残すのは、じゃれついているようなものだと別の男友達が以前言っていたのを菜月は思い出す。
確かにそのとおりなのだろう。
何も知らない者が聞いたらふたりのやり取りはハラハラするかもしれないが、結衣はどうでもいい人間にはここまで食いつこうとしない。——対象者を敵とみなして、全力で排除しようとしない限りは。
言い合いはコミュニケーションの一環。ただの言葉遊びと捉えられなくもない。
そういったことを踏まえれば、日々の口喧嘩は成見と結衣の仲が悪くないことを示す証拠ではないか。
と菜月は常々考えているのだが……。
コムギの背中に顎を置いた結衣が、横目で成見を睨んだ。
「コイツは絶対いつか泣かす」
隙があれば突っかかる結衣を成見が鼻で笑う。
「いつでもどうぞ。その時は結衣を悪者にして菜月に慰めてもらうから」
………………。
仲はいいのだと、信じたい。