おのこ背中にゃ十六夜の いまもさかりと紅かえで ちとせやちとせ とわには居れぬ いまこそ群れ居 あそぶめれ
*
「涙は止めておきなさい」
冬も明けかけたある二月の午後。ひといきれでむせかえる空港の出発ロビーに、そう語る男性のやさしい声はあった。
「涙は呼吸と思考を乱します。騎士たるもの、如何な状況下でも平静でおらねばなりません」
そう続ける彼の前には、白色の制服に身を包んだ旅装姿の少女が居た。
年のころなら十前後だろうか、男は“涙”と言ったが、言われた側の少女の目は、ただただ男を見詰めるだけであり、その涙は、一瞬の気配すらも見せてはいない様子であった。が――、
「目は一点を見詰めてはならず、口は固く閉じてはなりません」
と、そんな彼女の決意と憤りが分からぬのだろうか、男は続ける。
「腰は軽く落とし、足の裏でその地の地霊を感じるようにしなさい。どの様な場面にあっても、そこに天地を通るまっすぐな線を見付けなさい。それが貴女の拠るところとなりましょう。呼吸は、長くゆっくりと。そうすればいつでも、自分と周囲の状況を――」
「師匠は――」
と、ここで少女は――この馬鹿者の長広舌を咎め切るように、そうして、絶対に涙なんか流してやるものかとの決意を見せるために――その小さな口を開いた。
「師匠は、騎士なんかじゃないじゃん」
が、自分に言えることはこのくらいである。
少女は、ひと粒だけ、涙を流した。
「たしかに」
男は続けた。
「たしかに私に騎士の血は流れておりません」
が、自分に言えることもこのくらいである。
男も、ひと粒だけ、涙を流した。
「しかし、たとえ一日でも、たとえ一瞬でも、師となり弟子となったものは、死ぬまで、師であり弟子なのです」
男は膝をつき、少女は涙を拭かれてやった。
「私も死ぬまで――いや、死んでもなお、貴女の師であり続けましょう。笑いなさい、ロクショア・シズカ。――騎士になるのでしょう?」
*
ウォン・フェイ・イェンはシオナの人。西銀河帝国帝都ク=アン近郊の生まれと言われているが、詳しい場所までは分かっていない。
目は生まれついての盲ではなく、生まれたとき、すでに父はいなかった。
母は父のことをあまり語らず、生活は楽ではなかった。
フェイが七才のとき、母子はウー=シュウへと移住するが、これは、スザン山麓で農業を営む母の弟を頼ってのことであった。
移住後しばらくして母は病死。時期的に見てその頃流行ったとある感染症に因るものと想われるが、詳細は不明。
幸い――と言ってよいかは分からぬが、叔父夫婦に子はおらず、彼らはフェイを本当の息子のように遇してくれた――と言う。
スザン山中にある帝国騎士の養成学校 《サ・ジュジ》との縁がつながったのはこの頃――とは言っても、叔父の農園で採れた野菜を運ぶ手伝いをしていただけで、騎士のことも武術のことも、この頃のフェイにはまったくの別世界の出来事であった。
そんな少年に転機――と書くには余りにも残酷だが――転機が訪れたのは十一の春。野菜をとどけ終え、山を降りる彼の目に、白い煙と朱い炎が見えた。
そうして、その煙と炎の元がどこか分かった瞬間、少年は走り出していた。
「行ってはいけません!」
と、炎の中へ――叔父夫婦の下へ――飛び込もうとした少年を止めたのは、当時騎士学校の第一厨房長を務めていたス・カイゲイ師であった。
この火事により叔父の農園は全焼。叔父夫婦も――火事ではなく――他の何者かの手により殺されていた。
帝国騎士学校のすぐそばで起きた事件であり、地元の亭長はもちろん、騎士学校の師範らも犯人探索に力を尽くしたが、夫婦も農園も徹底的に“壊されて”いたことなどから、ついに犯人が見付かることはなかった――と、その地の記録にはある。
天涯孤独となったフェイを引き取ったのは騎士学校とカイゲイ老人であったが、フェイに“騎士の血”はなく、あくまで厨房の使用人・小間使いとして引き取った形であった。
