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道程

作者: 山谷麻也

■序

 「お前はよう耳が悪うなるけんど、目はええからのぉ」

 母がよく言っていた。

風邪をひくとすぐ中耳炎を起こした。翌日は学校を休んだ。1時間近くかけて山を降り、バスに汽車を乗り継いで隣県の耳鼻科に行った。

 私の生まれ育った地方では、病院に行くのは一日がかりだった。さらに奥地になると、県立病院の近くに、村営の寮が設けられていた。ここに前日から泊まり込む。翌朝、受付開始とともに予約・受診し、再びバスで帰って行くのが常だったと聞く。

 慢性疾患はともかく、急性のものは手遅れになることも多かったようだ。医者に診せようと幼子を背負って山道を行く間に、背中の子は冷たくなっていたという話もある。

耳に関して言えば、外耳炎の痛みは激烈だった。体をねじらせて泣きわめきながら、夜の明けるのを待った。毒づかれた親は耐えがたかっただろう。

10代後半には耳に違和感を覚えていた。それは今に連なる。これが耳鳴りであることは成人してから気付いた。

 それでも、目が良いことは救いだった。


■眼病の発症

 40歳、1992年6月のある日。都内の地下鉄駅で、朝のラッシュ時ではあったが、横から出てきた男性の革靴を踏みつけてしまった。

「気をつけろ」

怒られたことよりも「なんであれが見えなかったのだろう」というショックの方が大きかった。

 「どうも目がおかしい」

 妻に打ち明けた。

 翌日、地元の眼科医に行く。症状を話すと、簡単な検査をし、大学病院に紹介状を書いてくださった。

 大学病院ではいろいろな検査を受けた。目は疲れ果て、強い光を当てられた時には「もう止めてください」と叫びたいほどだった。

 「今日、誰と来てる?」

 「妻です」

 と答えると

「呼んで来て」

 神妙な二人を前に、医者は言い放った。

 「網膜色素変性症です。失明しますよ。リハビリを考えなさい」

 病院を出て、最寄りの私鉄駅に向かう途中、何度も歩道で立ち止まった。日影があると、真っ暗な奈落に見えた。足で探るように確認してからでないと踏み出せなかった。検査で強い光を当てられたこともあっただろうが、光に対して正常に反応できなくなってきていたことは確かだった。


■メッセージ

 その後はお決まりのコースをたどる。

大型書店で眼科の専門書を立ち読み。どの本にも判で押したように「予後不良」と書いてある。漢方薬がいいという話を聞き、ある大学の東洋医学研究所にも通った。

 めっきり酒の量が増えた。仕事が終わると、毎日、飲み屋に直行した。深酒し、終電に間に合わないことも多かった。

 ある夜、トボトボと帰宅していた。一人になると、涙が出てくる。うつむき加減だった私は、何かに頭をぶつけてしまった。電柱だった。鼻腔に鉄の匂いが広がる。口の中を切ったらしい。

いっそう情けなくなって顔をあげると、漆黒の空にたったひとつ、小さな光を認めた。

 「なんであれが見えるのだろう」

 何光年先からの光かも分からない。その光が今、自分に届いているーーと考えた時、閃いたものがあった。

 「あれは、もしかして、祖先が信号を送ってくれているのでは……。『今みたいな生き方ではダメだよ』と」


■ピア・カウンセリング

 その年の秋、リハビリテーションセンター病院で眼科受診者の会を立ち上げるという案内が来た。障がいを持つ者どうしが交流し助け合う中で、QOL(生活の質)の向上を図ろうというものである。

 「毎日、くさっていても仕方ない。気分転換に行ってみようか」

と気乗りしない状態で出かけ、会場の最後列で成り行きを見ていた。老若男女がいる。驚いたことに、ほとんどの人が明るい。これで散会という時、思わず声をあげてしまった。

 「何か手伝えることがあればやりますよ」

 視覚障がい者仲間との交流が始まった。毎月の定例会には多くの仲間が集まった。飲み会だけに駆け付ける者もめずらしくない。宿泊を伴う旅行はいちだんと盛り上がった。夜おそくまで語り合う。それは、仲間どうしでサポートしあうピア・カウンセリングの神髄を見る思いだった。


