1話 婚約破棄された伯爵令嬢
「なんだってのよ、もう。あの王太子!」
アリスは、東の庭園で酒を呷っていた。
酔っているせいだろう。
理性と世間体が吹っ飛び、脳と直結した口からは、どんどん言葉があふれ出てくる。
「真実の愛だぁ? 運命の女神だぁ⁉ そんなものあるわけないじゃない!!!!!」
アリスはベンチの背もたれに上半身を預けてグラスを傾けた。
さっき、王太子の屋敷から出る前、特別になみなみと注いでもらったものだ。
ウエイターから受け取った時はグラスの1/3以下だったのだが、バーテンダーに命じて量を増やさせた。
『も、もうこれぐらいでいいですよね?』
『まだまだ!』
『じゃあもうちょっと』
『もっともっと!』
『いやこれ以上はこぼれるこぼれる!』
『いけるいける!』
そうして表面張力するまで注がせた。
それをがぶがぶと飲みながら、この東の庭園までやってきたのだった。
「だまされているのよ、ばぁか! だいたい、愛で政治ができますかって話よ! 絶対大混乱になるし! しーらない! 私、しーらない!」
アリスは大声で喚く。
森閑とした夜闇にその声は吸いこまれ、いともたやすく消える。それがまた腹立だしい。せめて木霊でも起こしてやりたい気分でアリスは息を吸い込んだ。
「王太子のバカ――――――――――!」
「そのことには全面同意だ」
「わぁ⁉」
思いがけず同意され、アリスは勢いよくベンチから立ち上がった。
それでもグラスから酒がこぼれなかったのは、大半もう飲み干していたからだ。
「だ、誰⁉」
夜の庭園ではあるが、そこかしこにかがり火は焚いてある。それに今日は満月。視界は悪くない。
グラスを握り締めて目を凝らす。
すぐそばに立っていたのは、ずいぶん長身の男だった。
夜に溶け込みそうな漆黒の髪に、黒瑪瑙のような瞳。しわひとつない軍服の上からつけている丈の短いペリースマントだけが白く、月光を受けて淡く光っているように見えた。
この端整な無表情には見覚えがある。
ふと彼の詰襟に視線を移動させた。
そこにあるのはオリーブ冠の徽章。しかも白銀。それはニールド公爵領のしるし。
「カレアム公爵……!」
「無沙汰である、アリス・ハーベイ嬢」
アリスは慌てて理性を引き戻し、片膝を曲げて頭を下げた。
公爵位を持つ彼はこの国の王子であり、王位継承権は王太子の次。ようするにリシェルの弟だ。
ただし母は違う。
彼の母は『黄昏城の君』と呼ばれた王の愛妾。彼女自身は黄昏城を陛下から賜り、生涯をそこで過ごしたが、カレアムは生後すぐに王城に引き取られ、王の実子として育てられた経緯がある。
(どうして公爵がここに?)
不審に思ったが、すぐに理由に行きつく。あれだ。兄である王太子の二度目の婚約式に参加するために公爵都から来たのだ。
「ここにいらっしゃってもいいのですか?」
さっきは驚いて酔いが吹き飛んだが、正体がわかるとまた思考がとろんとしてきた。
ちょっとぞんざいだなと思いながら、口をとがらせるようにして尋ねる。
「兄君の婚約式に参加されるのでは?」
「ああ、すぐに戻らなくてはな」
「ではどうぞ」
「戻るときは君と一緒だ」
そんなことを言われ、一瞬ぽかんとしたものの、すぐに顔をしかめた。ついでにグラスの酒を呷る。
「私を連れ戻すように言われたのですか? でしたら申し訳ありません。私は元婚約者の幸せを願えるほど寛容ではなかったようです。早々に退席してあとは庭園にいることを決意しました」
「いやなに、俺とて同じだ。兄の幸せを言祝げるほど人間ができていない」
「は? あ、そうですか」
「なあ、アリス・ハーベイ嬢」
「はい。なんですか」
「……目が座っているな」
「大量飲酒をしているもので。このあともまだ胃袋が持つ限りは飲みます」
「いや、バーテンダーに無茶を命じているのは見たが」
「そうなんですよ……。あんなにあったのに……。もうこれだけになってしまいました……」
「安心しろ、ここにある」
「なんですって⁉ お酒をお持ちで!」
つい前のめりになるアリスの前に、カレアムはこぶしを突きだすようにする。そこにはワインボトルが握られていた。
「なんて素敵な殿方!」
「君の目はワインボトルしかみていないようだが」
「とんでもありません! そのワインボトルを運んできた方を見ております!」
「……まあ、よかろう。このワインは公爵都で有名な品種で……」
「銘柄なんて何でも構いません。アルコールが入っていればいいお酒です!」
「そうか……。なんともいえんが……。とりあえず、座るか」
「ええ!」
がぶり、とアリスはグラスの酒をすべて胃に流しきった。
ぴょこんとはねるようにしてベンチに座り、ぐい、と空のグラスをカレアムに突きだす。
カレアムは軽く力を入れただけでコルクを抜くと、グラスにワインを注いでくれた。
「君に提案がある」
「もっといれてください」
「いや、これぐらいだろう」
「もっと」
「じゃあ……」
