中学1年・5月(1)
彼氏がいるにもかかわらず、恋愛禁止の部活にそれとは知らずに入部してしまった。
菜月は当然、成見と別れたくない。しかし女子バレー部の先輩たちは、菜月に恋人との交際を諦めさせようと圧力をかけてくる。部室にひとり呼び出されて先輩たちに囲まれるようなことは4月にあった一度きりだったが、その後もキャプテンを主にした一対一の説得が続いていた。
5月の大型連休が明ける頃には、菜月と成見の交際はクラスだけでなく1年生全体に知れ渡るようになった。
もとから小学校が同じだった同級生の間では有名だった話だ。ふたりの関係を知っている者からしたら、もはや当たり前となった日常の光景になんの疑問も抱かない。
しかし何も知らない同級生には、学校で四六時中行動を共にしている男子と女子がいたら不思議に思うし、二人の仲を勘繰らないはずがない。
「市宇君と咲田さんていつも一緒にいるけど……もしかして付き合ってるの?」
「知らなかった? あのふたりは小学校の時からあんな感じよ」
クラス内で囁かれた話題は、瞬く間に教室を越えて広がった。
当然、うわさは1年の女子バレー部員の耳にも入り、まわり回ってやがて2年の先輩たちにも知られ、菜月に彼氏がいることは部員全員が把握するに至った。
そこからバレー部がギスギスしていくのに、そう時間は掛からなかった。
3年生の先輩たちは彼氏と別れようとしない菜月に苛立ちながらも、どうにか他の新入部員と平等に接しようと自分の感情を抑え込んだ。
2年生の先輩たちの菜月に対する当たりは、3年生よりもキツかった。部則を守らない生意気な後輩への指導を渋り、二人一組で行う練習メニューで菜月と組むのを彼女たちはあからさまに嫌がった。それでも3年生からの通達を守って、菜月を個人的に攻撃するようなことだけは思いとどまる。
しかしそれも時間の問題だろう。次第に2年生の不満は菜月ではなく、菜月を説得しきれないくせに「この件には口出し無用」と偉そうに命令してくる3年生へと向けられるようになっていく。
女子バレー部の不和の原因が誰にあるのかは明らかである。
話し合いで解決しないなら退部するしかないと菜月は覚悟を決めていたが、先輩たちは菜月が部活を辞めることにも「そこまでしなくても……」と難色を示した。
理由は単純。新入部員の中で菜月はずば抜けて運動神経が良く、高身長。しかも教えることへの理解が早いうえに、飛んでくるボールを怖がらない。将来有望な原石を彼女たちは手放したくなかったのだ。
すべては菜月が彼氏と別れたら丸く収まる。それ以外の解決方法は先輩たちに最初から存在せず、ゆえに菜月が知恵を絞って捻り出した妥協案は検討の余地もなく却下された。
部活中は彼氏の話題は口にしない。
部活中は、彼氏といっさい連絡を取らない。
引退までは部活優先になることを、彼氏に納得してもらいます……。
——そんなんじゃダメ。特例を認めたら他の部員に示しがつかないでしょ。
話し合いで毎回キッパリと断られては、さすがの菜月にも退部の2文字が脳裏をよぎった。
菜月だったらエースになれる。1年でレギュラーを狙える。これってすごいことなんだよ——。
先輩たちの説得が心に響かなくなっているあたり、自分にとっては部活よりも恋愛(成見)が大切なのだとあらためて痛感させられた。
菜月は当初、ちゃんと話し合えば先輩たちも自分の交際を認めてくれる自信があった。
今にして思えば、根拠のない自信だ。
だって付き合ってるといっても、相手は成見だ。
小学生にして悪質極まりないストーカーになろうとしていたバカが心を入れ替えて、とうとう菜月の彼氏の立ち位置を掴み取った男である。
出会いから交際に至る経緯は紆余曲折の連続だった。
あれだけ苦労して今があるのだから、先輩たちも成見との交際を認めてくれるはずだ……。
心のどこかで菜月はずっとそんな思いを抱いていた。
自分と成見の関係性は例外として許される——特別——なのだと、過信していなかったといえば嘘になる。
結局のところ菜月にとっての「特別な体験」は、無関係な人たちからしたら「ありふれた恋愛」にすぎなかった。
今のバレー部に、入部の決め手となった良い意味での張り詰めた空気はない。
練習中の空気は常にギスギスしていた。思い通りにならない後輩に気を削がれ、先輩たちの集中力は格段に落ちた。
新入部員は別の意味で菜月を悩ませた。
女子バレー部の1年生は菜月に対して多少のよそよそしさを見せてはいた。しかし入部してから日が浅いこともあって、部活のために彼氏と別れさせられようとしている菜月に同情的な者ばかりだった。
菜月と出身小学校が同じ同級生——梓が、菜月と成見がいかに相思相愛かを同級生に熱弁したのも影響しているのだろう。
新入部員の間で芽生えた仲間意識は、同時に上級生たちとの間に軋轢を生んだ。
さらには恋愛禁止の部則に従わない部員が放置されている現状。1年生は「恋愛禁止は一応部則になってるけど、別に守る必要はないものだ」と認識を変えていく。
曖昧さが部内の空気を弛ませる。今はまだ態度に出すことはないものの、次第に下級生は先輩を軽んじるようになっていった。
——恋愛禁止って言われたけど、「推し」を作ることはダメって言われてないよね?