■セラピストへの転身

 眼科受診者の会にはさまざまな目の障がいを持つ者がいた。同じ病気であっても進行度は千差万別だった。

 「山谷さんはそれ以上進まないですよ。一生、見えてますよ」

そんなことをよく言われた。何の根拠もないのに、自分でもその気になっていた。しかし、時の経過とともに、視野狭窄が進行する。何人かと名刺交換する際、斜め前の人が名刺を差し出していることが分からない。あるいは、仕事の訪問先でお茶を出されたことに気付かなかったといったことは日常茶飯事になった。

 「いよいよかな」

決断の時は迫っていた。

 「50歳になる前に、鍼灸学校に入って免許を取ろうか」

都内で経営していた小さな会社を後進に譲り、鍼灸マッサージの専門学校に入る準備にかかった。お世話になった方々にあいさつに行くのが一番つらかった。

 2001年4月に入学、2004年3月に卒業、翌4月、自宅近くのビルの一室を借りて治療院を開設した。52歳の時だった。


■価値観の崩壊

 思えば、たくさんの人に支えられて生きてきた。

この世界に入っても、地元のマッサージ組合は新人の私をこころよく迎え入れてくださった。おかげさまで、高齢者に対するシルバーサービス(マッサージ)事業にも参加し、多くの利用者が訪れるようになっていた。

 「埼玉に骨をうずめるのかなあ」

そんな気持ちが自然に湧いてきた。平穏な日々が続いていたが、ある日の午後、思わずしゃがみ込んでしまうほどの揺れに見舞われた。東日本大震災だった。

すべてを飲み込んでいく津波。これまでの人々の営みは何だったんだろう。私の価値観が音を立ててくずれていった。

被災者のことを考えると、いてもたってもいられなかった。

 「しかし、こんな精神状態でボランティアに行っても、果たして務まるかどうか」

一回だけという気持ちで災害ボランティアに参加した。いうなれば、アリバイ作りだった。たくさんの被災者が治療を受けに来られたが、その中に、私の名札を見て、名前をメモしている高齢女性の姿があった。

 「次はいつ来てくださいますか」

と聞かれ、返事に困ってしまう。

疲れ果てて帰るクルマの中で、この光景が頭から離れなかった。

 「あんなふうに待っていてくれる人がいるんだなあ。そう言えば……」

 四国の生まれ故郷はどうか。母も父ももうないが、叔母や姉は長年の膝痛、腰痛持ち。病院は遠く、医療の谷間にいる点では同じではないか。

 思わず、同郷の妻にメールしていた。

 「四国に帰らないか」

困っている人に寄り添う医療。そこに考えが及んだ時、もう迷いはなかった。幾度となく被災地を訪れ、また、地元では避難先に往診することもたびたびだった。


■埼玉―四国往復の強行軍

 Uターンの準備は秘密のうちに進められた。

生家はすでに廃屋となり、かつて21軒あった村は残るは3軒のみ。市街地に土地を購入し、幼なじみの建築士が自宅兼治療院を建ててくれた。しかし、埼玉では「四国に帰る」とはなかなか言い出せなかった。

 マッサージ組合の役員だったことなどから、週1日は老人福祉センターに詰めて施術に従事する必要があった。このため、最初の1年間は日曜に埼玉に行き、月曜・火曜と仕事をして新幹線に飛び乗り、最終の特急で四国に帰った。翌年、バスタ新宿が開業し、往復に高速バスを使うようになった。3年目からは日曜の夜に四国を出て月曜の早朝、バスタ新宿着。仕事を終えて、高速バスに乗り、火曜の朝、四国に帰るというハードスケジュールだった。