「少なっ!」
「これ以上いれると香りとかわからなくなるぞ⁉」
「公爵とあろうものが少なっ!!!」
「くっ。この酔っぱらいめ。………ではこれで」
「まだいける! まだいける!」
「いや、これ溢れ……」
「限界挑戦! 限界挑戦! 公爵の限界挑戦!」
「まじか……、これ……で、どう、だ!」
「はい、どうもぉ!」
表面張力したグラスを絶妙なバランスで口元に運び、ごくりと飲んだ。
「おいしい! これ新酒ですか!」
「酩酊しているくせにわかるのか」
「わかりますよ! 新酒が一番おいしいって私は思ってます!」
甘さ、香り、のどごし。すべてにおいて溌溂としている。
なにより鼻から抜けるフローラルな香りがアリスは大好きだった。
「でも王太子妃教育の時はあれなんですよねー。おじいちゃんやおばあちゃんたちがこぞって『うまい!』っていう古びたワインを『おいしい』って言わなくちゃいけないんですよねー……って!」
ぷーっとアリスは吹き出し、足をバタバタさせて笑った。
「もう王太子妃教育受けなくていいんだ! ああ、せいせいした! 私が好きなものを堂々と好きーって言えるんだああああああ! 高いワイン、まずい―――――――!!!! かびる直前――――――!」
夜空を見上げ、アリスは大声で宣言した。
「そして王太子のバカ野郎―――――!」
「なかなかの心意気だな」
かすかな笑い声が夜風と一緒にアリスの頬を撫でた。
アリスは顎を引いて顔をカレアムに向けた。
彼はワインに直接口をつけて飲んでいる。
「あ。私もまだ欲しかったのに……。あんまり飲まないで、公爵」
「君、まだ飲む気か⁉ 平気なのか⁉」
「うー……ん。もうおなかちゃぽちゃぼな気もするんですけど……。でもアルコールって気化するから! もう少ししたら入るかも!」
「酩酊する前に話をしておきたい」
カレアムはアリスの隣に座った。
ぎしり、と。彼の重みで座面が鳴る。その音と真剣な彼のまなざしが少しだけアリスの酔いを醒ました。若干だが。
「俺と結婚しないか?」
「はい?」
つい問い直してしまった。
互いにじっと見つめあう。そのあと、アリスは尋ねた。
「公爵、酔ってます?」
「君に言われたくないな」
「じゃからかってます?」
つい声が尖る。
王太子から婚約破棄をされた可哀そうな娘。
この1か月。宮中でアリスは好奇と憐憫と小ばかにした視線にさらされ続けてきた。
この男も。
王太子の実弟もわざわざ辺境の公爵領から来てアリスを笑いものにしようというのか。
「俺は真剣だ。真剣に、あのバカな兄に一撃をくらわすために来た」
ぎしり、とまたベンチが鳴る。
ワインを脇に置き、カレアムがアリスに身体ごと向き合った。膝に両肘をつくようにして、アリスの顔を覗き込む。
「君だってその性格だ。このまま泣き寝入りするつもりじゃないだろう? 一撃必殺のざまぁをあのバカな元婚約者にくらわしたくないか?」
その言葉は、どんな酒よりもアリスの心を酔わせた。
「くらわしたい」
気づけばぶんぶんと首を縦に振っていた。
さすがに今度はグラスからワインがこぼれて手を濡らす。だがアリスは気にもしない。
こぶしを夜空に突き上げた。
「あのきれいな顔に強烈な一発をくらわせて王都から出て行く所存です!」
「よし、いいぞ。それでこそ元王太子妃だ」
「なにか策があるのですか、公爵」
「ある。君が俺と結婚し、公爵都に行く」
「で?」
「それだけだ」
「は?」
なんか拍子抜けした。
期待値が高かっただけにがくりと肩を落とし、ついでに上半身が揺れて背中から背もたれにぶつかる。
「おい」
「あ、大丈夫です。だいぶんこぼれちゃったなぁ」
言いながらワインを飲む。もう味もしなかった。
「ついでに公爵の申し出も結構です。なんかそれほどじゃなかったっていうか」
「そうか?」
「だって私が公爵都に行ったところで……なんで王太子に一撃をくらわすことができるのかさっぱり。あ」
目をまたたかせた。
「父ですか?」
「父? ハーベイ伯爵のことか?」
「ええ。父から、王都にいたらつらいだろうから連れ出してくれ、とか言われたとか」
「いや特には。ただハーベイ伯爵と陛下から了承を得ている」
「なんの?」
「結婚の」
「誰の」
「だから君と俺の」
「なんで」
「え? 相当酔ってる?」
「いや、わかってますよ! 私と公爵が結婚するんでしょう⁉ だからなんでそれが王太子をぶちかます理由になるのかって話ですよ! そんでもってなんで陛下まで許可を!」
ぷんすか怒ってワインをまた飲んだ。
一瞬、カレアムは目を丸くしてアリスを見る。
そして急に破顔した。
「え……? ちょ……公爵?」
「いや、君、口が悪いんだな。ぶちかますって言った令嬢を初めて見た」
指摘されて顔が熱くなる。
「王太子妃にならないんだからなんだっていいんですよ! とにかく王太子をざまぁできたら!」
「その心意気やよし」
くく、とカレアムは笑う。