恋愛は駄目だけど推し活は許されるのか。そういった禁止のグレーゾーンを先輩のいないところで探り合う。最終的には「菜月の恋愛が許されるなら、自分たちも大丈夫。部則なんてその程度のものだ」と1年生は受け止めたようだ。
新入部員のスタンスを2、3年生が受け入れるはずもなく、今年の1年生は生意気だとみなされた。
学年での対立が深まり、バレー部全体に嫌な空気が立ち込める。
菜月が入部の決め手にした明るくも締まりのある部の雰囲気は、その頃には感じられなくなっていた。
*
自分は間違った主張はしていないと、菜月は今でも断言できる。
でも、自分の正しさがバレー部に不和をもたらしたのもまた事実だった。
互いに譲れない主張をぶつけあって、相手の譲歩を期待するばかりではどうしようもない。正しさだけでは集団をまとめることはできないのだ。
分かり合えないなら仕方がない。これまでだって、話し合いで解決できないことはいくらでもあったではないか。
これ以上、先輩たちを困らせるわけにはいかない。
成見に隠し通すのも、もう限界だ。
一度頑張ると決めたことを短期間で諦めるのは悔しい。でもわたしが意地を張り続けた結果、憧れて入部したバレー部を自分が壊してしまっては本末転倒じゃないか。
粘るのは5月いっぱいにしよう。
それまでに先輩たちに交際を認めてもらえなかったら、部活を辞める。
5月に入って3週目の月曜日。菜月はそう決意した。
*
結衣ほどではないにしても、菜月は空気の変化に気づける部類だ。そして部活内の険悪なムードに居心地の悪さを覚える程度には繊細だった。
ギスギスの原因が自分にあることもわかっているので、先輩たちが向けてくる怒りを不当だとは思わない。問題が解決しない状況でバレー部に居続けるなら、彼女たちの怒りから逃げるわけにはいかない。
結衣だったらこういう場合、顧問の先生や学校を巻き込んで、部員が勝手に決めた部則にいったいどれだけの拘束力があるかを徹底的に詰めていくだろう。親友のやり方は想像できたけど、自分にそれができるかはまた別の話だ。
わたしは先輩たちの決めたことを、歪めたいわけじゃない。
正義感の強い菜月は裏でコソコソ動くことはせず、真正面から先輩たちとぶつかる道を選んだ。自分にはこっちのほうが性に合っているし、これで無理なら、それまでだ。
そんな折。
菜月がバレー部の在籍に自分なりの期限を設けたタイミングと前後して、部活内ではおかしなことが起きはじめた。
それまで菜月に集中していた先輩たちの怒りの矛先が、少しずつ……ほんの少しずつキャプテンに向けられるようになったのだ。
バレー部のギスギスした空気は変わらない。菜月に手を焼いていた時よりも、先輩同士の仲は険悪になっている気がする。
はじめは新入部員を制御できないリーダーにチームメイトの苛立ちが徐々に蓄積されているのではと心配した。だけど注意深く観察していると、事情はそれだけではないようで……。
「なんなのアイツ……」
「ほんっと、ありえないんだけど」
キャプテンは彼女の同級生からも顰蹙を買っていた。
「陰でコソコソしてるの、バレてないと思ってるのかな」
「菜月にあれだけ言っておいて、これはないよねー」
そこから数日が経過すると、2年生もキャプテンのいないところで陰口を叩くようになった。
状況が理解できない1年生も、とりあえずキャプテンが先輩たちに嫌われたことだけはわかった。
菜月の問題をそっちのけにして、バレー部がバラバラになっていく。
菜月のことは後輩だからと遠慮していたところがあったのだろう。2、3年生は、キャプテンに対して菜月以上に容赦がなかった。
部内の空気が日を追うごとに険悪になっていく。
事情を知らない1年生は、戸惑いながら先輩たちに何があったのか憶測を並べることしかできない。
自分を置き去りにして、物事があらぬ方向へ進んでいく状況。
強烈な既視感に「まさか……」と嫌な予感が菜月の脳裏をよぎる。
