ばく
その男、夜道を歩いていた。
男はなぜ、暗闇を、アテも無く歩いているのか。
「ああ、今日の演目も素晴らしいかったな。僕もあれくらい出来るようになったら、さぞかし面白かろうな」
男は演劇団員の一人で、演技の参考にする為、観劇に出掛けてたのだろう。
素晴らしい演劇に当てられ、どうも夜風に紛れてたい気分のようだ。
まったく、木枯らしが沁みる夜更けに、何とも暖かいヤツだ。
「腕の角度がこうなら、腰から足の流れはこう、か…」
誰も居ない公園の隅、切れかけの街灯の下で男は踊るように先ほど目に焼き付けた演技を再現する。
こんなところを誰かに見られたら、ただち通報され、然るべき場所で然るべき処罰を受けるコトは免れまい。
男だって、普段ならそれくらいは考えつく程度に良識はある筈だ。
それでもなぜ、男はこんなところで踊り狂うのか。
常識の範囲内で生きてる人間には解らない何かが彼を動かしているのだろうか。
ふと、彼は動くのを止めた。その視線には一人の少女が立っていた。
「あの何か用ですか。こんな遅くに一人で出歩くのは物騒ですよ。あ、僕もこんなところで浮かれていて、危ないヤツの一人にしか見えないですよね…」
男は我に返り、まじまじと見られている事が急に恥ずかしくなった。
「ふふ…」
少女は、笑顔を引きつらせ、とんちんかんな事を口走った彼が堪らなく面白く、くすりと笑った。
首すじをさすりながら、男は言った。
「笑うのは少々失礼ではないですか。僕はいたって真面目だというのに」
「ふふ、そうね。でも、面白可笑しかったら笑ってしまうのは性だから仕方ないんじゃないのかしら」
「僕はアナタにとって、そんなに滑稽に見えましたか」
「ええ、とっても」
高くもなく低くもない、丁度良い樹に寄りかかり少女はまた笑った。
男は調子が狂ってしまい、ただ唖然とするしかなかった。
そんな彼を、少女はひとしきり笑い倒した後、少し疲れたのか、街灯の横にあるベンチに腰掛ける。
「ひゃう…」
少女は驚いたように腰をあげると、ゆっくりと座り直す。
それを見ると、今度は男が笑った。
「くす…」
少女が不機嫌な顔つきをすると、男は慌てて言葉を取り繕った。
「今日は寒いですからね。ベンチも良く冷えていて、さぞ冷たかったでしょう。アナタがこんな季節にそんな寒そうな格好をしてないで、ベンチも木製であったなら僕は笑わずに済んだのかもしれませんね」
男はそう言いながら、ポケットを漁ると幾らかの小銭を取り出した。
「少し待っていてくださいね」
彼が公園の反対側に消えてゆき、足音は微かに響いた。
少女がまた退屈そうに空を仰ぐと、チラチラと星が揺れていた。
少女はおもむろに手を伸ばし、星と星の間を線で埋めて、呟く。
「アレがオリオン…コッチは白鳥。そして、アレはアンドロメダね」
大気に溶けてしまいそうな声は、更に小さく擦れていて、少しだけ吹いた風にあっという間に流されてしまった。
少女が満足気に指を滑らせていると、足音が再び響いた。
「はぁはぁ、お待たせしました。コーンスープとミルクティー、どっちが良いですか」
男は少女の頬に暖かい缶を当てた。
「どっちも飲んだこと、無いなぁ」
少女は訝しげに缶を見つめる。
「そうですね、ならば両方飲んでみてはいかがです」
男は二つの缶を挟んで、少女の横に腰掛ける。
「……」
「どうしました。早くしないと、折角のあったかい飲み物が冷めてしまいますよ」
「…どうやって飲むのかしらね。見た所、飲み口のような物がないのだけれども」
少女は缶をくるくる回すと、一つ首を傾げた。
「えっ…」
男は思わず、絶句してしまった。
この21世紀の世の中で、缶の開け方を知らない人間には会った事などもなく、どう対応したものかと気を揉む。
しばらく、不思議そうに缶を見つめる少女と、その横で苦しそうに考え込む男の奇妙な図が続いた。
