中学1年・5月(3)
4月にあった新入生歓迎会の部活紹介の際、女子バレー部は日頃している練習メニューを披露した。
トスされたボールをスパイクして、豪速球をレシーブで受ける。
後にバレー部に入ることを決めた新1年生は、部活動に真剣に打ち込む彼女たちの姿に胸を打たれたが、一部の生徒にとってはその真剣さが滑稽に映ったようだ。
運動部のほとんどが実演などせず、口頭で活動の紹介をしただけで持ち時間を終えたのも原因だろう。
あんなに熱くなって馬鹿じゃないの。
気にしないふりを貫いたが、生徒たちから嘲笑される空気を彼女たちはひしひしと感じ取っていた。
心にほんの少しのしこりを残して新入生歓迎会は終了した。
それからしばらく経って、ちょうど菜月が仮入部でバレー部に入ったころだった。
「ひょっとしてバレー部の部長さん? ……やっぱりそうだ。新歓の部活紹介がカッコよかったから、すごく印象に残ってたんです」
キャプテンが見ず知らずの1年男子に声をかけられたのは、掃除の時間のことだった。
何気ない賞賛が、それまで彼女の心に刺さっていたトゲを引き抜いてくれた。
そこから1週間、互いの班の担当している掃除場所が近いこともあって、その男子とは毎日顔を合わせた。
言葉を交わしたのは最初だけで、あとは廊下をすれ違った時に会釈をする程度。それでも、1年男子との関係は「他人」から「顔見知り」へと確実に変化していた。
そこから1年生が本格的に入部して、菜月の恋愛事情でモヤモヤしている時にまた彼とバッタリ顔を合わせた。ちょうど職員室に用事があって足を運んだタイミングで、彼もまた職員室にいる担任に提出物を届けて教室に戻るところだった。
「あ、バレー部の部長さんだ」
慕うように声をかけられた。教室に戻るまでの短い道のりで、彼は昨日行われた全日本女子バレーの強化試合のことを話題としてキャプテンに振ってきた。
キャプテンもテレビ中継を観ていたため彼との話は盛り上がり、廊下の分かれ道に差し掛かったところでしばらくふたりでおしゃべりに花を咲かせた。
自分がきっかけで、1年生がバレーに興味を持ってくれた。バレー初心者の彼に、自分ならいろんな知識を与えられる。知りたいという欲求に応えたら、きっともっとバレーを好きになってくれるに違いない。
そのことが誇らしくて、嬉しくて、気づいたら校内で彼と顔を合わせるのがちょっとした楽しみになっていった。
恋愛禁止の部則を破る新入部員をいまだに正せない。
キャプテンなのに女子バレー部をまとめきれない。そんな自分にチームメイトたちが苛立っているのはわかっていた。
慕ってくれる後輩に逃げていたのだと、キャプテンは自身の心境を振り返った。
*
「恋愛感情とか、そういうのじゃないの。本当に、アイツが菜月の彼氏だってことも知らなかった。知ったとしても、あんたの彼氏を奪いたいとか、そんなこと絶対思わないから」
「わかってます。大丈夫ですから。わたしはキャプテンのこと、これっぽっちも疑ってません」
キャプテンの弁明に菜月は力強くうなずく。相手の警戒心が薄い角度から接触を図るのは、成見がよく使う手口だ。むしろうちのバカがすみませんと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
それにさっきキャプテンは、成見に怖気付いた。その時点で彼女が菜月のライバルになることはあり得ないのだ。
筋トレどころではなくなった女子バレー部は、人気のない廊下の端で円になって、急遽ミーティングを開いていた。
とにかく状況を整理しないと話が先に進まない。うやむやにして練習を続けるには、成見(と結衣)の与えた衝撃が強すぎた。
「さっきの彼が、菜月の彼氏……マジで?」
「ええ、まぁ……」
先輩たちがおののくのも無理はないと思う。
「……市宇君って、あんな人だったんだ」
爽やか少年の本性を知った同級生たちも驚いていた。
「あれでいて、彼、菜月ちゃんにだけは優しいんですよ」
小学生の時に散々迷惑を被った梓は若干顔を引きつらせている。梓の精一杯のフォローは誰の心にも響いていないようだった。
「菜月……ホントに大丈夫? 言っちゃ悪いけど、アンタ騙されてたりしない?」
「もし困ってるようなら相談乗るよ?」
「えっと、わたしについては大丈夫です。彼とも結構長いので、どんな奴なのかはちゃんとわかったうえでのお付き合いですから」
「いや、それってもっとヤバいんじゃ……」
「たしかに頭のネジが吹っ飛んでるところもあるけど、本当は優しくていい奴なんです」
「……アンタ、彼氏にそう思い込まされてない? ……なんていうか、DV彼氏を庇ってる風にしか見えなくなってきたんだけど……」
「ないですって! だいいち成見はわたしに暴力はしませんし」
「暴力、は……、言っとくけど、言葉の暴力だって立派なDVなんだよ?」
「いやもうホント大丈夫なんで!」
ああもう! どうしてわたしがこんなことになった元凶を庇わなくちゃいけないのよ!