この感覚はこれまで何度も味わってきた。
真夏のブリザーとのときも、結衣と成見が共闘して菜月を付け狙っていた変態オヤジを撃退したときも——。
友人たちが何かをしているのはわかるのに、菜月はいつもかやの外。あの疎外感はいつになっても忘れられない。
しかし今回がそれと同じという確証はない。先輩たちは自分たちの揉め事に1年生が関わるのを良しとせず、なかなか事情を聞き出せないのがもどかしい。
「ひょっとして、菜月ちゃんのピンチに市宇君が裏で暴れてるのかもねー」
冗談めかした梓の言葉に、菜月は全然笑えなかった。
*
5月最後の金曜日。その日はあいにくの雨で、体育館が使用できるまでの時間、バレー部は屋外練習のメニューを筋トレに変更した。
部室練の前や渡り廊下といった屋根のあるスポットは、普段グラウンドで練習している運動部に確保されてしまったため、彼女たちはトレーニングの場所に校舎1階の人の出入りが少ない廊下を選んだ。
腕立て、プランク、スクワット……と、ひととおりの筋トレメニューを全員でやり終え、その後は各自の自主トレの時間となる。
1年生は2年生の先輩とペアを組んで様々な種類の筋トレを教えてもらっていたが、しばらくして状況が変わった。
お手洗いに行ったキャプテンが、いつまで経っても戻ってこないのだ。
アイツまさか……。
先輩たちの空気がピリついたちょうどその時、近くの階段から制服姿の女子生徒が下りてきた。
「おっつー、がんばるねぇ」
どうやら3年生の先輩の友人だったらしく、バレー部の集団に気さくに手を振ってくる。
「ねぇ……あのさぁ、上でウチらのキャプテン見なかった?」
低い声で尋ねた先輩に、彼女はあっさりと首を縦に振った。
「うん、いたよ? 前に言ってた1年男子とおしゃべり中だったわ」
それを聞いた先輩たちの怒りがはち切れんばかりに膨れ上がる——よりも先に、菜月は彼女の指差した階段を一段飛ばしで駆け上がっていた。
「えっ、あ、ちょっと菜月っ」
困惑しながらも2、3年生がそれに続き、遅れて1年生が追いかける。
2階の廊下は野球部がトレーニングの一環で延々と雑巾掛けをしていた。トイレの前も行き来が頻繁にされているためか、キャプテンの姿は見当たらない。
ならば3階か。
すぐにターンして、階段をさらに登る。
「……ごめん、そろそろ練習戻らないと」
キャプテンの声が聞こえた。廊下に出る直前で菜月は足を止めた。
「そうですよね。練習中に引き留めてしまってすみません」
次いで耳に入ったその声に、頭からサッと血の気が下がる。
「いやっ、バレーに興味を持ってくれるのは本当に嬉しいんだよ。チームを応援してくれるってのも、正直嬉しいし、やる気出るから」
「ふふっ、そう言ってもらえると俺も嬉しいです。先輩かっこいいから、そういうひとつのことに真剣に取り組んでるところ、すごく憧れます」
「〜〜〜〜っ、アンタってホントにストレートに言ってくるね」
「それが俺の持ち味ですから。……あ、でもカッコイイてのちょっと訂正。そうやって照れてる顔は、可愛いかも……」
「もうっ、そういうのやめてったら!」
否定はするものの、満更ではないようだ。
階段を上がりきって廊下を曲がったすぐそこにキャプテンがいる。
菜月に追いついた部員たちも途中から会話を聞いていて、普段よりも乙女度が増したキャプテンの声音にある者は怒りを露わにして、またある者は引き気味になっていた。
菜月はというと、足元まで下がりきっていた血が全身に戻るのと同時に、燃えるような怒りに見舞われた。
怒りの矛先はキャプテンではない。話し相手の1年男子にだ。
現場を抑えるために菜月を下がらせようとした先輩たちを振り切り、迷うことなく廊下へと踏み出す。
後輩の姿にギョッとしたキャプテンは、この際どうでもいい。
「……アンタ、何やってんのよ」
地を這うような低い声で言い放った菜月は、先輩をたぶらかしていた1年男子——市宇成見を鬼の形相で睨みつけた。