快活で朗らかだった少年の顔からは笑みが消え、スザン山中ジョ=ウチの滝へ飛び込むことも二度ほどあり、その度ごとに彼を救ってくれたのも、やはりカイゲイ老師であった。
少年は生き延び、しかし、その心にはいつも“怒り”が渦巻いていた。
「“ちから”が欲しい」
当時の彼の唯一の望みであった。
騎士の教練を盗み見ては自身も試し、調理を行なうカイゲイ師の動きを見ては身体の動かし方を覚えた。
が、それだけでは足りなかった。
叔父夫婦の仇を討つため、その相手を殺すため、この“地獄”から抜け出すため、そのための“ちから”が、当時の彼にはどうしても必要だった。
*
「おい、フェイ、すまん」と、そんなある日、ある若い師範が、彼にこう話し掛けて来た。「これにレルヌを入れてくれ」
レルヌとはこの地の料理酒の一種であるが、そう言う彼の手にはひと握りほどの竹製の水筒が握られている。ここはカイゲイ師が長を務める騎士学校の第一厨房だが、肝心の老人はあいにく留守のようである。
「しかし、師匠」そうフェイは答える。「ス師匠を待たれては?」
厨房長の許可なく酒類を持ち出すことは固く禁じられていた。いたのだが――、
「師匠には私から言っておく」と、若い師範は続けた。「とにかく、急ぎなのだ」
*
「酒だ! とにかく酒を飲ませろ!!」
と、貔貅のような男が叫んでいた。
「寒いのだ! なんでもいい! とにかく酒を飲ませろ!!」
サ・ジュジ騎士学校は、スザンでも頂上に近い場所に建てられており、ここはさらにその裏側、日中でもほぼ日の当たらぬ区域――の、またさらに奥深く薄暗い洞窟の中である。
時は冬に入り掛けた頃で、学校支給の褞袍を羽織ったフェイでもその洞窟の寒さには身も凍えんばかりであった。
が、問題の男の格好はその比ではない。
薄い麻布の貫頭衣に素手素足で、その四肢には太い鎖が巻かれ、それが彼と冷たい洞窟の壁とを繋ぎ止めている。すると――、
「そうわめくな」と、先ほどフェイにレルヌを求めた若い師範が言った。「本物とは言えんが、調理場から分けてもらった」
ガッ!
と、彼が差し出す竹筒を見るや男は、いまにも師範に襲い掛からんばかりの勢いで飛び出したのだが――、
ガギリ。
と、すぐさま、その勢いは四本の鎖に折られることとなった。
「だから」と、男のものであろう欠け茶碗にレルヌを注ぎながら師範。「そうわめくな」そう言って、それを男の口に含ませてやった。
が、直後――、
ブッ!
と云う音とともに、若い師範の顔にそのレルヌは吹きかけられることになる。
「バカにするな!」男は叫んだ。「本物の酒だ! ワシが欲しいのは本物の酒だ! こんなまがい物など飲めるか!!」
すると、この男の言葉と態度に師範は、急に無口無表情になると、茶碗の中のレルヌを地に棄て、残る竹筒も男の手のギリギリ届かぬ場所へと置いた。
それから彼は――これを運ぶのが彼の本来の役目だったのだろうが――腰袋に入れておいた一枚のアカラをワザと地面に落とすと、そのままそこを立ち去って行った。
このアカラは、その日一日分の男の食事である。
カッカッカ。
と、その場を去る師範の履音がして、フェイは、自分もここを去るべきだろう――と考えていた。
カイゲイ師の許可なく渡したレルヌの行き先を確かめるため、師範の後を尾いて来てしまったが、これはきっと見てはならぬものだったのだろう。
私も直ぐに厨房へ戻り、ここで見たこと聞いたことは直ぐに忘れるべきである。
と、彼の頭は、考えた。
が、彼の体は、そうは考えなかった。
何故なら、その男の、貔貅のすすり泣きにも似た、確かな怒りを、彼はその耳に聴いてしまったからである。
*
それからほどなくして少年は、洞窟の奥へと向かうと、先ずは地面に落ちたアカラを拾い、土を払い、細かくちぎり、男に渡した。