菜月が必死になるほどに、先輩たちの心配の度合いが増していく。
ヤバい奴と付き合っている菜月も、実はヤバい奴なんじゃないか——とか、そういった疑念を抱こうとしない彼女たちに菜月は無性に泣きたくなった。
本当に、バレー部の先輩たちは根が真面目でいい人たちなんだ。
密かに胸を熱くする菜月だったが、3年の先輩の一言で感動どころではなくなる。
「ねえ……、前に菜月の友達が言ってた『えっぐい粘着ストーカー』っての、ひょっとして……さっきのアイツのことなんじゃないの?」
3年生全員がはっと息を飲み込む。ストーカーの単語に2年生と梓以外の1年生も目を見開いて菜月を凝視した。
——ふーん、……あのえっぐい粘着ストーカーのことを相談してたの?
一ヶ月ほど前に、結衣が先輩たちのいるところで告げた言葉だ。その時の会話を菜月は頭の中で反芻し……そして、慌てた。
「違う! 違います!! アレはわたしの友達の、彼氏に対する嫌がらせというか……」
友達の結衣は成見との交際を快く思ってない。あんな奴とは別れろと常日頃から言われている。しかしそんなこと、先輩たちにはとてもじゃないけど話せない。
結衣の放った毒が今になって効力を発揮している。言った本人はこうなることを狙っていたのか? いやまさか。
キャプテンの表情がますます険しくなる。
「本当に? 菜月アンタ、人に言えないってだけで本当は本気で困ってるんじゃないの? その友達も……ストーカーとか、冗談でも友達の彼氏に対して使う言葉じゃないよ」
いやごもっとも! だけどそれを普通に使うのが結衣であって、そんな呼び方をされても仕方がないことをしてきたのが成見なんです!
