眼鏡の悪魔
「今日は一日逃げ延びてやる…」
そう呟き、僕は城の中庭の大きな木の影にしゃがみこんだ。
――――『サボりですね!サボり』
「誰のせいだと思ってるんだよ」
――――『ごめん、もうなんか最近条件反射みたいになっちゃって…』
城での訓練を始めてから3ヶ月。
僕の【ギフト】のコントロール訓練はさっぱり実を結んでいなかった。
原因を口に説明できないのだから、周囲からきっかけを見つけられないのは当然なのだが。
自分なりにミツコと話し合ってみても、ミツコにやらせてみても、思い通りに僕の身体を変身させることはできなかった。
変わりにやらされることといえば、魔力アップのための魔法訓練。
各属性の基礎魔法を教わり、訓練場で魔力が無くなるまでそれを使う。
それが終わったら、何故かランニングをさせられ、少しだけリュミエールに魔力をもらって再び基礎魔法を使う。
そんなことを3セットもすれば、魔力切れの繰り返しで朦朧とするわ、足はガクガクだわ、毎回どうやって家に帰ったのかも覚えていないほどだ。
にこにこと魔力を与えてくれるあの顔は、もはや悪魔にしか見えない…。
さらに厄介なことに、何度目かの訓練でリュミエールは僕を女にすることに成功していた。
僕に近づき、女性に接するような態度で僕に触れる――すると、僕の中のミツコが騒ぐ。
まるで本物の乙女ゲームの中のようにされると、ミツコ脳内はハッピーアワーに突入!アドレナリンにドーパミンが出まくり状態で暴走状態―――になってしまうらしい。
そうしたらもう、ミツコは簡単に熱を上げる。
かっと体が熱くなってスイッチが切り替わったように女になってしまう。
自分の手で僕を女にできると気づいた時のリュミエールは、そりゃあもう楽しそうで…
目も口も綺麗な三日月形笑っている顔を見たときは…本気で泣きそうなぐらい恐怖を感じた。
隙あらば僕に近寄り、手をとり腰をとり、目を逸らせないように顎を押さえられてしまうと逃げ場もない。
女になるだけでもヘロヘロなのに、さらにそこから魔法訓練が始まるもんだから、本気で何度か失神もした。
ちなみに、僕の魔力が減っている時はミツコも力が出ないらしい。
いまいちコイツの存在が何に影響されているのか分からないが、訓練のあった日なんかは寝る寸前ぐらいしか話すことができない。
人の身体を女にしておいて、放りっぱなしって言うんだからたちが悪い
そこからさらに面倒なことに、
女の姿で帰宅すると、そのままドレスの着付けやらダンスレッスンやらが追加されるようになった。
楽しそうにドレスを用意する母にメイドたち…
楽しそうな顔でダンスレッスンにやってくるレイル…
屋敷内ではすでに周知となった【ギフト】に対し、使用人たちはみな僕が女のときは女扱いをしてくるよ。
女性の時は常に淑女らしい行動をできるようにとのお達しらしいが、居心地が悪くてしょうがない。
味方になってくれるのはパグ爺ぐらいだ。
ただしこれは、男の僕には適用されない。
城で女にさえならなければいつも通りに過ごせるのだ。
***
「ということで、今日はシリルくんは具合が悪くてお城には来ませんでした~」
――――『来ませんでした~』
女になって帰るのが当たり前になってきたせいで、今日はドレスまで持たされた。
素敵な笑顔で「ちゃんと着て帰ってきてね」という母は、もう僕の味方では無いようだ…。
ドレスを着て帰るなんて真っ平ごめんだ。
今日はもうミツコと話しながら時間をつぶせばいいや…
なんて考えながら木に寄りかかると、
「ほう、シリルくんはお休みですか」
「――――っ!?」
――――『―――っ!?』
背後から、聞きなれた声が聞こえた。
恐る恐る顔を動かすと、真っ黒い瞳が楽しそうに僕を見下ろしている。
「そうですね、女性の時もシリルと呼ぶわけには行きませんし。今日からはシーラと呼ぶことに致しましょうか。シリルが居なくとも、シーラが居れば良いわけですし」
顔から血の気が引いていく。
――――『ぎゃー来た!キタキタキタキタ、悪魔がが来たー…」
「なんで…なんでなんで――早いでしょ。まだ来たことも知られてないハズじゃ…」
リュミエールはにこにこしながら僕の前にしゃがみこむ。
ミツコモ僕も、突然の悪魔の来訪に恐怖しか感じていないから、まだ変身はしない。
「何を言ってるんですか。シリルの訓練は私の楽しみなんですよ。こんな珍しい被験者はそうそう見つからないんですから――。馬車が着いたのを確認したのになかなかやってこないから、心配して迎えにきてしまったじゃないですか」
そっと僕の頬に手を伸ばしながらリュミエールは言う。
着いたときから監視されてるってことですか!?
――――『――っむぇ』
頬に手が触れると同時にミツコが変な声を上げる。
僕の恐怖とミツコの興奮が混じると、僕の脳内はすぐにパニックだ。
ぎゅっと目をつぶると、まだ何とか我慢できた。
「シーラ。さぁシーラ。訓練場に向かいましょう」
わざと耳元に口を近づけてリュミエールが囁く。
ぞくぞくと背中に声が響くとミツコの感情がさらに高まった。
だが、まだだ、まだいける!
ぶんぶんと首を横に振ると、頭の横に手をついて再び頬に触れた。
「シーラ。ほら」
目をつぶったまま下を向くように小さくなる。
亀だ、亀になれ!
「い、いやだ」
「嫌ならご自分でコントロールしてみなさい」
「きょ、今日は魔法訓練だけでお願いします!」
「却下です」
瞬時に却下された。
「最近ちょっと私に慣れてしまったんですかね…」
なかなか変身しない僕に痺れを切らしたのか、リュミエールの顔が遠ざかった。
少しだけほっとして、僕はもう一度希望を口に出そうと目を開けてしまった。
「だから、魔法の特訓だけに――――」
「そうですね、試しにキスでもしてみましょうか」
言うや否や、リュミエールの顔が逃げようの無い速度で近づいてきた。
嘘だろ、キスとか嘘だろ――――!?
「ひぇ、え、あぎゃああああーーーーーーー」
――――『びゃぁぁああああああああああああああああああああああ』
コントロールの聞かないからだが、リュミエールの望みどおりに変化する。
ああ、ちくしょう――― 今日もコイツに一本取られてしまった。
「ダメですよ、そんな叫び方じゃ。もっと女性らしくしないと――」
ミツコの声が消え、僕の髪が広がると、リュミエールは満足そうに立ち上がった。
もちろん唇は触れていない。
くやしい―――。
真っ赤な顔のままキッと睨みつけると、さっさと立ちなさいとローブを投げられた。
変身したぐらいではふらつかなくなっている辺り、コイツの特訓はそれなりの効果を出しているようだ。
こうなったらもう大人しく訓練場に行くしかない。
コントロールが上達してきた魔法を悪魔に叩き込むことを考えながら、僕は黙って歩き始めた。