そうしておいて今度は、男の腹と口が落ち着くのを待ってから、先ほどの欠け茶碗に残ったレルヌを注ぎ、いつかの叔父にそうしてやったように、恭敬の礼をもって、そのまがい物を、男に捧げた。
「小僧、名前は?」と、男が訊きフェイは、
「シャ=オバ」と、嘘の名で応えた。
男が笑った。
「ならワシは、ヴァイ=シュとしておこう」
この地の方言で、“シャ=オバ”は『小さな愚か者』を、“ヴァイ=シュ”は『誰でもない者』を、意味している。
*
「なるほど。お主も騎士ではないのだな?」
と、二度目の密会でヴァイに訊かれフェイは、無言のまま、是と答えた。
それから、
「が、力は欲しい?」
と、重ねて訊かれて少年は、静かに、強く、無言のまま、あらためて、是、と答えた。
「では」
と、これに応えてヴァイが笑った。
「ワシがお前に、武術を叩き込んでやろう」
*
冬が過ぎ、春が訪れ、少年は十四才になっていた。
「涙は止めろ!」
ヴァイが怒鳴った。
「涙なぞ流せばそこから呼吸と思考が乱れる! 敵を倒すため、殺すためには、如何な状況でも平静でおらねばならん!」
先ずは自身の身体とその動きを知るところからである。
ヴァイの言葉を借りるのであれば、『騎士の身体はまがい物』であり、所詮は『暗黒時代の遺物、畸形』にしか過ぎない。ひと本来の力を引き出せれば、『伍すどころか百人相手でも負けはしない』
「目は一点を見詰めてはならん!」
怒声と共に石礫・竹杖が飛んで来る。
「歯を喰いしばるな! 口を固く閉ざすな!」
身体に凝りや滞りがあればそこから均衡は崩れ、力は歪に、小さくなる。
「腰は然りと落とし、足裏でその地の地霊を感じろ。どの様な場面でも天地を貫く真っ直ぐな線を見付けろ。それがお前の拠り所だ」
と、自身の型を演じ見せながら師は続ける。
「呼吸は長く静かに。殺す相手の呼吸を奪うつもりで行なえ。そうしていつでも、自分の想い通りに周囲を操れ」
*
夏が来て、秋が過ぎ去り、また人々に血を流させる冬がやって来た。
師弟の修業は、次の段階へと進んでいた。
「いかな騎士であろうとも、いかな冰霜・泰坦のような巨人であろうとも、ヤツらも所詮は生き物、急所は我々ひとと変わらぬ。額、目、こめかみ、乳様突起……先ずは自身の身体を診て、その場所を覚えろ。躊躇ってはならん。必ず相手を仕留める積もりで行なえ」
ヴァイの指導は十日に一度、カイゲイ老師が麓の村に出向く夜を選んで行われた。
その夜以外はフェイひとり。人目の付かぬ朝と夜、それと厨房の休み時間を使い、薄暗い林の中、黙然と、ひとを殺す修行を重ねた。
「喉頭隆起を撃ちつつ動脈も狙え、切ることが出来れば血は噴き出し、外れても呼吸を止めることは出来る」
ガッ。
と、仇に見立てたウラムの木を撃つ。
「胸骨があっても隙間からなら心臓は狙える。砂に指を立て、硬くすることを覚えろ」
ヒュッ。
と、自身の身体で覚えた人体の急所を想い出し、拳を繰り返す。
「金的、膀胱、鳩尾。同時に膝や脛も狙い、相手の動きを止めることも忘れるな」
顎、肺、肝臓、頸椎、肩口、肘後部……ウラムの木が崩れ、後ろの岩壁に向かう頃、少年は十五の春を迎えていた。
*
ぴゅぅいっ。
と、西の空で鳥の鳴く音がし、
ポンッ。
と、少年の頭に何かが落ちて来た。
「すまんな、お若いの」
振り返ると、上の土橋に小さな老人がひとり立っていた。落ちて来たのは、どうやら彼の履のようである。
「もののはずみで落としてしまった。持って来てはくれぬか?」
土橋とフェイの立つ位置を考えると“もののはずみ”と云うのは流石に妙である。
フェイは怒り、この老人を殴ろうとしたが、相手は小さく、粗服をまとった明らかな老いぼれである。
フェイは履を拾い上げると土橋の老人のところまで昇って行ってやった。