そして、彼は缶を持つと少女の前でプルタブを引く。
「こうやって開けてみて下さい」
少女が彼の持つ缶に目線を投げ掛けると、彼の人差し指に力が籠もる。
「ぷしゅっ」
甲高い音と共に立ちのぼる仄かな香りに、少女の瞳が好奇を示しているのを、覗き込んだ彼の目に映った。
綺麗な藍色は、彼を不思議と吸い寄せて離さなかった。
「飲ませて」
少女は半ば無理矢理、彼の手から缶を奪うと、飲み口に鼻を近づけ、すんっと鳴らした。
「ふむふむ、コレはアールグレイかしら。でも、少し違うような…アッサムにしては香り高くもないし、何なのかしらね」
少女はそれらしいうんちくを呟くと、飲み口から静かに喉へと紅茶を流し込んだ。
「ソレはどうもアールグレイのようですよ」
彼は横目に映った表記を読み上げる。
「え、アールグレイにして何か変よ」
少女は飲むのを止めると、驚きの表情で男を見つめた。
「はは。まぁ、缶ジュースですからね。ソレらしく味付けしてあるって事ですよ」
「そういうものなの」
「あまり難しく考えていたら、飲み頃を逃してしまいますよ」
男が優しく笑うと、少女は一息にソレを飲み干した。
「お味の方は好みに合いましたか、お嬢様」
「変ね、アナタがそう言うとあまり悪い気がしないわ」
「ソレはどうも」
「このミルクティーね、何だかとても暖かいの。普段飲んでるミルクティーって香りはとっても良いのだけど、このミルクティーに比べたら、何だか無機質な味な気がするわ。きっと、相当な腕前の方がたててるんでしょうね」
彼女の言葉の端々に漂う気品から、彼女は良家のお嬢様なのではないのか、彼の脳裏にはそんな考えが過ぎった。
「姿勢が綺麗ですね。それにどこかしら趣きもある…もしかして、アナタはホントにお嬢様なのではないですか」
彼は深く考えず、思った事を口にした。
「あら、そうかしら。まあ、お嬢様といえばそうなのかもしれないわね」
彼女は少し顔を伏せ気味に答えた。
何処か棘のある冷たい、先ほどまでとは打って変わった突き放したような物言いに、男の不安を煽った。
「すみません。余計な事を訊いてしまったみたいですね」
男は頭を下げると、残ったもう一つの缶を勧めた。
少女は見よう見まねで蓋を開けると、また嬉しそうに笑った。
男は黙って少女の行動を見つめていると、ふと少女は嘆息を漏らした。
「悲しいものね、こういう事って」
「どういう意味ですか」
少女の唐突、あまりにも突然な呟きに、男は首をひねる。
彼の投げ掛けに言葉は続かず、代わりに一息の風が吹き抜けて、彼の心情がざわついた。
少女は遠くを見たまま、彼に向けて言葉を贈った。
「アナタはどんな夢があるの」
「えっ…そうですね。先ほどご覧になった通り、僕は演劇というものが好きでして、ソレを表現し尽くしたいというのが、僕の夢ですね」
男は照れ臭そうに頭を掻くと、彼女は静かに立ち上がった。
「アナタはどこまで行けたら、ソレが叶ったと云えるのかしら」
「欲を出して言うなら、世間が僕を認めてくれたら…ですかねぇ」
「素敵な夢…じゃないかしら」
彼女は微笑むと、くるりと回って祈るように手を合わせた。
「ご馳走。美味しかったわ、ありがとう」
「いえいえ」
「それでは、また会いましょう」
「また逢えると良いですね」
「きっとそれは、アナタが夢を叶えた時になると思うわ」
「そうなると面白いですね」
少女は静かに歩き出した。
そして、彼の前を通り過ぎた時、ふと零した。
「…その日が来ない事を祈るわ、サヨナラ」
男は聞き間違えかと思い驚き、しばし硬直した後、不意に不安に駆られて振り返った。
「あ、そうだ。危ないからお家まで――……」
そこまで言って、男は口をつぐんだ。
何故なら少女の姿はもう、闇に紛れて見失ってしまったからだ。