「さっきのふたり、先輩たちも見ましたよね。あそこはそれなりに仲が良いから、ちょょっと過激な冗談を言っても問題ない信頼関係が築けてるんですよ」
必死の弁明に、バレー部員は納得がいかないながらも「まあ菜月が問題ないって言うなら……」と引き下がってくれた。
体育館を使える時間が近づき、ミーティングが終わる。
菜月を心配するあまり先輩たちの頭の中からは部則の恋愛禁止が抜け落ちていて、ミーティング中は誰もその話題に触れることはなかった。
*
外に出ると空はどんよりとした雲に覆われているものの、雨はあがっていた。
屋外競技の運動部がグラウンドやテニスコートなど、本来の練習場所に移動したこともあって、部室前のスペースに人はいなくなっていた。
風を通すために開かれた体育館の扉からは、放課後の前半に使用しているバドミントン部の練習風景が見えた。使用時間の終了が迫っているからか、掛け声には時間に追われる焦りが混ざっているように感じられた。
女子バレー部は部室からボールの入ったカゴや練習器具を運び出し、体育館が空いたらすぐに練習の準備ができるように備える。放課後の後半に体育館使用が割り当てられているときの、いつもの流れだ。
慣れた手順だから粛々とこなしているが、その実彼女たちを取り巻く空気にはぎこちなさが隠しきれていなかった。
昨日まであった、菜月やキャプテンを無言で責めるギスギスした感じはないが、それでもどうにもならない居心地の悪さが付きまとう。
成見の乱入は事態をややこしくしただけで、結局のところ、問題は何も解決していないのだ。
これからどうしよう。
重い気持ちでため息をついた菜月のすぐそばで、同じ1年生のバレー部員が興奮を隠しきれない様子で話していた。
「市宇君ってたしかにヤバめだけど、でもよく考えると……あれって、好きな人のことを思っての行動だったんだよね」
「ホントそれ……彼女のこと助けにきてくれたの、ちょっとキュンとしちゃった」
……どこが? あんなのただのありがた迷惑でしょうが。
他人事。もしくは少女漫画や恋愛ドラマの感想を語り合うような言い草に、菜月の顔から表情が抜け落ちる。
「いいな〜菜月、わたしもアンタみたいな恋愛してみたいよ〜」
成見との交際をふざけた調子で茶化されて、とうとう菜月の中でプツリと何かが切れた。
「お花畑の頭で無責任に語ってんじゃないわよ!」
叫ぶような怒声に同級生だけでなく、先輩たちも驚いて菜月に注目する。部員たちの視線を集めてしまったことはわかっていたが、怒りの噴火を止められなかった。
「キュンとしたとか、簡単に言ってくれるわね。わたしは成見にときめいたことなんて、出会ってから今までアイツのすることに100回頭抱えさせられて、2、3回あったかないかくらいのものよ」
これは誇張でもなんでもない。若干結衣のやらかしも回数に換算されている気もするが、興奮した菜月はそれに気づけない。
「昔のアイツは、今の比じゃないくらいにヤバい奴だったわ。周囲にわたしの悪評流してわたしを孤立させて、頼れる人間は成見しかいない状況を作り出すとか、そういうことを平気でやってくるクソ野郎だったの!」
独占欲が強すぎて菜月の意識が他人に向くことを許せない。かつての市宇成見は、子供ながらに邪悪だった。
「そんな最低な奴が、時間かけてやっとわたしの気持ちを考えてくれるまでになったの! バレー部に入るって言ったときも、頑張れって、送り出してくれた」
——アンタじゃわたしを幸せになんかできないわよ。思い上がってんじゃないわ。その腐った根性叩き直してやるから覚悟しなさい。
小学校のころから、菜月はずっと成見から逃げずに向き合い続けた。
同級生が成見の溺愛を羨ましいというが、それは菜月の努力が身を結んだ結果でしかない。
「わたしが成見を変えたの!」
自分の好みに。
自分が理想とする男性像に。
菜月の望んだとおりに、成見は変わろうとしてくれた。
「……こんなの……好きになるしかないじゃない……」
感情の爆発に耐え切れず、菜月の目からボロボロと涙が溢れた。
——なっちゃん騙されちゃダメだよ。成見は元々マイナスに振り切れてたのがゼロに近いとこまで戻ったかもしれないけど、アレは良い奴でもなんでもないよ。変わったっていっても、最低のクズがただのクズになっただけだからね。
結衣はそう忠告してきたけど、好きになってしまったものはどうしようもない。今日においても成見(と結衣)のやらかしは毎度頭痛の種になっているが、それでも、自分の気持ちに嘘はつけない。
嗚咽を漏らして泣きじゃくる菜月を、先輩が宥める。
同級生たちは気まずそうにしながらも梓に視線を送った。
さすがに嘘……までいかなくても誇張入ってるよね——? と、菜月の訴えを否定してほしそうな視線を受けた梓だったが、彼女は嘘なものかと神妙な面持ちで小さく首を横に振った。