すると老人は、「これも次いでじゃ、履かせてくれぬか?」と、訊いて来た。
そこでフェイは、せっかく上がって来たのだから、そう考え、そのまま跪き、老人に履をはかせてやった。
老人はこれを足で受けると、フッと笑い、ピョンッと山下へと飛び降りて行った。
フェイは驚き呆れ、老人を見送っていたのだが、今度はなにを想ったのか老人は、突然山を引き返して来ると、
「わしは南止水の礼学士じゃがの」そう続けた。「お主によいことを教えてやろう。三日後の朝早く、ここでまた落ち合おう」
*
「老人と約して遅れるとは何事だ!」
三日後の早朝、フェイに会うなり老人は怒鳴った。
夜明けに合わせ土橋へ向かったフェイよりも早く、彼がそこに着いていたからである。
「帰れ、帰れ、帰れ」と、手にした白杖を振りつつ老人は言うと、「まったくここは小間使いさえ質が落ちた」と、そのまままた山を飛び降りて行った。
ふたたびフェイは驚き呆れ、山を降りて行く老人を見送っていたのだが、今度はその途上で老人は振り返り、「三日のち、また朝早く会おう」と、そのまままた消えてしまった。
更に三日後の早朝、フェイは鶏の鳴く時刻に土橋へと赴いたが、またしても老人は先に来ていた。
「なんぞ使えんガキじゃのう」と、老人は怒って言い、「お前に教えることはない。帰れ」と白杖を振り回したが、今度は去り際に「三日のち、もう一度朝早く会おう」そう加えた。
更に三日後、フェイは夜中のうちに宿房を抜け出し土橋へと向かった。
しばらくすると老人が来て、「こうでなくてはいかん」と言って笑った。
それから、老人はフェイを、彼が崩したウラムの木まで連れて行くと、「筋はよいがな、小僧」そう彼に教えた。「これでは勝てんよ」
このとき老人は敢えて、“何に”或いは“誰に”勝てぬのかを言い落したのだが、その代わりに彼は「よければワシが、手ほどきをしてやろう」と、クルリ。と舞いつつ笑った。
これが四二〇七年の春のことで、十日に一度のヴァイの指導と同じ日の早朝でもあった。
*
「急所を狙うな」とは、指導を始めた老人が最初に伝えた言葉である。「どんなに冷静であっても、そこには僅か以上の殺気が乗る。それがお主の切っ先を鈍らせとるのだ」
老人は名を“與田”と言い、東に向かうためここで友人を待っているとのことであった。
「およそ礼は簡略に始り文飾成就、人を慶ばせて終わる。礼を完全に整わせれば情・文ともに尽き、情・文ともに勝つ。そうして再び情へと戻り、太一に帰する。――分かるか?」
この頃のフェイに老人の言葉は何ひとつとして分からなかった。が、それでも彼は貪欲に――二人の師に仕えてでも貪欲に――“ちから”を欲しがっていた。
*
「うん。よく修行しているようだな、気の淀みや滞りが減っている」
夏が始まる頃、洞窟のヴァイが言った。
この夜の彼は彼で、なにやら愉しそうである。
「ワシの技にも新たな進展があった。まだ見せることは出来ぬが、完成したらお前に見せてやろう」
彼を知る者、特に彼をここに繋ぎ止めている者が聞けば耳を疑ったであろうが、こう言ってしまった彼のこころには、ただただ、その技――これは後に『臥鳳』と名付けられることになるが――を、“弟子”に見せたいと云う気持ちだけがあった。
*
崩れていたウラムの木にも白い花が咲き、スザンの山にも幾度目かの秋が訪れた。
「それではワシはもう行くがな、決して鍛錬を怠るではないぞ」と、旅装姿の與田老人は言った。
「お主は筋もよく素直だが……」が、ここで彼は言葉を切ると、少しく考えるふりをしてから、「いや、とにかく鍛錬と修養を怠るな」とだけ加えた。「縁があったら、また会えるじゃろう」
坂の下では騎士だろうか? こちらも旅装姿の男性が老人を待っている。
