洞窟
「……あれ」
かつりかつり、とサヤカの底の厚い靴が硬質な足音を立てる。吹雪の音にまぎれていたそれがはっきりと聞き取れるようになった時のことだった。
大きく道をふさぐようにして突き出ている、サヤカの肩ほどまでの高さのある岩の向こうにかすかな明かりが見えた。
誰かいたのか、と静かに思う。わるいひとだったなら、すぐさま逃げなければ。悪い人じゃない可能性のほうが高いのも、旅人同士同じ洞窟に泊まることがあるのもわかってはいるが、警戒は怠らないに越したことはない。しかも、この場合はサヤカが後から来たかたちになる。警戒しなければならないのは、相手も同じなのだから、今すぐに追い出されても文句は言えない――とそんなことを思っているサヤカの足音に気が付いたらしく、岩の向こうで人影が立ち上がった。
怪訝そうな顔で岩の向こうから顔をのぞかせたのは、金色のひとみに透き通るような黒髪をもつ、穏やかそうな青年だった。なんて声を掛けたらいいのかためらったサヤカに対し、ほんのりと微笑んで彼は言う。
「はじめまして。旅の方ですか?」
「えっと、……そうです。はじめまして。外が吹雪になりそうなので、寝床に洞窟を探してて……一晩、泊まらせてほしいのですが」
「あ、」
青年が、納得した様子でどうぞ、と手招きする。サヤカは、直感で大丈夫なひとだと判断した。即時の判断は、一人旅ではそれなりに大事だ。青年のいる場所まで、岩の横を通っていくにはいささか隙間が狭すぎたので、岩を乗り越えた。青年は、何でもない様子でサヤカの手を取りエスコートしていた。
蝋燭が二本、ゆらゆらと燃えていた。それだけでも周りはほんのり暖かい。背負っていた鞄を膝に抱え、さきほどまでの青年と同じように蝋燭の前に座り込んだサヤカに、青年がふと言った。
「吹雪……やっぱり春は来てないんだ」
「……そう、みたいですね」
ここが静かな洞窟でなければ聞き漏らしてしまいそうなほど、ちいさなこえ。初対面なことに気を使ってか、蝋燭を挟んで向かい側に座った青年が、サヤカのほうを少しだけ驚いた顔で見ていた。
……聞こえてないと思っていたのだろうか。
「今年、春が来るのがすごく遅いですね」
「そうですね……。もう、春になってもおかしくない、というか、春じゃないとおかしいはずです」
「私、前の町で、もうすぐ春が来ると思って服を揃えたので……すこし寒くって」
そう言って、蝋燭の炎に手をかざす。そのサヤカの仕草を青年の視線が追い、それから「指先真っ赤じゃないですか」と驚いたように言った。苦笑いで誤魔化したサヤカを、咎めるような視線が刺す。
逃げるように、サヤカは話題を変えた。
「私、サヤカって言います。あなたは?」
「あ、……僕は、マコトです。マコト・ルテージ」
よろしくお願いします、とマコトが小さくお辞儀する。どこか大袈裟なくらいに礼儀正しい彼に、サヤカもつられてぺこりと頭を下げた。洞窟の中に、衣擦れの音だけが反響する。
ふと目が合ったマコトの金色の目は、どこか憂いを含んだように翳りがあった。薄暗い洞窟の中、ゆらめく炎に照らされ、ときどき金色に光るそのひとみに、サヤカは一瞬だけ魅入られる。
そんなことも気にせずに、マコトは話を続けた。
「もう、日は落ちたでしょうか」
「たぶん。私がここに来たときは、もう暗くなりはじめてました」
「じゃあ、ご飯にしませんか? ……あ、サヤカさんが嫌でなければ」
「いいですよ」
そう笑って、サヤカは自分の鞄からパンを取り出した。それから、殻に入ったままのくるみをいくつか。食料はそれなりに蓄えている。冬季は森での現地調達ができないから、食料の蓄えは大切だ。マコトのほうは干し肉を持っていたらしく、大きな葉にくるまれたそれを取り出していた。
「パンとお肉、少し交換こしませんか? マコトさんが嫌でなければ」
口調を真似たサヤカの提案に、マコトが少し笑いながら頷く。持っていたふたつのパンのうちひとつと、くるみふたつを差し出せば、男性らしい手がそれを受け取った。それから、少し悩んだように言う。
「干し肉、炙ったほうが美味しいんです」
美味しいんですけど、と繰り返したマコトが、ちらりと蝋燭のほうを見る。もちろんこんな小さな火種では、間違っても調理ができるほどの火力はない。サヤカはああ、と頷いた。薪は重いから現地調達せざるを得ない。この降り積もる雪の中、湿っていなくてよく燃える薪をあつめるのは大変だ。「吹雪になりそうだったものですから」と、マコトは言い訳した。
サヤカはいちど、ぱちくりと瞬きした後、いたずらににこりと笑って見せた。
「じゃあ、炙って食べましょうよ」
「薪はありませんよ」
「それなら、任せてください」
「……炎の魔法使いなんですか?」
不思議そうな、それから少し寂しそうな顔をしたマコトを一瞬視界にとめ、サヤカはゆっくりと立ち上がった。それから、顔の前で指を組む。
不思議そうなマコトの顔も見ず、集中する。簡略化した呪文を唱えはじめれば、力がサヤカの周りを漂うような感覚があった。古代のことばで出来た呪文を詠唱しきると同時、どさりと重量感のある音が二人の間に響く。足元に積まれたのは、焚火にするのにちょうどいい形になっている、乾いた薪だった。




