17話 なにもないまま迎えた朝
目を覚ました時、視界に入ってきたのはカレアムの喉だった。
だがまだ寝ぼけたアリスにはそれがなんだかわからず、結果的に指で押してみた。
「がはっ!」
盛大にむせ返り、カレアムが跳ね起きた。
跳ね起きたカレアムを見て、ああ、これは彼の喉で、自分はいままで彼に抱きしめられて眠っていたのかと気づいた。
「こ、殺す気か!」
カレアムが何度か咳ばらいをしてにらみつける。
室内の照明は最低限のものだったが、それでももう明るい。朝だ。
「私、あのまま寝ちゃったんですかね」
「いきなり寝たな」
「そうですか」
むくりとアリスも上半身を起こす。
なんというか、まったく乱れた様子はない。眠る前となんら変わりはなかった。
ただそのことについて落ち込むことも焦ることもない。
昨日、さんざん思いのたけをぶちまけたからだ。
それを聞かされた結果がこれ、ということはもう《《脈なし》》なのだろう。
アリスはふう、とひとつ息を吐くと、気持ちを切り替えた。
「短い間でしたがお世話になりました」
座ったままぺこりと頭を下げるアリスを、カレアムはいぶかし気に無言で見ている。アリスはつづけた。
「明日にでも荷物を片付けて尼僧院に行きます」
「……なんで尼僧院」
「実家にはもう戻れないですからねぇ。王太子に知れたら『ぷぷ。やっぱり失敗してやんの』と逆ざまぁですし。『だから僕の側にいろっていったろ?』とか言いそうで怖い。なにより兄が大砲を積んで公爵都に来てぶっぱなしそうですし」
「だからなんで屋敷から出て行くんだ」
「私と仕方なく結婚したんでしょう? もともとほら、王太子をざまぁしたいから、とかおっしゃっていたし」
アリスは肩をすくめた。
「まあ、ざまぁはできましたが、私はやっぱりちゃんとした結婚生活をしたいので。なんかこう……ここにいても所詮おかざりなら、私は……」
「ちょっと待て。だいぶん誤解が生じている」
カレアムが眉根を寄せたまま言葉を遮った。アリスはきょとんとそんな彼の顔を見つめた。
「誤解?」
「少なくとも俺の方はちゃんとした結婚生活を希望している」
「誰と」
「君と」
「ご冗談を」
「ご冗談ではない」
「いいんですよ、そんな優しいウソ。私は昨日、愚痴につきあってもらっただけでありがたくおもっています」
アリスはにこりと笑ったが、カレアムの方はというとむっつりしたまま舌打ちした。
「君がそこまで思い詰めているとは思いもよらず……。いまさらだが説明をさせてもらっていいだろうか」
「説明? 弁解ではなく?」
「公爵都についてからというもの、忙しくて帰宅できなかったのは本当なんだ。セレディナが次から次へと提案書を持って来るし、団員はバタバタと結婚するし」
「でも執事長もメイドたちも、『旦那様が帰ってこないのは日常』って言ってましたよ」
「それは独身の時だろう。いまは君と結婚している。俺だって早く帰れるなら帰りたかった」
「でも帰ってこなかったですよね」
「帰れなかったんだ」
アリスは小首をかしげた。
「少しも?」
「少しも、とは?」
「別に夜だけじゃなくてもいいじゃないですか、帰宅。朝ごはんを一緒に、とか。お昼の休憩の時とか。私はそもそも屋敷にずっといるんですから、公爵の時間が空いたときに屋敷に戻ることは可能でしたよね。で、私に会いに来ることはできたはず」
「………」
「可能でしたよね? っていうか、私はいつ公爵が戻ってきてもいいように準備してました」
「………」
「忙しくても休憩時間は絶対ありましたよね? そのとき、なにしてたんです? 執務棟はここから目と鼻の先ですけど」
「………」
「私も王都で毎日浄化の仕事をしていましたが、それでも時間をやりくりして王太子に合わせて生活していました。でも王太子は私にはあわせなかった。やろうとしなかったし。公爵もそうですよね?」
「…………ぐうの音も出ないとはこのことだ」
「ですよね? いいんです、だから。私なんてその程度なんです」
アリスは笑い、ベッドから足をおろした。
「やろうと思っていた、って言うけど。だけど実行してなかったら『やらなかった』と一緒なんです。もうそういうウソは十分」
立ち上がろうとしたアリスだが、ぐいと腕をつかまれて再びベッドに座らされた。
「弁明させてくれ」
「だから公爵のしているのは弁解であって……」
「もう一度言うが、君がそこまで追い詰められているとは知らなかった。明らかにこれは俺が油断していたというか、思いあがっていた」
苦み走った顔でカレアムはアリスを見つめた。
「公爵都に来たのだし、なにより結婚したのだからもう大丈夫だと。あとはゆっくり距離をつめればいいと思っていた」
言いにくそうに。ところどころ口の端をゆがめながらカレアムは言う。
なんだかその表情が、様子が。
本当に困っていて、アリスに立ち止まってほしそうに見えた。
「君の言う通り、いくら忙しくても同じ敷地内にいるのだから会おうと思えば会えたし、屋敷に行こうと思えば行けたとのだと思う。怠慢だった。申し訳ない」
アリスの腕をつかんだまま、カレアムが頭を下げる。
うなだれたその様子をアリスはびっくりして見つめた。
あの陛下の前でも威風堂々とした態度で臨み、兄君に対してもひるむことなく意見を述べていた彼。
それがいま、叱られた大型犬のような様相でアリスの前にいる。
「君のことをおろそかにしたつもりはないが、そう受け取られても仕方ないことをした」
うつむいたままカレアムが言う。
「それに……たぶんだが、君はまだ兄のことが忘れられないんじゃないかとも気づいていた。だから少し時間を置こうと思ったんだ」
長いまつげに縁どられた黒瑪瑙に似た瞳には不安と自己嫌悪の色がにじんでいた。
それに気づき、アリスは盛大に戸惑う。
そういえば昨日、「好きだったのか?」と問われ、自分は「好きだった」と返事をしてしまったではないか。
いまならわかるがそれはもう「過去形」だ。
好きだった、のだ。
だが少し前まではどうだったろう。
好き、のままだったのではないだろうか。
それを過去形になるまで、カレアムは待ってくれたということか。
アリスのために。
「……その、公爵は私と真剣結婚生活をしたい、ということですか」
「もちろんだ」
「まさか」
「なぜまさかと思うのだ」
互いに愕然とした顔で見つめあう。