「礼によって天地は調い、日月は明らかになる。四時は序を守り、星辰運行、河川は流れ、万物は栄える――よいか、小僧。礼によって好悪は節制され、喜怒も礼によって整えられる。怒りを抱くなとは言わん。じゃが、それに掴まらぬようにな」
そう言って老人は笑い、旅へと戻って行った。
同じ日、ヴァイの『臥鳳』も完成した。
*
フェイが、ヴァイの『臥鳳』をその目で見たのは一度――いや、二度だけであった。
一度目は、與田老人が旅に戻った同じ日、その技が完成したまさにその夜。
「一度しかやらぬからよく観て盗め」
と、師は言い、フェイには一瞬、貔貅のような彼の身体が、“伏した朱鳥”のように観えていた。
「どうだ?」
と、型を終えたヴァイがフェイに訊き、彼はただただ声もなく、呆然と師を見ていた。
「出来るものならやってみろ」
そう言うとヴァイは笑い、これに釣られてフェイも笑った。
が、結局、これが師弟の別れとなった。
この翌早朝、鎖を壊し洞窟を脱け出したヴァイは、騎士学校の関係者数名を殺害、そのまま山を下ったのである。
殺された関係者の中には、第一厨房の責任者、ス・カイゲイ師も含まれていた。
*
「飛ばないとはどう云うことだ?」と、長身白髪の騎士が言った。「ただでさえ機体の到着が半日遅れているのだぞ?」
ここは、サ・ジュジから一日ほど西に向かった空港のロビー。職員の女性に詰め寄っているのは、スザンの坂下で與田老人を待っていたあの壮年の騎士である。
「おいこら、サラマタ」と、そんな彼の背を白杖で叩きながら、與田老人が割って入る。「そんな怖い顔をするものではない」
「しかし先生」
「飛ばぬ時は飛ばぬし、飛ぶ時は飛ぼう。それよりこんな可憐な女性を怖がらせるほうが問題じゃ。――そうじゃろ? お嬢さん」
「は……はあ」と、妙に懐っこい老人の顔に違和感を感じながら職員の女性は応え、
「で、なにがあったんですかの?」と、老人は訊いた。「カ=ショウ行きの機体なら、あそこに見えておりますが――」
「はあ、それが」と、老人の指す窓の外を一瞥してから女性。「サ・ジュジから全機出発を止めるよう連絡があったのです」
*
「すべての港と空港に連絡、全便止めておくよう要請しました」
「ヤツの右耳に埋め込んでおいたチップは?」
「千切れた耳介の一部とともにジョ=ウチの滝で発見」
「捜索隊は?」
「五手に分かれ追っていますが、未だ発見の報はなし」
「連絡自体は取れておるのだな?」
「はい…………学校長?」
「なんだ?」
「取れなくなる可能性も?」
「お前も死体は見たであろう?」
*
「サ・ジュジの馬鹿どもが!」
「どうじゃった? サラマタ」
「宮殿の者に確認させましたが、先生。やつら罪人をひとり隠し閉じ込めておったそうです」
「罪人?――それが逃げ出したのか?」
「複数の学校関係者――その全員が騎士ですが――を殺して逃亡中。あの馬鹿ども!」
「逃げ出した者は騎士ではないのか?」
「“騎士殺しのユゥ=チュイ”騎士ではありません」
「“ユゥ=チュイ”?」
「どうかされましたか?」
「すまぬサラマタ。わしのミスかも知れん」
*
「お前は来るな、フェイ」
「そうだ。ス師範の仇を討ちたい気持ちは分かるが、ここは我々に任せておけ」
「西に向かった隊との連絡が途絶えました」
「なにか言っておったか?」
「ヤツは素手素足で、更に西へ向かった模様」
「分かった。他の隊もそちらへ――どうした? まだなにかあるのか? フェイ」
「……違う……んです」
「“違う”?」
「“あの人”は……」
「“ヤツ”を知っておるのか?!」
「“あの人”…………も……私の…………師なのです」
*
さて。
この日、『ヴァイ=シュ (誰でもない者)』こと『騎士殺しのユゥ=チュイ』に殺された学校関係者の数は、四十一ないしは四十七名。
素手素足のただのひとであるユゥ=チュイ、いやヴァイに、なぜこれほどまでの数の騎士が殺されることになったのか?