 ひんぱんに四国と行き来するのを見て、患者さんは「まさか、四国に帰っちゃうんじゃないでしょうね」とよく訊ねるようになった。心が疼く瞬間だった。


■ついに来たその日

 毎週利用するバスタ新宿ではあったが、ここでもよく迷うようになった。治療院の近くでさえ迷子になり、患者さん宅の庭でも方角が分からなくなることがあった。

 四国にいても同じだった。山奥の患者さんを何度か往診するうち、近道をしようとして山道で迷った。道を尋ねたくても、だいいち人が歩いていない。タクシーを呼ぼうにも、今いる位置が分からない。なんとか目印になる建物をみつけてタクシー会社に電話した時は、九死に一生を得た思いだった。

実際、ゾッとすることもあった。「トラック街道」の異名を持つ国道16号で「車道を歩いていますよ」と注意を受けた。四国ではバイクで通りがかった方に「ここは道の真ん中ですよ」と親切にも歩道に手引きされたこともあった。

 「もう限界なんです」

埼玉の患者さんに、ありのままを告白するしかなかった。


■白杖から盲導犬へ

 白杖は専門学校入学後に使い始めた。

 いつしか、からだの一部になったみたいだった。しかし、私の場合は正式な白杖の歩行訓練を受けていない。残存視力に頼っての白杖歩行であり、ほとんど見えなくなった現在、以前のように一人で出歩くことは不可能になった。

 私がUターンしたのをきっかけに、開業以来つづけてきた勉強会の仲間が2019年3月、四国観光に来てくれた。その中に盲導犬ユーザーがいた。

 「けっこう危ないところが多いじゃないですか。盲導犬を申し込んではどうですか。絶対、必要ですよ」

 と、彼は親身になって勧めてくれた。

 何日か後、盲導犬を育てる会に電話を入れた。会ではすぐ対応してくださり、翌年6月、大阪の盲導犬訓練所に入所することになった。

 相棒はエヴァン。アニメ『エヴァンゲリオン』に由来し、「勇者」という意味があるらしい。2歳のオス。きょうだいは6頭、うち4頭が盲導犬として活躍している。育ての親のパピーさんは大阪の方。四国の田舎からすれば、エヴァンはシティーボーイだ。

 3週間弱の訓練を経て、「勇者」にガイドされ、四国に凱旋を果たした。以来、毎日、朝の散歩とブラッシングを欠かしたことがない。食事は一日2回。往診はもちろん、買物や外食にも同行してもらう。

 当時、新規ユーザーとしては13年ぶり、県内3頭目の現役盲導犬ということで、テレビ、新聞、ウェブで話題になった。外出すると注目を集めた。主役はエヴァン。私はまるで売れっ子タレントのマネージャー気分だった。


■道程はるか

 4年間で埼玉と四国を往復した距離はざっくり26万キロ。地球を6周半した計算だ。エヴァンと歩いた距離は、スマホの万歩計によると、7月末で約850キロ。東京駅からだと博多駅を越えた計算になる。

 まだまだやりたいことがある。ひとつには、過疎の村に治療院を設けたい。週1日か2日、開けるだけでもいい。

 自家用車の普及と歩調を合わせるかのように、過疎化が進み、バスや列車が減便されてきた。公共交通機関は、高齢者や障がい者などの交通弱者にとって命の綱。これでは時代の逆行でしかない。抜き差しならない事態だが、交通弱者、ひいては医療難民の声は年々か細くなる一方である。私はセラピストとして、これらの声に耳を傾け、寄り添っていきたいと思う。

 「エヴァン、四国はどうだい? 最初のころ、土砂降りの雨を怖がり、ブルブル震えて体をすり寄せてきたことがあったね。もう、慣れたかい? 外出は楽しそうだけど、たまに入店拒否の店があって、悲しい思いをさせているね。でも、エヴァンが散歩で毎朝会う通学班の小学生、あの子たちが大人になるころには、きっと優しい社会になっているよ。じゃ、エヴァン、グッ・ボーイ(Good Boy)! お出かけだよ」

(完)


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― 新着の感想 ―
[一言] 素晴らしい作品ですね! ☆5個つけさせて頂きました。 これからも頑張って下さい! 応援してます。
2021/11/12 20:31 退会済み
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