プロローグ
黒猫の目は死んでいた。
「つまり春樹たちの側にいたいなら、わたしは無能であるべきだ——、と」
感情が抜け落ちた顔で淡々と、黒猫は眼前の人物に言い放つ。
「先生はそう言いたいのですね」
口調は確認ではなく断定だった。否定したところで、黒猫は聞き入れないだろう。
対峙する教師はため息をこらえ、黙って人差し指でこめかみをかいた。
もともと感情の起伏を他人に見せようとしないタチではあったが、今の黒猫からは悲壮感や諦め、退屈といった心の変化すら窺うことができない。
めんどくせえ——と。
教師は数秒間我慢した分だけ盛大に、肺の空気を空にする勢いで息を吐き出した。
これは思ったよりも重症だ。
「関係の修復は難しいってか?」
「わたしは自分を曲げるつもりはありません」
廊下の窓から見える空は厚い雲に覆われていて、先ほどからぽつりぽつりと雨が降り出した。
教師が何気なく外を見上げて「いい天気だな」と言えば、おそらく黒猫は特に考えることなく「そうですね」と適当に返すだろう。
感情も気分も何もなく。他人の言動などどうでもいいと言わんばかりに。
しかし黒猫は、とある一点だけはかたくなに譲ろうとしなかった。
教師が話題を振る気配をみせるとあからさまな拒絶を示し、冷ややかに睨んでくる。
「先生は、わたしが友人と円満な関係を築くためには、何もしてはいけない。役に立とうなんて考えず、貢献を望まず、黙って仲良しの輪を作ることに徹すればいい——と。そう言いたいようですね」
——ちげえ。
言いかけて教師は口を閉ざす。
反論は無駄だ。どうせ屁理屈をこねくり回して言い返されるだけだ。
真っ黒な無感動の瞳で見つめてくる女子生徒に、教師は沈黙を貫いた。
「それって、あいつらの側にいるのは別にわたしじゃなくても誰でもいい。むしろわたしは、いないほうがいいってことですよね?」
あえて悲観的な言い方をして、相手からの「そうじゃない」という否定から入る慰めを期待しているわけではない。
彼女がそういう人間だったなら、この教師は最初から放課後に呼び止めてはいなかっただろう。
黒猫のことは出会った当初から面白い奴だと思っていた。
実際に、教師が中学2年時の黒猫たちの担任を担当した時は楽しくて仕方がなかった。それなのに……今の黒猫には、昨年教師が彼女の担任をしていた時の静かな気迫が微塵も感じられない。ここまで腐ってしまうとさすがに興ざめだ。
本来なら、近くにいてもつまらないと判断した者を彼は即座に切り捨てる。自分が無情な人間であることを、教師はとっくに自覚していた。
しかしこの黒猫の場合だけは、そう簡単に見放すわけにはいかなかった。
なんせこいつは、ひとりで自滅するだけじゃ終わらない。
壊れていくのも腐っていくのも、望み望まぬ黒猫の意思に関係なく、周りを巻き込んで潰してしまいかねない危険をはらんでいるのだから。
黒猫——高瀬結衣とは、それだけ異質で異常な存在なのだ。
そんな一歩間違えれば無差別テロを引き起こしかねない要注意人物が、現在進行形で自暴自棄になっている。
これは非常によろしくない。
——おい、飼い主。まじでどうにかしやがれ。
心の中で毒づくも、教師はそこまで黒猫の仲間に期待していない。
飼い主といったところで、彼も黒猫と同じ年の、教師からしてみればまだまだ子供だ。
当然間違いもするし、この件もあいつ自身が悩んで悩みに悩み抜いて、そこから答えを出して前に進む必要がある。
「あそこに居るためには、わたしは自分の特性を発揮してはいけない。ということは、あいつらの側にいるのはわたしでなくても、別に誰でもいいと言っているのと同じでしょう」
淡々と話す黒猫に、教師は反論しない。
黒猫が口の両端を吊り上げた。
笑っているのではない。ただ笑っているように見せているだけだ。
「側にいるなら、わたしはみんなの役に立ちたいです」
話は終わりだと言わんばかりに黒猫は教師に背を向けた。
「正直なところ、お前はどうなりたいんだ?」
挨拶もなく立ち去ろうとした背中に問いかければ、足が止まった。数秒間硬直した黒猫は、軽く教師に振り返る。
「幸せになってほしいです」
端的に告げて、彼女は廊下を階段のほうへと行ってしまう。
違げえよ。あいつらについて訊いてんじゃねえっつの。
今のは絶対に、質問の意図をわかっていながらはぐらかして逃げただろ。
——……それにしても、どうしたものか。
これから起きるであろう事態は、ある程度予想がついている。
決定してしまったことは覆せない。
それについてはできる限りの措置を施したつもりだ。もはや先のことはあいつに期待するしかない。
ここで教師が憂慮すべきは黒猫と、黒猫が「仲間」と呼ぶ者たちについてだ。
基本手出しをするつもりはない。
しかし気にかけていた生徒たちなだけに、教師にとってこの展開はあまりにも面白くなかった。
もうじき黒猫たちはこの中学を卒業する。
せっかくの稀有な縁を、これきりにしてしまうのはあまりにも惜しい。
——さあて、どうしてやろうか……。
教師——柳 虎晴は虎視眈々と策を練り始めた。