そのことを帝国の騎士たちが本当の意味で知るには、彼の弟子ウォン・フェイ・イェンが、その歴史の表舞台に立って来るのを待たねばならぬが、それでもこの日、この師を止めたのは、他ならぬこの――こちらもまたただのひとであった――弱年の弟子であった。
*
男を見た瞬間、彼は飛び出していた。
カイゲイ師の仇、そう想ったからではない。
また捨てられた、そう想ったからでもない。
血まみれの手と、血まみれの顔のヴァイが、昨夜と同じあの笑顔を、自分に見せて来たからであった。
「やるぞ! 小僧!」
と、師は喜び叫んだが、少年は歯を食いしばっていた。
「口は固く閉じるな!」
そう言う師の足元には、いくつもの死体が転がっている。
「目は一点を見詰めるな!」
*
師までの距離は二クラディオンと半。
習った歩法ならば一息で詰められる。
が、師の脚運びと手の型が変わった。
瞬間、時が止まった――ように感じた。
感じてはいるようだな、と師が言った。
右のこめかみとあごを同時に狙われた。
左の手ではらうと同時に師の肺を狙う。
脚が飛んで来たが右膝で足裏を止める。
左耳左目を狙われ膝を抜き腰を落とす。
膀胱金的を狙うのは――これも教えの通り。
*
「“怒りを謳え!” おい! 小僧!!」
この日、この時、この場面を見ることになったサ・ジュジのある師範――彼女はその時、すでに四肢を断たれていたが――は、その報告書の中で、この二人の戦い、いや師資相承を次のように記している。
『それはまるで、群れ遊ぶ二羽の朱鳥が如くであった』
*
さて。
ここまで書いて来ておいて、またここで無粋な注釈を入れる作者の我がままを許して頂きたいのだが、この『ヴァイ=シュ』いや『ユゥ=チュイ』の資料・史料を漁っていた時、ある気付きがあったので、その気付きについて、私の備忘のためにも、ここにそれを書いておきたい。
それは、この事件から十七・八年ほど遡った四一八九年から四一九一年に掛けてのことで、その生涯を流浪のなかで過ごして来たはずのユゥが珍しく、帝都近郊のロウと言う町に長らく滞在し、ある種まっとうな生活を送っていたらしい――と云う事実である。
無論これは、フェイの生地がはっきりとしていないため、あくまで作者の妄想の域を出はしないのだが、しかしそれでも、フェイの叔父夫婦の不可解な死、ユゥの、ある種独特な体術をフェイが短期間で身に付けられたと云う事実、それに、帝国側資料に残されていたユゥの顔写真――特にその右耳のかたち――それらを合わせ考えれば、そこに何かしら答えめいたものが見えて来る。
と、このお話の作者などは想ってしまうのだが――読者の皆さまは、どのように考えられるであろうか?
*
フェイが、ヴァイの『臥鳳』をその目で見たのは二度だけ――とは前にも書いた。
一度目は、その技がまさに完成したその夜。
「一度しかやらぬから、よく観て盗め」
そう言われ、ふたりで笑ったあの夜である。
二度目は、その笑い合った次の夜。
この時ヴァイは、技を出す前、
「もう一度見せてやる」
と、フェイに向け叫んだ。
「よく観て盗め」
と。
*
この時、その場の生存者の中で意識が残っていたのは、フェイを除けば前述の女性師範だけである。
そのため、私のこの書き物も、この師範の報告書を頼りに書き続けるしかないのだが、それでもやはり、これはおかしい。
『兵は詭道なり』の古諺を持ち出す積もりもないが、それでも、所詮戦いとは騙し合いである。
謀を凝らし、敵を欺き、状況如何によって作戦を千変万化させる。
そうすることによって勝利を収めることこそが重要なのであり、そんな当たり前のことをヴァイが知らなかったとはとても想えない。
しかもいまは、生死を懸けた重要な場面である。
が、しかし、それでもヴァイは叫んだ。
「もう一度見せてやる――よく観て盗め」
と。
そうして、これが彼の敗因となった。
*
両の足もて地を祓い、
両の脚もて地を鎮む。
