30話 元婚約者からのありがたくない申し出
「魔石の浄化が進まなくてね。王城内がとても暑いんだ」
「夏ですからね」
「君がいたころは違っていただろう?」
「私が魔石を浄化していましたから」
「同じように浄化してくれないだろうか」
「どうして私が?」
「その代わり、この朝露城を君にあげるよ。好きなだけ住めばいい。ぼくもときどき会いに行くからそのとき、お茶や食事をしよう」
リシェルはにっこりと笑ってアリスに言った。
「ね? ほら。そしたらぼくと君は元通りだ」
ぞっとした。
意味が分からない。
元通りもなにも。
リシェルはアリスと婚約破棄をしてスー・ミラを新しい婚約者として迎え、アリスはカレアムの妻になったのだ。
「私はもう公爵の妻なんです」
「離婚すればいいじゃないか。そもそもぼくへのあてつけ……」
「だったとしても、私はもう王太子妃ではありません! 王都の魔石浄化は王太子妃と王妃が中心となって行うことです。私の配置は公爵都に変わりました! もうお手伝いはできません! それを伝えにきたのです!」
アリスは大声で断言した。
このところの疲れもあったからだろう。
貧血の前触れのように目の前がちかちかし、仕方なくアリスは荒い息のままソファにくずれるように座った。
「私は公爵都に帰ります。それが私の居場所だからです」
「ぼくがこんなに困っているんだよ?」
リシェルが不思議そうに小首をかしげた。
「いつものアリスならぼくのことを助けてくれたじゃないか」
「それはあなたが私の夫になるかもしれなかったからでしょう⁉ そして私の使命は王都の魔石浄化だったから!」
何度同じことを言わせる気だと怒鳴りつけたくなる。
「ねぇ、アリス。強情なことを言わずに仲直りしようよ」
困った子だと、リシェルは苦笑いした。
「辺境に行ってなにが楽しいのさ」
「楽しいとか楽しくないかとかじゃないんです! 私はカレアム様の妻で!」
「あの男なんかよりぼくのほうが君のことをよく知っているよ。あんな男のなにがいいの。目を覚ましなよ」
リシェルはため息をつく。
「いつまでも王都にいていいんだよ? ぼくのそばにだっていられるようにしてあげる。だからほら、その代わり魔石を浄化して」
「なにがその代わり、よ!」
アリスはとうとうぶち切れた。
「あなたが私の何を知っているっていうの! なにを見ていたって言うの!」
「ぼく以外の誰が君を大事にしてくれるっていうの」
リシェルは笑う。
「魔石浄化にしか力がない君の価値を、最大限に引き出せるのはぼくだけなのに」
はっきりと「それしか価値がないくせに」と言われてアリスは胸をどんと突かれた気分だ。
きっとカレアムに出会う前ならそのまま気力をなくしていたかもしれない。うなだれて次の言葉もなかったかもしれない。
だがいまはちがう。
カレアムに必要とされている自分は違う。
アリスは不敵に笑って見せた。
「魔石を浄化しろと王太子殿下はおっしゃる」
「そうだよ。とりあえず、この魔石を明日までに」
「できません」
「どうして。これぐらいいつもやっていたでしょう? ねえ」
リシェルが侍従官に尋ねる。侍従官も深く頷くので、アリスは笑った。
「あなた、本当に私のことをなにも見てないのね。王太子殿下、私は確かにこれぐらいの魔石の量でしたら浄化して明日の朝いちばんにお渡しすることは可能ですよ」
「だったら」
「ですが、いまの私には無理です」
アリスはリシェルをにらみつけた。
このぼんくら王太子はなにも見ていない。
王太子妃時代の三年間。アリスがどうやって魔石を浄化していたのかまるで知らない。
蒸留器が必要なことも。作成した蒸留水がいることも。顕微鏡で確認することや、特別仕様の絹布で磨き上げることも。
「私がどうやって浄化しているのかご存じないんでしょう?」
「どうやってるんだっけ。君はいつもすぐにしてくれたよね」
無邪気にリシェルが尋ねるから、アリスは笑った。
「カレアム様はご存じですよ? それなのに王太子殿下はご存じない。誰よりも私のことをご存じだと豪語なさるそのお方が」
両腕を広げてわざと強調してやる。
「その方法をご存じないのであれば、私だけを連れてきて『浄化しろ』と命じるのも無理はないことですね」
嘲笑うアリスを、今度ははっきりとリシェルはにらみつけた。
「黙れ」
「ご命令の通り、黙りましょう。ですがこの魔石の浄化は無理です」
アリスが言い返すと、リシェルはテーブルの上の魔石をつかみ、いきなりアリスに向かって投げつけた。
ばちり、と大粒のものがアリスの額にあたり、強烈な痛みが頭を揺らす。
「やれよ! 浄化を!」
今度はいきなり胸倉をつかんで立ち上がらされた。
鼻と鼻がくっつきそうな距離ですごまれるが、アリスはきっぱりと首を横に振った。
「できません」
アリスの視界のすみでリシェルがこぶしを振り上げるのが見えた。衝撃にそなえるように目をつむり、奥歯をかみしめたとき、たくさんの荒々しい足音が室内になだれ込んできた。
「アリス様!」
「いました! こちらです、公爵!」
聞き覚えのある声に目を開いた。
開けられた扉から飛び込んできたのは、サリル近衛兵とテト近衛兵だ。
いや、いまは近衛兵の制服は着ておらず、ふたりとも平服に剣を着用しただけの姿。
(なぜ彼らが……)
呆然と立ち尽くす。