肚は地に拠り気を纏い、
両の手はもて倣うだけ。
おのこ背中にゃ、十六夜の、
いまもさかりと、紅かえで。
ちとせやちとせ、とわには居れぬ、
いまこそ群れ居、遊ぶめれ。
ここは地の果て、暗やみの、
かくて息吹きは相揃い、
舞って舞い散る鳳と凰、
おやこ別れの――、
*
この後フェイは、この時の自身の動きを整理・練磨し『蔵凰』と云う名の型にしてまとめることになる。
そうして、これを師の型と合わせ、二人の武術家がその力を幾数倍にも高め活かし使うための技『臥鳳蔵凰』として完成させるのだが――それはまだまだ先の話。
この時のフェイは、ただただ、その師を倒すため、そのためだけに、この『蔵凰』を使っていた。
*
勝敗は、小差であった。
フェイの頸を、その喉頭隆起と動脈を“精確に”撃ちに来たヴァイの左指の流れに沿い、それに引き寄せられるようにして、フェイの右の指先が、師の顎を打ち抜いたのである。
「どんなに冷静であっても、そこには僅か以上の殺気が乗る。それがお主の切っ先を鈍らせとるのだ」
これは以前、與田老人がフェイに向けて言った言葉であるが、ここでは、ヴァイの弟子に対する殺気、いや“執着”が、彼の切っ先を鈍らせたようであった。
*
「どうした? 止めを刺せ」と、脳に出来た歪みのせいでもあろうか、立てぬ脚のままにヴァイは言った。「そう、教えたはずだ」
「出来ません」と、彼の言葉を遮り、咎めるように少年は応えた。「私には、出来ません」
そう応えておいて少年は、ひと粒だけ、涙を流した。
「涙は止めろ」
男が応えた。
「それも、教えたはずだ」
そう言っておいて男も、ひと粒だけ、涙を流した。
「たとえ一日でも――」
と、フェイが続けようとして、
「“シャ=オバ”」
と、師は、弟子の名前を呼んだ。
「分かった。だからお前は笑え」
それから、そのまま、彼は、自分で自分の頸を刎ね、死んだ。
*
與田老人とサラマタがその場に辿り着いたとき、全てはすべて、既に終わった後であった。
ヴァイの死体も、彼が殺した騎士たちの遺体も、既にサ・ジュジの者たちによって回収され、フェイもまた、学校の者たちによって、山へと連れ戻されていた。
地面に遺る戦いの痕跡に、サラマタはただ首をひねるだけであったが、その横で與田老人は、腹立たしげにヴァイの遺した血の跡を睨み付けていた。
よほど、自身の浅慮短慮が許せなかったのであろう、フェイが自らの手で、その両目を潰したと老人が聞くのは、彼らがサ・ジュジに戻ってからのことである。
*
さて。
このあと少年は、学校の記録に依れば、東に向かった與田とサラマタが戻って来るまでの七ヶ月間を、スザンの山中にて過ごした。
それから彼は、與田とともに南止水へ向かうと、老人の門下となった――と、これはまた別の記録にある。
多分に少年は、彼の地の「礼」を習い、生涯を掛け、その手にかけてしまった師の霊を弔いたい――そう考えたのでもあろう。
(了)
【作者注】
この物語は、『時空の涯の物語』の「第十二週:ルルナイ宮の夜とシヤ=カンの朝」と「第十三週:履と小さな愚か者」を抜粋編集したものです。
『時空の涯の物語』はこちら↓
https://ncode.syosetu.com/n3983hx/
【その他脚注】
*レルヌ:料理の調味に使う度数14%前後のアルコールのこと。甘味がありエキス分も比較的多く含まれているため、そのまま飲むには適さない。我が邦の本みりんによく似ている。
*アカラ:フラットブレッドの一種。イネ科の穀粉に水と塩を混ぜて生地を作り、円形に伸ばしたものを筒状の窯にはり付けて焼く。酵母などは用いず、干した果物などを混ぜる場合もある。この地域では、主食としてよく用いられている。
*ウラム:この地方原産の植物。我が邦で云う大柄の楡の木のようなものである。
*クラディオン:この地域の長さの単位。時代により長短するが、フェイ達の時代の1クラディオンは約4m。